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牧師の想い

牧師の想い - 「人の立つ位置」(7)

「人の立つ位置」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/16 1:00
† 自分の実在の場所。
  大上段に構えて「生きる」を考えるとするならば、この10行ほどで言い表すことはアホ見たいな話である。しかし、自分が世にあって生きるとなれば、世界の中の自分の生きざまを立位置にする。普通、人間が自分を言い表すときには家族構成や、関わる国や地域、学業や仕事や組織などの置かれた環境から自覚された自分を語る。しかし、世界などに左右されないキリスト信仰に生きるとすれば、神の中に自分の立位置が生まれる。「・・・・私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)世界(世)の中にあって世に在らずと言う立位置が現実となる。世の中の希求する方向とは180度違っているわけである。国籍が地上にない私達は「キリストのおいでになる」のを待ち望むのである。たとえ私が一国の長だとして最善の働きをしても「心は」天の国籍に在るのである。私達は霊知によってこの世に国籍がない事を知っている。この世にありながら「神の中に生き動き存在するのである」使徒17・28)

† 主にあって喜びなさい。
  聖書によれば私達は「力から力に進み」 詩84・7)絶えず「主にあって喜ぶ」ピリピ3・1)者とされている。しかし、そうではない事が最大のキリスト者の危機である。観察をしてわかることは、キリスト者なのに喜びがない。キリスト者なのに力から力へと進んでいない。救いとは「主にある者」とされたことである。そのこと自体が爆発的な喜びであると使徒パウロは語っている。主に在る絶大な広さ、高さ、深さを、キリスト者は探究し発見して、ますます大きな感謝と喜びに満たされるのである。聖書の語る喜びは「主に在る」事によって泉のように湧き上がってくる。それを置き換えて「何かをすること・何かが出来る事」を喜びにしているとするならば、そのたぐいは時と共に枯れてなくなる。たとえ奉仕がなく、何も出来なくても「主にあって喜ぶ」信仰が重要である。「主に在る」ことが私の全てです。と告白しょう。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)
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