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牧師の想い

牧師の想い - 「立たされている」(3)

「立たされている」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/2/24 1:00
† 立つ者の痛み。
  聖書の中で忘れることの出来ない記事は士師エフタ(士師記11章)である。アモン人と戦う前、主なる神に誓願を立てて言った「私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます」31節)実にその戦いにおいて主なる神はエフタに大勝利を与えられた。そして自分の家に帰ってきたとき、唯一人の最愛の娘がタンバリンを鳴らし踊りながらでてきたのである。イスラエルの神への誓願は厳格に果たし尽くすべきもので、エフタは誓願を全うした。このことはイスラエルに律法の厳格さを思い知らせた。「主の霊がエフタの上に下った」29節)のであり、その働きと功績は非常に大きい。主なる神に立たされていたがエフタには大きな犠牲となる痛みがあった。神によって立たせられる事はこの上ない祝福である。しかし、犠牲や痛みが取り去られるということではない。

† 誰もが立てる。
  このことは重要である。それは「立たされる人」はある特別な人々だけではない。使徒達を見ればわかるようにガリラヤの漁師達であった。彼らは学識はないが実際の具体的な日常の生活を生きる中で人間のまことを知っていたのである。これらの人々がついには国を司る人々の議会の中で対等にしかも彼らを論破しているのを見る。使徒5・27-32)このように霊に満たされた徒人(タダビト) が必要なのだ。神の霊に導かれる普通の人が重要である。神を知った事によって与えられる大胆さこそが神の与える知識なのである。救われて神を体験して与えられるた勇気こそが愛となるのである。誰でも主イエスとの出会いを通して与えられ生み出せるのである。ただ、一つの事が大事だろう、それは突き進むことである。計り知れない愛に、計り知れない叡智に向かって、たゆむことなく突き進む事だ。継続し続ければ、神の霊の中に入れられている事を知るだろう。
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