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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「繰り返し繰り返す」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/9/22 1:10
 † 金魚の代替わり。   
  無意識のうちに繰り返されていることを思いつく。先日のことだ、いよいよ田んぼの稲が色づいて用水が止められた。この近所の用水は隣町にある御嵩町の松の湖(鬼岩公園)から引かれている。田に注がれる出水口の下にくぼみが出来て、辛うじてまだ水が残っていた。そこに小魚(銀ブナの稚魚)がいた。それに二センチほどの川エビも捕らえ我が家の金魚鉢に入れたのである。先住の金魚とも相性が良く異色の二匹体制になったのである。我が家にはネコも犬も鳥も飼われていないが、金魚とは四十年来のお付き合いをしている。発端は夏祭りの金魚すくいで持ち帰られた金魚が最初だ。金魚は何代にもわたって私の友となってくれた。私が近付いても逃げないが、他の人のタイミングには移動してしまう。小さな生き物でも、プランターの植物や観葉植物にも世話をする愛情は、いつしか自分の性格を豊かにする一面がある。彼らの命は私の意志に左右される運命にあるわけだが、私もまた主なる神のご意志の下に生かされていることを畏れを持って学ぶのである。

 † 直線的らせん。
  螺線(らせん)とは、下から円形を描きながら上に向かう階段を思い浮かべる。聖書の時間感覚は輪廻転生のような円環ではなく直線である。初めがあって終わりがある。地上的歴史の時間を最終時刻間際として見ている。聖書は私達の人生を最後の時(終末)から推し量って健全に生きることを勧めている。私達の人生は初めがあり終わに向かうが、螺線を描きながら直線的に進んで行く「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる」伝道3・15)個人の歩みにおいても春夏秋冬が毎年あるように、同じような出来事に遭遇して信仰を学び、霊的・人格的にキリストの身丈に近ずくように設計されている「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12・11)主にある勝利を豊かに体験して、神の国の中に生き続けて行くのが私達である。
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「繰り返し繰り返す」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/9/15 1:00
 † 十年繰り返して。   
  十年ひと昔というが、私達夫婦が十二年間繰り返している実践がある。それは毎週月曜日に、二才になった最初の孫(現在十四才)に始まって小学就学時まで、現在六才の6人目の孫と可児市内にある「花フェスタ公園(世界のバラ園)」に行く事である。これを春夏秋冬、毎週の行事として来たのだ。毎回の事だが公園施設を巡り三キロメートル近くは必ず歩くことになるのである。手作りの弁当を妻が作ってくれるので、これを夏は冷房が、冬は暖房がされている「ボールプール」のあるホールでひとしきり遊んでから昼食を食べる。春や秋は公園内の野辺にあるベンチで遠足気分を満喫できる。孫達の運動能力向上を願いながら私達との屈託のないコミュニケーションを作ること。帰途にはアイスクリームのご褒美があることで、楽しみがあることだ。フレスビーや子供用の柔らかなサッカーボールなども持ち込んで遊べるので上達を大いにほめる機会ともなる。何よりも私達夫婦の休日を必須である歩行という健康に繋げている事でもある。一石二鳥以上の善いものを感じる。

 † 神はその時まで待たれる。
  老祭司ザカリヤの物語がある。妻のエリサベツも祭司アロンの子孫であった。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」ルカ1・6)この記述に感動する。神を畏れ愛する者は、落ち度なく「誡めと定め」を繰り返し何十年も踏み行う事が出来るのだ。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりませ」1ヨハネ5・3)神に愛されて愛の中に生きる者にとって、主の命令を守ることは「重荷」ではなく、喜びである。神の子供は、これを繰り返し生きているので悪魔に打ち勝っているのだ。ザカリヤはそのように生きており、その当番の時に主の神殿に入って香を焚くくじに当たった。聖所の中に入ると、神の御前に立つ御使いガブリエルが香壇の右に現れた。そして驚くべき祝福が告げられるのである。不妊の妻エリサベツにヨハネが産まれ、このヨハネはイスラエルの多くの子らを神である主に立ち返らせると御告げを受けた。ここに全てのクリスチャンへの励ましがある。神を愛して信仰を生き続けることだ。信仰を重荷としてしまうとザカリヤのような祝福から遠のくからである。不平と不満は神の愛を見失っている時に生まれてくる。初めの愛に立ち返り主を愛して歩もう。
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「繰り返し繰り返す」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/9/11 12:20
 † いつもより頼む。   
  魚は水の中にあって生息するように造られた。それで水を離れたらたちまち苦悶(くもん)が始まる。周知の事実だが、この道理が人間にも当てはまる。オーガスチヌスは「神は私を神ご自身のために造りたもうた。ゆえに私達の心はあなたの懐(ふところ)に憩(いこ)うまでは安らぎを得ない」という名言を残した。この「心」と言う意味は人間の存在全体を象徴する「座」のことで単なる心のことではない。主なる神の懐に憩い続ける事が大事になる。なぜならば平安で在り続けるからである。かつて三浦綾子さんは礼拝を怠ると平安を失うと書かれた。それは、神により頼んで生きるようにされた人間である事を、如実に感じられておられたからである。私達は一回的に神に救われるが、それでもう良いのではない。いつもいつも神により頼んで憩い、平安を持続し神の愛を実感して生きるのである。自らに言い聞かせる言葉がある「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3・6)場所や状況に応じるだけでなく、繰り返しいつも主に依り頼み続けることである。

