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牧師の想い

牧師の想い - 「目ざすものがある」(2)

「目ざすものがある」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/15 1:10
 † 死する事への希望。
 今朝、ビートたけし氏が70才を超えて、「誰でも人間は死ぬということ」と、今後の働きについて語っていた。その中で、死については全く分からない。と言う事だった。日本人は、思い切り生きることに、全てがあると考えているようである。その心の奥深くに「死」とは、何か?その真実や意味が把握されていないからだと思う。教育が死生観には触れず成り立っているからかも知れない。私達も聖書を知るまでは、明確な死生観を持つ事は出来なかったのだから、無理からぬことである。聖書を信じる人々は、目ざして生きる目標がある。この世で神を知り、神の愛に触れ交わりを持っているように、死後には、永遠に神の愛の中で、交わり生きる確信である。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」ヘブル11・10)彼とは、アブラハムであり、私達のことである。このように聖書では「死」は、目ざす希望によって克服されている。主イエスの死よりの復活により、私達の死は永遠への瞬間的な体験とされるのである。ハレルヤ!

 † 自然と耕作。
 神戸育ちの妻が私の実家の田植えや、稲刈り脱穀に毎年手伝いをした。父親が病を負うまで、17年間は続いた。開拓伝道をする私達に実家からの米、醤油、野菜は私達の生活を助けてくれた。妻は、決してただでは貰うことはせず。米代は必ず用意した。そして、その村では、私達が最も手伝いをする者達として評判にもなった。妻が父親に尋ねたことがある。「米作りはどの位出来るのか?」父は60年と答えた。その時、妻は「たった60年ですか」と、父は思いもよらない言葉に驚いていた。自然という永劫(エイゴウ)の時の流れからすれば、60年は短いと考えられる。確かに、田舎は激しい変貌をした。あの田も、畑も雑木林になった。自然は規則正しく春夏秋冬をもたらすが、人間は社会変動に放浪されるのだ。私達の教会の隣りには田んぼがある。今は、晩秋の田起しがされ、黒々とした土が美しく見える。教会の働きも、季節を追って耕し、種を蒔き、愛情を持って育てるのでなければ、救いの収穫はない。そのためには教会の全員が、主イエスの収穫に、共に労苦する家族意識がある事だ。
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