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牧師の想い

牧師の想い - 「引き出される」(6)

「引き出される」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/8/11 1:00
† 命を引き出す水。   
 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3節) 真夏の日照りが35度以上で12日以上も続く今年、まさに水路の重要さが身にしみる。鉢やプランターに植わっている草花や野菜それに木は毎朝大量の水を注いでいる。ミッションセンター「アーク」の西には通路の両側に芝生が植えてある。片方は電柱移設工事で荒らされ芝生がほぼ失われた。それを復活させる作戦を昨年から始めた。芝生の際に田んぼの排水路が設けられていて、田植えと同時に8月下旬まで田んぼの排水がなみなみと流れている。雨期は関係ないが猛暑と日照りが続く今こそ水路から無料で惜しみなく水をくみ上げて芝生の上に播くのである。芝生がほとんどないような場所に2年目で芝が根を張り80%まで緑が増えてきた。水はいのちと直結しているように、主イエスも言われる「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ14・4)主イエスが与えられる生命の水を惜しみなく飲む人は、多くの幸いを得ること間違いなし。

† 高嶺を目指す人。
 絶対に私には無理だと確信できる。それは山岳登山である。切り立った垂直の岩肌に鋲(ビョウ)を打ち込みながら昇って行く、しかも下は千尋(センジン)の谷。テレビで見たのは、二人が4000メートル級の冬山登頂記録だった、出来る人はすごいなの一言だ。この方々の勇気と技術(賜物)に称賛あるのみだ。あり得ないことをやってのける人を見ると、私の目指す高嶺とはなんだろう?人類共通の目指すべき高嶺とはなんだろう?と思う。目に見える高嶺ではなく、ここにまで来いと言われているような高嶺に違いない。覇権的な戦いを勝ち抜いて高嶺に達することだとすれば、人類共通とはならないので、そういう競走的なものでは無い。学歴や業績に関係がなく貧富の差にも影響されないで、求められるべき高嶺であるべきもの。登山家のように命を賭(ト)してまでも挑戦できる魅力に満ちたもの。・・・・私は確信する。「主イエス」の 魅力に引きよせられ、主イエスを知り、主イエスに全てを満たされることがこの世にあって高嶺である。なお、それ以上の完全が延長線上にある。最高の高嶺は完全に直接に神を知る。誰の教えや解説を要しない、直接に神ご自身が私の全てとなるからだ。これが至高の高嶺である。
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