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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「引き出される」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/7/14 1:00
† 潜在的力を引き出す人。   
  私の様な凡人から見て感心する人は大勢おられる。誰にも目立つアスリート(運動選手)にはなおさらである。「我が巨人軍は永久に不滅です」と語った長嶋茂雄さんは、群を抜いた野球選手であった。長島さんの高校を卒業時、三球団から誘いがあり、父親は大学かプロ球団か悩んだ。そんな時、立教大学の砂押監督がマネージャーに手紙を託し長島家を訪問した。その一文に「うちはスパルタ式で息子さんを一人前にしますからお任せ下さい」と書いてあった。それで父親は立教大学に茂雄さんを進学させた。この砂押監督こそ出合いの人となる。甲子園にも行かなかった長島さんに砂押監督は言った「君はメジャーリーグで野球をやるんだ。僕が君に教えていることはメジャーの野球だ、その訓練をしているのだ」当時としてはメジャーの最新の情報、こま送りの打撃フォームなどを解説し教えられた。また、血を吐くような猛練習で、大学リーグ前は夜もボールに石灰を塗ってノックを受けた。長島さんは言う「砂押監督がおられた立教大学があって今日の私がある」・・・・私達の能力は主イエスによって豊かに引き出される。

† あなたの可能性は無限。
  本当に全ての人に無限の可能性があるのだろうか?と問われるならば、瞬発的に「あります」と答える。年齢に限らないとも言う。少年少女に未来があるから言えるのではなく、老若男女に関わりなく同じく無限の可能性がある。世の中の基準によれば可能性は年齢で制限され、伴う行動性で制限される。また、人間の能力低下を問題にされる。人間は自ら言う「年を取ったら若い頃のようにはいかん」まことに事実の一面ではある。しかし、全く違う世界観(価値観)がある。聖書ではモーセは80才から主なる神に立てられ、リーダーとして最も偉大な働きを120才まで続けた。その時も壮健そのものであったと記録されている。人間は人間から生まれたのではない、神に造られて存在すると悟るなら、神から与えられる可能性は誰にも無限にある。地獄の生活が瞬時に天国の生活にも変えられる。奇跡というものは、神にある限り無限に私達の内面に起こるのである。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリント4・16)主なる神にある勇気が私達を無限に奮い立たせるのである。
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「引き出される」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/7/7 1:10
† 中身を知っている者。   
  机には「引き出し」が付いている。好いところは外からは中身が見えないことである。そこに、へそくりが隠されていることもあるし、秘密の宝が入れてあることもある。要するに、持ち主だけがそれを知っている事になる。しかし私の持ち物であるのに私にはわからない事がある。それは、私自身と私の身体のことである。特に身体(内臓)に、今なにが起こっているかわからない事が多い。痛みもなく気分が良ければ健康だと思うのである。友人のことだが宴席で喉に詰まりを起こし病院に行ったのだが、末期の喉頭癌だと告げられた。それまで彼はタバコの性、酒の性だと思い込んでいたようである。さて、私自身と身体は神によって造られたので、私という存在は自分では未知の「引き出し」の中に隠されているのである。「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる」詩103・14)造り主(神)のみが、私に関わる全てを知り尽くして、この世に引き出して役立つようにされる。また、100年の月目までも生きよと愛の御手を延べられるのである。

† 不遇から引き出される。
  「ロッキー」という映画製作を担当した監督や音楽家達が裏話を語っていた。当時、無名の俳優C・スターロンが脚本を書き、主役を演じる。テレビドラマ一本分の100万ドルという予算しかなくディレクター無しでの製作となった。移民のアメリカ人に差別的な社会と貧困の環境の中で生きる人々に「希望・愛・生きがい」として制作された。誰にも希望がある。誰にも失われない愛がある。それが見事に映画になり世界中に感動を捲きおこし、全ての賞を総なめした。無名のスターロンは一躍本物の俳優として二重写しの快挙となったのである。この栄華の裏話は尽きることがないが、泥沼から優雅な蓮の花が咲くように、どんな中にも失われない愛、価値、生きがいが生まれるのである。「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい」 ヨハネ1・46)この御言葉のように求めさえすれば誰にでも最善に出会うことが出来るのである。
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「時代と労苦」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/6/30 1:00
† 悪い時代の中にいる。   
  悪い時代と善い時代があるのか?と問うことがある。私達は聖書の観点から推し量ることになる。主なる神は正しい忠実な下僕が治める世を祝福された。例えばノアには洪水の危機を逃れ新時代への箱舟を示唆された。アブラハムには信仰による世界祝福の基を据えられた。現に私達は信仰により神の祝福の中に住んでいる。しかし、イスラエルの歴代の王達には不実な者が多く、その治世は平和と繁栄から引き離されている。さて、聖書の「悪の世」であるが「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです」ガラ1・4)この悪の世界とは人間のことである。神の救いの中だけに生きることを由としない。信仰を表に出さず、世の人々が皆している事は受け入れ、声を出して反対しない。世と妥協して生きるのが悪い時代なのだ。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」1ペテロ4・17

