トップ  > 牧師の想い牧師の想い > 「神が望み世が求める」(7)

牧師の想い

牧師の想い - 「神が望み世が求める」(7)

「神が望み世が求める」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/7/26 1:10
 † 当たり前を求める。   
 私達も世に在る限り世の人である。等しく肉を纏っているのでやむを得ないわけだ。地球規模から見れば日本は小さい。しかし、固有の歴史と文化を当然持っている。その中での「当たり前」(常識・安心)を求めて生きている。日本人は無意識的に培われた感覚の当たり前を、物差しとして、自分と人を測る。だからこそ「当たり前」だと思えないことには極度な拒否反応を示すのだ。近年グローバルゼーション(従来の国家・地域の垣根を越え、地球規模で全ての物事を考える)を掲げてきたが、日本人の感覚は「当たり前」の垣根を越えることはない。日本人は依然として意識改革も、霊的改革も自ら行う事はない。日本人として、昔ながらの当たり前を求め続けるのだ。まさに、主イエスが戦われたのも「当たり前」との対決だった。「こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです」マルコ7・13)私達も、この国で同じ戦いをしている。

† 神にはなんでも出来る。
 世におられた主イエスが、どのようにして過ごされたか?これは重要である。何故ならば、私達の生活の有り様を指し示すことになるからだ。主イエスは言われた「・・・・人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」マルコ10・27口語)まさに、そのように生きられた。まさに、主なる神が私達に求めておられる私達の「信仰の持ち方」なのである。これまでの出来ない事の多さに、結果のない多さに、私達の魂は萎縮し、信仰はふるわれるだろう。それこそが悪魔と世の力が喜ぶところである。しかし、神の信仰は違う「無から有を呼びだされる神」ロマ4・17)を信じることである。私達もアブラハムと同じように、自らに完全に不可能を認めて良い。しかし信仰は「神からの賜物」エペソ2・8)である。人間の状況や、見ている世界に歪められない。「神には出来る」完全に、肯定的に「神にはなんでも出来るからである」この時代に主イエスが信仰を告白されたように、私達にも、主なる神はお求めである。主なる神に全てを期待出来る事は何と幸いなことか。ハレルヤ!
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (45)

トラックバック

トラックバックpingアドレス https://www.fvc-kani.jp/modules/omoi/tb.php/719
牧師の想いカレンダー
« « 2020 8月 » »
26 27 28 29 30 31 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 1 2 3 4 5
Login

ユーザー名:


パスワード:




SSL
パスワード紛失 |


top