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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「時代と労苦」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/5/19 1:10
† 悲しき変化。   
  去年の夏、故郷である下呂市を豪雨が直撃した。一段低い所にある実家は流水に見舞われ、大量の土砂が残された。幸い多くのボランティアの力によって土砂は取りのけられ元に戻った。しかし土砂の被害は他にも起こった。父や祖父が精魂込めて耕してきた幾つかの田は、今はヒノキが植えられ林になっているが、近くを流れる谷が豪雨で抜け、田の林一面を土砂が埋め尽くした。もし、これが田のままであったならば回復不可能と思える。ヒノキ林になっていて良かったのか?過疎化の激しい田舎では、ますます田畑が植林され失われる。先祖が営々として育んできた田畑への愛情が痛ましく見える。この村で幸いな子供時代を過ごしたが、そのうららかさ、人々の互いの繋がりが懐かしい。世の中は悲しみを伴って変化している。聖書は云う「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」ロマ8・21)土地や自然界は虚無(無秩序)からの解放を待っている。私は神の子として栄光を身に纏う時、故郷の贖われた麗しさを目の辺りにする事を楽しみにしている。ハレルヤ!

† 労苦は残る。 
  「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」 1コリ15・58)この御言葉を通してわかることは、どの様な時代に生きるにしても「主にあって」労苦した事は主イエスの評価がともなう、と言うことだ。もう一つは主に対してではない労苦は、無駄に繋がる可能性が高いことを思わせられる。キリストを信じている私達は、生きる事を神の栄光のためにする。その全ての労苦は主イエスに覚えられている。報いについて聖書は「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」マタイ10・42)と、たとえ私達の労苦が実を見ることなく、顧みられなくても、私達の労苦は主の御手の中に刻まれているのである。だからこそ人にでもなく、自分にでもなく、主なる神の栄光のために勇気を持って労苦できるのである。
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「結果と原因」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/5/12 1:00
† 神の国の出現。   
  国(国家)というものを考えれば神の国との共通性を理解することが出来る。日本の場合は時々の内閣によって国(国家)が支配される。かっての独裁政治では一方的な権力で国民は支配されることになった。では、神の国の内容はどう言うものか?有名な主の祈りの中に「御心の天に成る如く地にも成させたまえ」とある。原型は天にあり「神の国(神の御心が行われている)」のである。天では聖なる、義なる愛に満ちた神が完全支配されている。しかし、神でありながら人となってこの世に来られた主イエスによって、この地上世界に天の神の御心が実現された。十字架と復活は完全を意味しており、罪と悪の世界(この世)に神の現実(即ち神の国)をもたらされた。私達は旧約聖書から神の計画を知り、新約聖書から主イエスの完全な従順による信仰の勝利を知る。誰でも信じる者を神の子とし聖霊を注がれのである。この事柄は二千年前も現在も変わりはない。主イエスこそが見えない神の国だが、信じる者の群れである教会を通して、神の国は「聖さと義と愛において」また、神の国の力においても、見える「神の国」とされているのである。

† 神の国の実現。
  この地上世界を聖書は、人間が支配するとは言わない。悪(サタン)が支配していると断定している。それだからこそ神は人となって地上に来られたのである。「全ての人々」がサタンの支配下に服しているという意味である。この当たり前と思えることが、強く深く堅く信じられていないのが現代のキリスト信仰ではないだろうか?どの世界にもライバルがいる、もし相手の実力を甘く見くびれば、自己鍛錬や修練を怠り、知的にも浅はかに成り下がるのである。これで、どうして相手に勝てようか? 自分の幸せを「神の国」以外に求めるならば、サタンの支配するこの世の栄華に魂を引きよせられてしまうのである。手にする、鋭い切れ味の御言葉も、魂がない信仰では「なまくら刀」に過ぎない。神の国を継承するのは、キリストの信仰を引き継ぐ人々である。キリストの内容(信仰)を信じる人だ。具体的にキリストの従順と潔さと品性と力に預かる信仰のことである。キリスト「を」信じるとは、キリストを「目的」として信じる事になり、キリストを内容として信じる事にならないのだ。神の国を実現するには、キリストの信仰を持つ継承者が鍵となる。
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「結果と原因」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/5/5 1:10
† 大きな期待。   
  平成が終焉(しゅうえん)を迎え令和がはじまった。先の天皇が語られた言葉に「戦争がなくて幸いだった」という言葉に重みを感じた。本当に象徴天皇として国民に良く尽くされたとおもう。美智子妃の振る舞いを忘れることもないと思う。平成はかってない未曾有の災害が起こった。ひたすらに被災した人々に寄り添い涙し心を伴にするそれが国民に対する象徴たる天皇だったのだろう。今や新しい令和に大きな期待が寄せられている。願いであり希望である。こうあって欲しいと言う事は、ある意味で結果を生むかも知れない。期待も願いもないところに良いものが生まれることはなかろう。それが世界情勢に向けられても難しい問題である。自然の脅威に向けられても難しい問題には違いないのである。最後に、先の天皇が言葉を結ばれのは「・・・・皇后と共に日本の国民と世界人々の安寧を祈ります」であった。天皇と皇后は、まことに大きな結果を残こして去られたと思う。心からご健康であられようお祈りしたい。

