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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「焦点を合わせる」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/11/10 1:50
 † 喜びの源。   
 「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」イザヤ12・3)私達の生涯(人生)の喜びについて、はっきりと教えてくれる御言葉である。何を喜びとするか、が人生を決する。世の中は人間に喜びを提供する事に躍起になっている。人間が喜びを求め、喜びに生きる事を知っているので虜(とりこ)にしたいのである。あまたの娯楽によって人間を捕らえるのがこの世である。問題なのは人間は更に喜びに刺激を求めるということである。それを知って世の中は刺激の度を増してゆくのである。クリスチャンが一番注意しなければならないことは、主イエスが至高の喜びとなっているか?ということである。「主を喜ぶことはあなたがたの力だからだ」ネヘミヤ8・10(2017新改訳) この実体なしに信仰があるならば焦点が大きく狂っているのだ。多くのクリスチャンの間で、主イエスが、救いの泉であり、喜びに満ちてその水を汲む事がない。ことである。言葉上の御言葉としてではなく、主イエスを現実の喜びとして体験する信仰を持つことである。あなたの力は神の力となる、それは主を喜ぶこと。これを求める事を焦点にすべきだと思う。
 † 極論か真理か?
 標準と言うことを考える時に浮かび上がることだが、自分の見る(考える)位置によって相当な開きが生まれてくる。世の中の一般的な基準ですら幾らでもあるように、自分の立位置からの標準が生きていると思うのである。例えば、ある人が許容している事が、自分は許容しない立場を取れば標準とする内容が違ってくる。その違いによっても焦点とするところが変わってくる。私が「焦点を合わせる」ことについて書いたとしても大多数の同意を得るとは限らない。多分、厳しすぎると思われる。あるいは極論だと思われるのだ。一人一人が自分の標準を持っているからである。標準以上の事柄や示唆に対しては強要されているようで受け入れ難いのである。しかしながら、私達はクリスチャンなので聖書の指針(真理)を肯定している。その立場からだと自分の標準を固持して歩むことは、聖書との食い違いを生むことになる。聖書の真理を追究し、実生活に即して焦点を絞り理解を求めたいのである。真理は永遠の焦点であるが、ただ思える事は人間の標準が中心である場合に、真理は極論としか思われない、ということである。
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 「焦点を合わせる」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/11/3 1:00
 † 栄光を現す。   
 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」1コリ6・20)自分のからだをもって、と言われている。具体的にからだは内面を現すと言う意味で「からだで現せ」と言うのである。言葉にしてもからだから出てくるし、自分の願うところもからだ(表情)に現れるのである。昭和と平成にかけての大衆伝道者の第一人者、本田弘慈師は主イエスに豊かに用いられた器である。文字通り師が語ると聖霊が伴い罪人の悔い改めが起こったのである。ある時、本田先生はどうして用いられる牧師であり伝道師になれたかについて教えてくださった。そして一冊の本を紹介された。パゼット・ウイルクス著「救霊の動力」である。先生は恩師の著書に、自分の全てがある。と言われた。なるほど著者はオックスフォード大学の文化系の優待生だったが一切を主イエスに捧げて生涯を日本に捧げられた方である。いま読んでもまさに救霊の力が与えられる。その一節「感化は力ではない。感化は人を自らに引きつける。神の力は人々を神に引きつける」と、私達、証し人(救霊者)が神の力を語れるなら人々は神に引きよせられる。ここに焦点がある。

 † 神の下に残るもの。 
 私達の真価とは何であろう?上掲の「救霊の動力」の中で述べている。「私達が誤りの無い光りを持っているのでなければ、導いている魂に簡単に欺かれてしまうのである。・・・・救霊者(証し人)の最も大切なことは御言葉を学ぶ事、聖書の完全な霊感についての信仰がなければならない。私自身の経験から言えば、聖書の完全な霊感を信じない人で、成功ある救霊者だと言う人に会ったことはない。・・・・どんなに卓越した人格を持ち、強い意志を持ち、豊かな教養を有する人を知っているが、彼らはその働きにおいて人を感化してこれを引きつけることはできる。しかし、彼が去った後には人々は散ってしまい世に迷い込むのである」と、私達クリスチャンは善い人になる以上のことは、神を神として完全に信じる信仰である。その確信が人々を神に結びつけるのである。聖書を忠実に研究し学ぶことによって、神を十全に確信できて、私達の生活が神の力によるものとなる。この度、エリクソン著「キリスト教教理入門」をお勧めしたが、力ある者になりたい人は購入されるべきである。祈り導いている魂が神の力によって神に結びつくこと。ここに焦点を持ち続けよう。
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「焦点を合わせる」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/10/27 1:00
† 誰に向かう?   
 私達が生きる途上で最も大事になってくることは「誰が、あるいは何が」中心(焦点)になるかである。人間は本来的に自己中心の傾向を持って生きている。どれ程に自己に死んだつもりでも、「灰の中から生き返る」のが自己である。それで、あきらめて自己中心に生きる事を自然だと考える人もいる。うまくつき合って生きれば良いというスタンスである。ただ問題なのは、自分には甘くそれ以外には厳しい立場を、態度や言葉に出てしまうことだ。やはり自分を中心にすると自分に都合の良いことに肩入れし、それ以外には深入りをしないご都合主義を生きることになる。聖書は、そういう意味で健全な人間像を描いて教えてくれる。主イエス・キリストを受け入れなさい。あるいは信じなさいと言うことだ。別の言葉は、聖霊に導かれなさい。と言う事である。要するに中途半端な焦点を紹介しない。この単純さ明快さが私達に、有無(うむ)を言わせないのである。私達はそれに応えて素直に、その通りである「アーメン」という。この宇宙の中で、幾億の人々の中で、最も正しく、最も強烈な私達の焦点である。これに徹する人は本当に幸いな人である。

