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牧師の想い

牧師の想い - 「こだわりを持つ」(3)

「こだわりを持つ」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/1/6 1:00
† 謙遜のまこと。
 さまざまな人格との出会いが人生の多くを学ぶ機会である。教会人であるならば、皆おなじ信仰を持つが賜物は異なっている。それはキリストの身体を補い合う互いの特質であって麗しいものである。しかし、私達の人格はキリストに似る者となるようにされている。私達が天国に持ち帰れるものはこの世で培われた人格(品性)である。信仰生活のこだわりがこの人格(品性)の成長に向けられることが重要だと私は思っている。私達は自分の中に神によって結ばれる「実」を結ぶのである。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」ガラテヤ5・23)この事に、こだわりを持たないと謙遜のまことの意味がわからなくなる。字義的な謙遜を知るに留まらず、いのちを産む具体的謙遜に進むためにはキリストの品性(人格)に近づいて行くことが肝要である。その時、謙遜の何たるかがわかる。

† 自分の根に気付く。
謙遜はどの様にしてわかるか?前項に掲げた事によってもわかる。しかし、他にも多々ある。謙遜傲慢ということばがあるように、謙遜を振る舞いはするが頑なな傲慢さがあること。また、極度の劣等感、心因的な原因による卑屈さが謙遜の中身である事もある。たとえ、どうであれ健全さはキリスト以外にはない。私達罪人は、どこかに自己意識が働いており、自己尊厳のための言葉使いをし、隣人を低めたり、卑しめたりする。これこそが「その人の根」なのである。自分の「根」がキリストではなく自分にあるならば、どの様な振る舞いの中にも「自分を認めさせたい根」が息づいているのである。キリストは偽善者と対決されたように、聖霊は私の内に偽善的な根がある限りにおいて十全に伴われることはない。聖霊が伴われるためには、自分の根を葬ることにこだわる事だ。
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