 † 繰り返して効果が。
効果が如実に現れると言うことは本当に喜ばしいことである。特に健康に関して数値が改善し正常になったとなれば、そのうれしさは大きい。先日、驚いて聞いたことがある。ある50代男性だが高血圧で悩み五種類ほどのサブリメントを長期間にわたり試されたが、ほとんど効果がなかったそうである。そこで調味料として粉末にされたウコンとパプリカを料理に振りかけるなどして採り入れた結果、驚くべき効果が出た。血圧の上が125になり安定しているそうだ。これは朗報である。私は最近健康診断にいったが医師の前では血圧が上がるタイプで血圧の上が150近かった。昨年は127だったので驚いた。三回くらい血圧を測るとぐっと下がるのだが今回は2回目でその数値だった。それにしても実証済みの報告であるからこれに勝る喜びはない。私の場合大方において血圧を制覇すればほぼ数値は守られる所にある。私も取り組んでみるが、ある方々にも朗報であるだろう。最低6ヶ月間は繰り返して試してみたい。スーパーの調味料棚を見るのが楽しみになってきた。
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「繰り返し繰り返す」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/9/1 1:00
 † 実力をものにする。   
  「たたき上げ」という言葉がある。昔は師匠に弟子入りして苦労しながら、いっぱしの職人や芸人になる事を意味していた。要するに下積みから出発し実力を身につけた人の称号とも言える。一方、世襲などによって役職などに就く人や、下積みを経なくて役職に就くエリートとの対義としてあるのが「たたき上げ」である。現代の研修や訓練も一種のたたき上げの要素を持っている。初歩的な事を繰り返し繰り返し行い、身体と心が、言葉と態度がその人の常態となるまで行う。次のステップは高度な内容、新しい技術を要するもの、これを繰り返し繰り返し履修(リシュウ)して自分の術(ワザ)にするのである。こうゆう段階を5年10年と積み重ねて押しも押されぬ実力者になる。同時に大切な事は多くの失敗と不出来を経験してきた人でもある。その事の方が身にしみて実力を生みだすのである。使徒ペテロが主イエスと寝食を共にした三年の月日で主イエスの言葉と業を学んだ。しかし、本当にペテロを使徒としたのは主イエスの名を三度拒んだ大失態である。ルカ22章)しかし復活された主イエスはペテロを赦し愛された。この事でペテロは、繰り返し繰り返すキリストの愛の深さに生き続ける事になったのである。

 † 時代と信仰生活。
  聖書学校の校長が神学者の集まりで語った「在学中に一人も救いに導けない神学生に卒業証書を手渡すべきだろうか?」と、実体はそういう神学生が牧師になるのであり、説教を語るのである。日本という未伝地(人口比2バーセント以下)では宣教能力が教会の生命線である。人々を救い出すことが日本の教会の急務である。救われた私達が神の愛によって活動するのが宣教であり、これが成人の信仰である。福音を自己中心と自己満足に留めるなら幼子の信仰、未熟な教会を形成することになる。さて、戦後の復興期と共に福音宣教は果敢に行われた。宣教師と日本人伝道師は宣教を拡め信徒の群れを各地に生みだした。当時の私達若者は野外伝道に立ち、路上で若者に伝道をして集会に導くのが礼拝前の当然の奉仕だった。人の行き交う路上でマイクを握り初めて証詞をした時を思いだす。恐れと緊張で震えていたが鮮明に何を語ったか覚えている。そういう繰り返しをしながら福音と宣教が一体である信仰生活を通った。現代の宣教も変わりなく同じである。人々に届くまことの知識を豊かに持つことによって、人々を復活の信仰に導く能力を身につける事が出来るのである。
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「繰り返し繰り返す」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/8/25 1:10
 † 繰り返しの驚異。   
 私が独身で働いていた作業所には、色んな人が訪れてきた。私達の仕事が生活に密着した木工製品を作っていたからだ。また、ある時は家に出かけて修理などをする事も多く、地域の方々と親しい間柄が出来ていたからだ。ある日、ちょくちょく顔を出されて世間話をしてくれるお年寄りが来られた。とんちの効いた賢い方で次のように話された。「人間一生の間に食べる飯(マンマ)は茶わんで列べると3,6里になる」1万4千400メートル(ご飯茶わん10センチ)で一日五杯の計算で80年間とした場合だ。昔は今よりもっとご飯の摂取量が多かったので不思議はないが、聞いた時にはギョッとした覚えがある。そんなにもなるのか、と言う驚きであった。当たり前のように食べていることへの不思議、全ての人に(飢餓にある多くの人がいるが)主なる神は「太陽を昇らせ雨を降らせられる」マタイ5・45)ように私達に最も必要なパン(食)を与えておられる。私の一生のためになんと驚くべき恵み、祝福であろう。これを図式化し、数値化すると脅威でしかない。

 † 三度目の正直。
 これは大学受験合格のことではない。三度目くらい繰り返して「わかる・ものになる」という意味で捉えたい。小説とは違い牧師が学ばなければならない本は一回読みではものにならない。下線を引く程に重要であっても脳裏に残らない。それは私だけのことなのだろうが、著名な学者が言うのには、一回目はパラパラとめくって読む、二回目には普通に読む、三回目には徹底的に活用的に読むのだそうだ。確かに、それくらいくりかえして読んで自分の本になると言うことだ。それと同じくらい実際的なのは、とにかく何回も繰り返して同じ所を開いてみると理解したことと自分がようやく一体となると言う事が私流である。600頁に及ぶような学問書は三年がかり以上、開き続けないと大切な事柄をつかみを損なう。また、そうすることによって何がどこに書いてあったか記憶が生まれる。三度目の正直は、本を読解するためにも当てはまるのだ。ドナルド・キーン氏が言われた言葉を自分にも当てはめる「読むことも書くことも出来なくなった時が私の終わりである」キーン氏のその時は90才だった。
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