† 恵みとしての存在。
 私達は自分の存在を意識しながら生きている。世界と関わり身近な人々との関わりから自分の存在意識が高まる。狭い意味で、生まれてきてから今日までの自分を存在として考える。日本国の中で高度な教育を受け社会認識も、国際認識も高いわけだが、自分の存在をどの様に受け止めるか、どの様な世界観を持つかが大事である。その点で偉大なのは聖書の真実な世界観である。私達の存在を「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)という。私達の存在の出発は神の中に始まり、キリストのうちに選ばれて出生し、神の前に聖く、傷のない存在として今、生かされている。これこそが「恵み」である。計り知れない恵みと聖歌で歌うが、まさにそのとおりである。キリストの御業の中に生かされるばかりではなく、神の子として神の御顔を仰いで感謝する毎日は、私達の「存在」を造られた神の偉大な恵みである。
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「焦点を合わせる」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/10/20 1:10
† 待望すること。   
 待ち望むということは、多くの場合、結果を待つとか、進捗を待つという事についてである。聖書には有名な「マラナ・タ(主よ,来たりませ)」1コリ16・12)がある。この主の待望ということが教会の中心的関心から遠のいているような気がする。主の再臨を待望する信仰姿勢が教会である。私達の祈りの中に「主よ、来て下さい」と言う言葉がないと言うことは、私において信仰の衰微(すいび)を現している。なぜなら私が現世中心に生きる事を信仰としている事を現すからである。要するに私達には両面が必要である。その第一が主イエスの再臨待望である。第二は、その上で身をからげ聖霊の油を切らさず毎日を生き抜いてゆく事である。第一のない信仰は、人生にあるべき大切な緊張感を失うであろう。この世界に生かされている私達には、神によって焦点が決められている。キリスト者は「主イエスの勝利」に信仰の焦点がある。そして、その勝利が完全になる「主イエスの再臨」が連なっているのである。ここに焦点をおいて聖書を読み、御言葉を聞き「マラナ・タ」と天を仰ぐ者なのである。

† 主なる神の恵み。
 朝起きると世界からのニュースが飛び交う。世界のあらゆる分野の発見と進歩が、これ見よがしに連ねられている。私達は新しい事柄に追随しないと取り残されるような錯覚の時代に生かされている。ある人は「何でこんなに多くの悪いニュースを聞かされるのか。今はおかしい」と言う。なるほど、人間は情報化社会に引き出されているのであり、それは幸福感を満足させるものかと言えばそうとは言えない。「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」1ヨハネ5・19)この御言葉が現実世界なのである。しかし、主イエスの勝利は、悪いものの支配に対する勝利である。十字架上での主イエスの死と流された血潮、三日後の復活は、世界のいかなる驚きのニュースよりも、無限に価値ある出来事である。どの時代であれ、現代であれ、文字通り福音は揺るぎない恵みである。私達人間への最大の祝福である。これに勝る関心事は私達人間にはない。悪いもの(サタン)が最悪のシナリオで世界を蹂躙するにしても、聖書の言葉(神の恵み)は一点一画もたがわず実行される。世界の焦点は主キリストの勝利にある。
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「焦点を合わせる」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/10/13 1:00
† 何を焦点とするか?   
 黒い紙を敷いて、凸レンズを太陽に向け焦点が合うと煙が立ち上る。焦点が狂っていると結果は得られないという実験をほとんどの人がしていると思う。携帯カメラでほとんどの人が写真を撮っている。小さい画面では美しく見えても、拡大するとピンボケしている事がわかる。・・・・焦点は「フォーカス」(話や物事の中で最も重要な部分。注目点。)という意味で用いられる言葉で、この意味で取り上げたい。・・・・60億人の人生には、一人一人60億のフォーカス(人生の焦点)がある。そのうち最も多いキリスト者(24億人)は、人生のフォーカスをキリストに向けている。私達も人生の最も重要な部分を主イエス・キリストとしている。統計学的にも証明されているように、日本人も客観的な事実に目を向けて考える事が賢明である。人生をどの様に生きるかは強要されないが、それだからと言って勝手気ままな人生に焦点を持つことには検証がいる。間違ったフォーカス(焦点)で歩み続け、登り切った頂上に何の報いもない虚しさだったら、永遠に取り返しが付かないからである。

† まず命に向かおう。
 「命あっての物種」という言葉のように、何よりも命(生きる事)が大事。生きていればこそなんでも出来るのだから。と言うことだ。人間の命に最大限の焦点を当てて、命の根源からしっかりとした知性に基づく論理的認識を持ちたいものである。なんとなく生きているとか、別に考えてもいないとかで、ボヤケタ毎日を生きていては「残念至極(ざんねんしごく)である。この私達の命こそ、主なる神様の対処(フォーカス)なのである。滅ぶべき私達の命を、永遠の命へとあがなってくださったのだ。信仰とか、信じるとかが、キリスト者の当たり前になっているが、まず命に対して
どの様な確信を持っているか、また自分が創造され、命を与えられていることに、どれ程の重みのある焦点をおいているのか、吟味して欲しい。喜びと感謝の源は「命」にある。生かして下さるのは主なる神だからだ。使徒のように「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ビリビ1・21)と告白宣言できる所までフォーカス(焦点)をはずさないようにしょう。自分の命に焦点を向けることは、福音の神髄(しんずい)を知る事につながるのである。
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