† 労苦の最たるもの。
  言うまでもなく人間を滅ぼす「罪の報酬である死」ロマ6・33)から人間を救い出す事業である。そのために主イエスは私達の身代わりとなって十字架に掛かられ死なれた。死を恐れる事なく生きる人間の悲劇は、世の栄華に封印されて見えない。しかし、神の裁きの恐怖は計り知れない現実となる。救いに無関心な日本人のために福音宣教が最大級の必要事業である。人の救いに無関心でおれる信仰というものが、教会に浸透しつつある。自己関心が表明できる交わり中心の教会へ変化しつつあるのではないか?教会は囲(カコイ)であるが、主は「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」ヨハネ10・16)と言われている。それは私達の教会の外にいる多くの羊(残りの民)が、私達の福音宣教を待っているのである。これが死すべき人間の世にとって最大の労苦なのであり、私達は特選の民として、この宣教事業に召されているのである。
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「時代と労苦」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/6/23 1:00
† 体験する聖書。   
  聖書(神の御言葉)は2千年も前に完成した。聖書を完全な神の言葉とする余り、それ以外の要素を全て排除する神学が福音的な教会の主要な理解となっていた。要するに神の言葉が完成したのであるから、奇跡は必要ではなくなった。聖霊のしるしや不思議(主イエスのなさっておられた業)も、神の御言葉が完成したので現代には必要ではない。聖霊のバプテスマはキリストを信じた時に与えられている。という解釈(神学)である。この解釈を持つ教会では、聖霊の働きは限定された領域についてだけである。しかし、キリスト信仰は五旬節の聖霊「体験」から始まっており、パウロはダマスコの途上で復活された主イエスを「体験」した事から新約聖書の重要文書を書いたのである。人間の間違いやすい点は自分の体験の無さを正当化することである。奇跡は終わったとか、しるしや不思議は必要ないとか、体験の無さを、神の言葉に置き換えることは、人が神の上に立つことである。教会の歴史が証明している事は、聖霊体験があって聖書(神の言葉)は、あらゆる時代に現実化され、今の私達の時代に現代化されるのである。

† 暗闇の勢力と教会。  
  暗闇の勢力とは「悪魔の勢力」である。もし、サタンの存在を認めないならば、福音の大半を失う事になる。罪の元凶(悪魔)を無視して、人間の罪をどの様に語れよう。また、時代を見分けることも出来なくなる。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」創世6・5)アダムを罪にいざなった悪魔の力が地上(時代の人々)に及んでいる事を現している。ましてや今の時代は、もろ刃の剣を握らされ、国は国に、民は民に互いに振りかざして傷つけ傷つき、自らの剣によっても傷ついている世界である。背後で、ほくそ笑む悪魔を見るのである。弱い人々を食い物にする世相を築き上げているのだ。最近の「自己主張、自己申告、自己責任」という言葉には隣人には関わらない、あるいは関係ないという思想がある。予測できることはもっと殺伐とした世の中がサタンによってもたらされるということである。相互扶助(隣人愛)の教会は、人々の問題を支え補い、闇の世界の中で、世の光りとして輝きつつ、悪魔に打ち勝つ事が出来るのである。
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「時代と労苦」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/6/16 1:00
† 時代が後退している。   
  私達の生きている現代が、悪くなっているという指摘が海外のメディヤから報告されるようになってきた。「日本人は本来多元的な考えを持っていて寛容であることで知られてきた。しかし、最近のニュースは、いらだった多くの日本人が自分の怒りを思うがままぶちまけるようになって来ている」と指摘している。日本人と米国人、英国人を対象に現状への満足度と将来への期待度を調査、比較した研究結果では「将来に希望を感じるか」という質問に対し「はい」と答えた割合が、米国人で93%に上ったのに対し、日本人は54.5%だった。この結果について「日本社会は前例のない社会的ストレスに直面しており、日本人の性格が日に日に異常かつ暴力的になりつつあるのかもしれない。先行きが本当に懸念される」と指摘する。日本人の心と生活の安定性は進歩していないのだ。この日本人の問題解決の真実な方法は、キリストの招きにある「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28)である。誰でもキリストに安らうなら、惜しみない無尽蔵の神の愛の中で私達の性格は愛となる。

† 神の労苦に盲目。  
  聖書は天地創造と人間が神によって作られた事を宣言している。これほどに人類を言い尽くしている事柄はない。神は初めに宇宙を創造し、神の似姿として人間を創られた。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。」 創世1・31)神の労苦は完璧で善であった。しかし、人間が築き挙げてきた文明は、神の干渉を求めない人間の独立を企てて、人間の理想の世界を求め続けた。人間の叡智とは裏腹に人間の殺戮(サツリク)による世界の荒廃を生んだだけだった。日本も小国ながら戦争の加害者として1千万人以上という人々の命を奪った。人間が神の干渉を拒否し、神からの独立を目指す限り平和など望めない。また、人は死の恐怖から逃れることも出来ない。神の労苦は克明に聖書に記されているのであり、実際に神は人間の歴史に介入し、今この時にも神は労苦しておられる。私達を破壊と滅びから救い出されるのだ。真理に盲目な日本人は、利口にして感心するほどお馬鹿さんだと思わないか?
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