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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「不遇と優遇」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/6/13 1:00
 † 自分を識る事。
 夏の日差しの中を、虫が飛んでいる。夜には蛍が飛び、カブトムシさえも外灯に見られる。のどかな平和が感じられる。所が、ある人が見ていて気がついた。夜たき火をしていたら、火の中に虫が飛び込んでいた。「飛んで火に入る夏の虫」である。この虫たちは本能的な回避能力がなく、身を滅ぼす火の明かりの中に飛び込んでしまうのである。これは「自らを知らない」悲劇である。バビロンの王ベルシャツァルは、自分の大いなる権勢を誇り、傲慢にも主の神殿の器で、貴人から側女まで酒盛りを行った。すると、その場の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・バルシン」と文字が書かれた。王と、その場は恐怖に襲われた。ダニエルがその言葉を解き明かして言った。メネとは、あなたの治世を数えて終わらせられたこと。テケルとは、あなたが、はかりで量られて「目方の足りないことが解った」と言うことです。王としての器量が足りない。これがバビロン滅亡の原因である。私達も、自分が今の順境と優遇を作っていると思いやすい。しかし、主なる神のはかりに量られると「目方が足りない」とされる。これが最も不遇をもたらすのである。本当の自分を識っていない事にある。高慢を退けて、謙遜を身に纏う学びをしよう。

 † 地上は神の御国。
 賛美歌90番「ここも神の御国なれば」 (This is my Father's world)は愛唱歌の一つである。神は「世を愛された」ヨハネ3・16)この私達の世界を慈しみ愛しておられるのである。神の子である私達は、この世界に生きることを「神の御国」とし、全てに神の御業を見て、感謝し賛美するのである。今、学び教えられている所では、悪魔がこの世を用いて、人々の欲望に訴え、人々を神から引き離している。けれども、次のように、歌うのである。「よこしま暫(シバ)しは 時を得とも 主の御旨のややに成りて あめつち遂には 一つとならん」私達は世界に起こる不遇の悲惨さを見ている。しかし、私達は、御子イエスを信じる勝利者として、神なる主を誉め称える。それは感謝と賛美の力である。私達が主にあって「ここも神の御国」である。という喜びと賛美を大きく現してゆくならば、その甘味な香りは人々を引きよせる、世のオアシスとなる。これは、主にある者しか出来ない使命であり、日々の務めである。
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「不遇と優遇」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/6/6 1:00
 † 終わりが善いこと。
 地上の生活には、初めと中間と終わりがあると見極める。初めとは生まれである。どこで誰から産まれたかが、大きな出発点ともなる。出生と共に将来が決定している人が大勢いる。このように既成の環境に左右されるのが人間であり、不遇の中に置かれる多くの人もいる。このように世の中に全ての人が歩み出すが、世の中は曲がりくねり、人々は翻弄(ホンロウ)される。戦争があったり、天災に見舞われたり、急激な経済社会の動向に行き場を失ってしまうのである。今日のコロナ感染による経済的打撃は測り知れず、不遇に巻き込まれた人々は測り知れない。これが人生の中間である。「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい」伝道2/22-23)王に生まれても奴隷に生まれても、同じ結末「死」に行く着くことをソロモンは「これもまた虚しい」2・15)しかし、これが人間の全てではない事をソロモンは語りたいのだ。この世の優遇と不遇を一掃する、救い主イエスが地上の栄華の全てに優る、生きる喜びを与えられる。メシヤ・イエスを信じる者には「笑いが絶えず愛が溢れる」救いの優遇を受けるのだ。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」伝12・1

 † その日まで。
 その日まで善かったと書かれている「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」マタ24・38)我が世の春、と言うほどに人々は、神の警告など意に留めないで楽しみ喜び、幸せの追求をしていた。神の警告など、人間には不遇であり、あってはならないものと言うのが人々の理解であった。しかし、人間の都合が優先する事はないことを覚えたい。私達には神の業「主イエスの十字架」があるように、ノアの時代の人々には、徴(シルシ)があった巨大な箱船である。洪水など起こらないという常識は「その日まで」であった。箱船の戸は開いていたのに、人々は誰も入ろうとはしなかったのである。人は快楽と欲望の中にいる時は、神の言葉は、自分に不遇をもたらすと感じる。しかし「その日」は必ず来る。審き(洪水)が来る、その日である。
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「不遇と優遇」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/5/30 1:00
 † 世界の不遇を思う。
 世界のトップニュースがNHKのBSで流れる。総じて言える事は、生きている人間の悲惨さである。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人」ルタ13・4)の記事があるが、その拡大版が現代である。火山噴火、地震と津波、洪水と干ばつと火災。この世界的現象で、不遇に見舞われる人々は数え切れない。平和な日常の集いに向けられる無差別の銃撃。人の自由を脅威として同族民を弾圧する様々な国々。そこには、億単位の人々が、不遇を強いられている。対岸の火事のように眺めているなら私達も問題である。イエスは言われた「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」ルカ13・5)神なる主の観点は「悔い改めていること」で、不遇を一蹴する「永遠の生命」を持つ事である。神なる主は、この不遇の世界を見つめて言われる「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」1ヨハ5・9)悪しき者(サタン)が関与する世界は、悪しきことも通常となる。不遇の中で優遇される人生は「・・・・人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4・7)

