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牧師の想い

牧師の想い - 「流れの始めと途上」(3)

「流れの始めと途上」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/16 1:10
 † いま起こっている事。   
 新しいと言うことは、昨日よりは今日という事とわきまえる。聖書は、そういう私達に新しい思考を与えてくれる。「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道の書1・9)新しい製品や商品のことではなく「日ノ下」における、人間の問題が言われている。画期的な人間の新しいスタイルと言うような見出しに引かれても、既にその原型が昔にあり、新しいとはいえないと言うわけだ。私達が期待するリバイバルも新しいことではなく、昔からあったことであり、源流を訪ねて学べることに違いないのである。いま必要な、リバイバルは:未知の新しいものではなく、昔のままの様相で起こされるものであるだろう。神には変わりがない。私達は瞬間、瞬間を新しく迎えているが、新しいこれからに目を留めすぎていないか? これは考え物である。むしろ過去を、昔を顧みる謙虚さがあれば、画期的な新しいこととして、そのリバイバルが昔あったように、今、これから起こされるのである。リバイバルは過去から学ぶ人かち起きてきた。「昔起こったことは、これからも起こる」からだ。
 
† 尽きざる供給。
  真夏の高温が積乱雲を創り出すと、豪雨を伴った夕立が起こる。関東では8000の落雷が計測されたという。水蒸気が雲となり雨を降らせ、それが源流となり、川となり海に注ぐ。この循環運動が地球の生命体に命を維持させている。自然とは神の知恵である。聖書では「生ける水」として救いに関係ずけられている。「乾いている者は私のもとに来て飲め」ヨハネ7・37)主イエスを信じる人は、その人の魂から、生ける水の川が「川々となって流れ出る」のである。主イエスの与える水の不思議に圧倒される。生命と水が一体であるように、キリストが与える水は、永遠に涸れない生命の泉となる。私達が生ける水の源流として、しかも「川となる」多くを潤し、多くの生命を養う力をもつ。私達が主イエスにつながり続ける事によって、私達は泉となり、生命の水(神の恵みと祝福)をながしつづけられる。家族への真心となり、隣人への親切や、おもいやりとなり、新しい生命を生みだして行く事になる。誰れかを潤す喜びに生きよう。 
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