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牧師の想い - 「偉大な価値を現す」(7)

「偉大な価値を現す」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/1 1:10
 † 主なる神の実際。
 教会を迫害し続けていたパウロが、エマオの途上で復活されたイエスにまみえた。その神々しさに打たれて目が見えなくなった。主イエスの弟子アナニヤの祈りを受けると、目から鱗のようなものが落ちた。その時、聖霊に満たされたのである。サウロはすぐに洗礼を受け「そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」使徒9・20)あまりにも激しい変わり身であった。異邦人の使徒として主イエスに選ばれたのだが、主イエスと共にいた使徒達は、戸惑ったのである。なにを持ってパウロを使徒と見なすべきか?神学的(教理的)な理解力によって判断すべきか? エルサレムの原始教団の確信したことは、パウロと彼に従う者達に、主なる神が伴い、聖霊の御業が成されていた。これが確信を与えたのである。私達も同じように「神は我々と共におられる」マタイ1・23)と言って、生活の中に主イエスを招き、感謝を現して生きることである。聖霊様はそこに働かれ、信仰は増進し、活力が増し加わる。そのように、主イエスの復活の力が証明され、人々に証詞されるのである。

 † 私ではなく主なる神様。
 私の存在は、あまりにも小さいと思わざるを得ない。誠に「無にひとしい者」1コリ1・28)として数え得る。自らが無である事には大いなる特権がある。私は最小単位の[1]なら、主なる神はどれ程だろう。しかも「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」使徒18・10)と語られる。パーフェクトの神様は数字では表せない。主なる神は、全てに[100%]であられる。その、主なる神の子供に私はされている。無に等しいがゆえに、全てのものが神からのもので満たされる。無であると言うことのゆえに、現されたものは全て主なる神によるのである。このような驚くべき特権に預かるとは、あまりにも偉大で、主なる神を畏れるばかりである。使徒パウロの言葉が身に染みる「誇る者は主にあって誇れ」1コリ1・31)とあるとおりだ。この世は、自分を売りにする、自己顕示が重要とされる。しかし、それらは、もみ殻のように吹き飛んでしまうものだ。私達は神に召された者だから、自分に比重を置くよりは、主なる神に100%の比重を置くことである。
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