 † 愛せる者が勝つ。
 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」1ヨハ5・5)信仰があっても世に勝てないと思うなら、主イエスに救われた自己に関心を持て。全世界を手に入れるよりも優る、朽ちない命を、神なる主は、あなたに与えられている。(マタイ16・26)それほどに神に愛されているのに、神への愛が乏しいと、神の賜物である信仰が泣いている。また、神の子供とされたことを、自分自身で認めて喜べないならば、主イエスは嘆かれる「私が彼に特権を与えたのに、喜こんで生きていない」と。人が自分自身を神の愛の中で受け入れることも、自分を愛する事もしていない。これでは、神の子供として、世に向かって勝利宣言はしづらい。サタンの要塞(ヨウサイ)は、個々の人の内にある。主イエスは真理の自由をあなたに与えたのだから、人(あなた)が神の愛で自己を赦し、自分が自己の全てを受け入れるのだ。それでサタンの要塞は砕かれる。解放と真の自由が生まれる。自分が自己を愛し受け入れると、世に勝つことと優遇された世界を持てる事になる。
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「不遇と優遇」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/5/23 1:00
 † 人間の目には不可解。
 「私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」伝道10・7)この情景は知者であるソロモンにも奇異に思えた。この世に起こる悪の一種だと言う。この世の君(サタン)の支配の中では、このような不遇は、当たり前の世界なのだと考えた方が良い。オートマチックに人格者が優遇される世界ではないのである。「この世に引き出されたいならば、目立つことをしなければならない。現場では、目立つ服装をして監督の目に留まるようにし、人一倍働くことである。そうすれば監督の印象に残り、新しい仕事を任せられるようになる」というアメリカ版の話を思い出す。現実の世界は、愚か者が非常に高い位に就いていたりする。裕福なナバル(1サムエル25章)は高慢な愚か者であった。流浪の王ダビデと部下は、ナバルの下僕たちの難儀を誠実を尽くして助けた。ダビデ王は謙遜を示し部下をナバルの許に表敬訪問をさせたが、ナバルは酷(ヒド)い侮辱を加えて追い返した。神と伴なるダビデ王が、ナバルの一族の聖絶に歩を進めたとき、聡明なナバルの妻が身を挺(テイ)してひれ伏し、赦しを求め釈明をした。ダビデ王゙は血を流す不遇の状況から、この上ない神に優遇される状況に変えられたのであった。まさに、不遇に終わらせない神の摂理(干渉)があることを教えるのである。

 † 不遇のまま終わらない。
 「マイナスはプラスになる」また「悪いことは良いこと」これらは私達の常套句である。この世界は一面識な世界ではなく、多面識な世界であることを、私達は体験的に知っている。不遇(試練)は何を生みだすか?信頼である。 それは忍耐である。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」 ヤコブ1・4)忍耐は、私達の神への信頼(信仰)によって全うされ、欠けのない成長と、人として全き者になる。これは現実的な不遇(試練)の目的だと聖書は語っている。今、不遇の真中にあると思える人は、主なる神が共に働いておられる。あなたの信仰(神信頼)が確かなので、地上の価値では測れない、天上にある主イエスの宝(価値)を手に入れるのである。そして、地上で真の勝利者となる。勝ち得て余り有る者となる。必ずそうなるのだ。ハレルヤ!
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「変換される歩み」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/5/16 1:00
 † 終末への変換。
 この5月の山野は、新葉が日に日に盛り上がるようにして私達の目に迫ってくる。公園に一週間ごとに訪れるが、この季節は生命の旺盛な変化に驚くばかりである。木々はこれを何百年も繰り返し大樹となる。生命の輪廻の姿であり神の御心とされるところだ。子供の頃の思い出にあるのは、すぐ裏山に楢(ナラ)や樫(カシ)の生い茂る原生林があり、巨木が立ち並んでいた。かくれんぼにも良く、国定忠次気取りで、チャンパラをしたものである。しかし、人間は良き管理者ではない。森林を伐採し、花粉を撒き散らす針葉樹に変えてしまった。大地はどうか世界的な大規模農業と化学肥料によって深堀りされた大地は痩せ細り、実を結ぶ力を失い続けている。旺盛な力を持つ大地も不毛に変えられつつある。美しい空気も経済のための工業化優先でCO2(二酸化炭素)は、地球規模の気候変動を生みだしてしまった。ウイルスの脅威も原生林を開発することによって起り、人間の欲望から引き起こされるものである。管理の出来ない人間は、この先も同じ事を繰り返すのだ。終末への変換は、ずーと以前から進んでいる。

 † 喜びへの変換。
 真理は驚きである。発見が驚きであるように、真理は驚きを伴う。驚きを伴わないものは、本当の財産にはならない。知識にとどまるものである。聖書を持つ人々、聖書の解き明かしを聞く人々は幸いである。なぜならば、真理に出会い驚き、驚愕するからである。その真理こそ永続する喜びに変換されるのだ。真理とは神ご自身であり、秘義なるお方である。このお方について、絶えざる関心を持ち、自己の全てのセンサーを動員して、神ご自身に、そのお言葉(聖書)に正面から向かうのである。日々に新しい発見をするはずである。そして驚きを得るためには自己自身が静まっていなければならない。潔く謙虚であるということである。それとは反対に、自己意識が旺盛で、自分の才能や能力に重心があると、真理は単なる知識であり、道具である。真摯な喜びには変換されないと思う。真理は喜びに変わり、真理は真の自由に変わる。愛される神の子供として、アバ、父よ。と、神のふところに飛び込める人となれ。その父のふところには、慈しみ深い驚きと感動のみがあるから。
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