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牧師の想い

牧師の想い - 「流れの始めと途上」(1)

「流れの始めと途上」(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/8/2 1:10
 † 源流をたどる。   
 日本には四季にもう一つの季節があるという人が居る。それは梅雨である。日本独特なのかも知れない。今年はしとしとと降る雨ではなく、豪雨となって日本列島に洪水をもたらした。気象情報で日本列島が映し出されると、日本は山と川の国である。数え切れない谷が流れ、川となって合流し大海に流れ込んでいるのを見る。山間で子供時代を過ごした身には、谷と川は自分の成長と深い関係がある。どんな川にも源流がある。その幾つかの谷の源に探検したことがある。汚れない水が湧き出している所には子供ながら厳かな思いを抱いた。「清水に魚棲まず」とは、源流に近ければ不純物もなく、ブランクトンもいないし、水は冷たい。(ヤマメやイワナは清流に棲む)これを「人間潔癖である人には、人は従いつくことがない」と言うわけだ。余りにも観察的側面に過ぎると思える。私達の救い主イエスは、潔癖高潔においては、最高位の神であり「罪は犯されませんでした」ヘブル4・15)要するに高潔な主イエスには、愛と憐れみが溢れていた。これを見過ごしてはならない。私達は源流のように清らかであり、神の愛に満ちていることだ。人が棲みたいのは「清い品性と愛の中」である。私達の信仰はそのためにある。
 
† 流れの途上。
 長い千曲川をバスで眺めながら富山に行った事がある。どの所でも流れ続けている。どの時でも流れている。まさに変わり無きことを教えられた。天地創造を源流とするならば、主イエスの十字架と復活は完成である。その源流の終わり(完結)なのだ。主イエスの復活の後にある私達は、主の来臨までの「途上に」活かされているわけである。私達は、与えられている家族のために、身近な隣人と同族のために「地の果てにまで」使徒1・18)主イエスによる救いがある事の証人として存在する。どんな時にも、どんなところでも、神の生命の川は流れている。その現実を生き生きと生活させてくださるのが聖霊様である。証詞をしたいけれど、どの様に語るべきか言葉がわからない時、「・・・・どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです」マタイ10・19) 「証し人」の助け主として知恵と言葉を与えられる。
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