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牧師の想い

牧師の想い - 「目ざすものがある」(1)

「目ざすものがある」(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/8 1:00
 † 何でもあり。
 アウシュビッツ強制収容所(ポーランド南部)で、生き残ったユダヤ人の人々を心理学者のV・E・フランクルは観察し「夜と霧」に書いている。「生きる事に意味を」持っていた人は、過酷な環境の中でも生き抜く力を持っていた。また、全てを奪われた(家族、地位、名誉)人であっても、人間としての尊厳を魂に持っていた(信仰ある人々)も、過酷さに耐え得る力を持っていた。そう記している。人間は意味のない事の中で、生きる事が出来ないと結論されるのだろう。そういう意味で、意味ある「目ざすものがある」ならば、人は生き続けられるのである。また、そういう意味で、目ざすものがあれば、何でもありとなる。ないよりはあった方が良いに決まっているからである。人はこの世では17,209種類の職業の何かにたずさわり生計を立てる、また何かを目指して幸いを得ようとする。それが人間の自然の欲求である。そして、全ての人に永遠不変の誰にでも与えられる、最も力強い魂の尊厳が用意されている。私達を造られた神が与えて下さる希望、滅びることのない永遠の救いと生命である。主イエスを知れば知るほどに、希望が湧き力を与えられる。

 † 目ざす者は青春。
 やるべき事がある人、目ざすものがある人は年齢に関係なく青春を生きているのである。そう語った人は著名な建築家であった。世の中は実年齢(生年月日からの年齢)で人を見る。しかしながら若くして老人がいる。一方で青春を生きる高齢者がいる。青春とは、という捉え方にあると言えよう。青春は実年齢の若さではなくて、その人の内面の若々しい情熱である。情熱のあるかなしかで見るならば、実年齢は関係なく、目ざすものがあって、生き生きと活動的な人が青春を生きているのである。そうしてみると、目ざすものが何か分からなくなっている人もいるであろう。しかし、心配することはない、ありのままの自分を、主イエスの前に正直に打ち明けることである。そして何が目ざすべきものか尋ねて求めることである。あなたの造り主は、優しく教えられる。はじめ気乗りがしなくても、その大きな意義に、目も心も開かれて、生き生きとした青春を取り戻せるのである。主イエスの御霊が情熱の源となられるからだ。
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