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牧師の想い

牧師の想い - 「立たされている」(2)

「立たされている」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/2/17 1:00
† 信仰に立って生きること。
  今、生きていることは、かけがえのない人生の毎日なのである。私達は聖書を知り全能の神を知った者として偉大な日々を生きている。アブラハムや信仰の人々は「約束のものを手に入れることはありませんでしたが」ヘブル11・13)偉大な希望に満ちてこの世を生き、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」そのようにして生き、世を去って行った。実に「生きる」事においての完全形である。主なる神がこのように彼らを立たせて下さったのであり、私達も同じく立たせられている。地上に生きることにおいても、アブラハムはその時代の中で最も富んだ者とされた。このように信仰とは地上的で現実的な神の支配と力を伴う。私達も同じく信仰を持った聖書の人々と同じく、輝かしい希望である再臨のキリストが間もなく来られるのだ。一人の救いのために福音を伝える事が最重要である。なぜなら、神のご計画が歴史上急激に進んでおり、最終段階を迎えているからだ。神の時、福音の完成の時が近付いている。

† 真実に立てる位置。
  私達は以前から知っていたことを棄て去らなければならない事に直面する。特に私達クリスチャンには顕著に起こることである。旧態以前として変わらないならば、先に進まれる主イエスについて行くことが出来なくなる。福音の真理が開かれ光りを放つことに接することは、神を愛する者にとっては嬉しい出来事であり、喜びであり驚きである。このためには私自身が自由でなければならない。余りにも出来上がった考え方や、教え(神学)に固執すると、融通の利かない者となる。新鮮な主なる神の御心にふさわしくなくなる。使徒パウロは誇り高い学識あるユダヤ人としてのアイディンティティ(プライド)を糞土の如く棄て去ったのである。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」ガラテヤ2・19共同訳)現在形で、いつもキリストと共に死んでいる。これがフレキシブルな真実の立ち位置である。多くの場合プライドや自意識があるために、自分を変える機会を失い聖霊様との隔たりを持ち続けてしまう人がいる。・・・・計り知れない損失となるので注意しょう。
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