† 原因としての信仰。
  その人、即ち生と死において最大の原因となるものは信仰だと確信する。もちろん信仰とはキリスト信仰である。世界を見渡せば政治、経済、軍事、教育、科学、その他あらゆる人間の生きる原因がある。それが歴史という枠の中で、人間は幼子として生まれ大人達の影響の元に世界観を入れられ必要と思う事を大事にして身につけて大人になった。人間は全て後付で何らかの生き方を始めたのである。それが総じて人間の原因だと私は思う。私はある時、人間としてのパラダイムシフト(世界観)が180度転換した。「神の出来事」の中に世界も人間もあるという発見であった。全ては神に発して神に終わる(完成する)それが100%疑い得ない事実である。という世界である。使徒パウロが「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」 エペソ1・7)と、全ての人々のため祈っている通り、神の啓示を通して神こそが全ての原因であると、識る信仰に至らせるのである。
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「結果と原因」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/4/28 1:00
† 自分自身そのまま。   
  この一ヶ月間は痛み苦しんだ。2週間は布団の上で眠れなかった。矢が刺さるような痛みが左足首と腰に現れたからである。原因はスコップを使っての溝の土挙げ作業で起こった。外科の医師によれば太股辺りの損傷による神経性激痛と診られた。今までの腰痛の経験から足が一歩も出ない痛みを知っているが、立つも座るも寐るも出来ない痛みは初めてのことであった。ようやく70%位にに回復した様に思える。結果である痛みや不自由は現実であり如実である。身体に表れているので非常にわかりやすい。しかし、これらのことで主なる神に感謝し、主なる神を誉め称えられた。折しも主の受難のときでもあった。それで、わかった事がある。罪や咎が痛みもなく不自然とも感じない感覚のまま積み重ねられているとしたら、聖なる神の御座の前に立つその時、罪を意識だにしなかった事柄が、激しい痛みと苦しみとして襲いかかってくるに違いないということである。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ6・7

† 沈黙は金。
  「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る」 箴11・12) 人間はいろいろな場面に直面せざるを得ないが、その時にその人の態度が現れる。「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」箴2・16)「能ある鷹は爪を隠す」という諺がある。沈黙もまた最高の結果のために用いられるのである。沈黙は知恵の最たるものとも聖書は云う。多くの会話に耳を傾けてみると確かに、喋りすぎ、語りすぎである。単なる沈黙もほめられない。内容を持たず、考えがないから黙している事もあるからだ。能ある鷹のたとえは、ある種類の人に向けられて用いられる。淡々としていて「自分はできる」とアピールもしないが、ふとした拍子にその有能さがチラリと垣間見え、 その一瞬で、強烈に印象付ける。そのすごさが滲み出て隠し切れない、そういう人のことである。それが沈黙の中に金のように隠れていると言う事である。良く祈っている人に、よく学んでいる人に、謙遜で柔和な人の中に与えられている金で もある。
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「結果と原因」 (4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2019/4/21 1:00
† ままならないままに。   
  思いのままに、の反対語はままならない、と言う事である。多くの場合ままならないことをやり過ごして生きている。神の言葉とは「完全」を意味する。教会はまさに完全さの前にうろたえる。「ままならない」からである。とはいえ、もし完全な神の言葉と真実な主なる神がおられないならば、教会は教会の体を成していないこと間違いない。確かに教会は神の御言葉に支えられ、神の臨在に命を与えられているからだ。しかしながら、今の世は悪に染まっており「姦淫の時代」即ち終わりの時代の形相をあらわにしているのである。面白おかしいことには気が向くのだが、自分の真面目な問題だと気が遠のき、間(マ)を置いてしまう。それが「ままならないままに」過ぎて行くのだ。原因と結果は同居しているわけである。そんな自分自身を自戒しつつ励もうとしているのである。しかし、多くの場合、やりやすい事に、好きな事に、やさしい方に流れる。そういった私達だが、脅威となる力を持っている「一つの事を一つになって祈る」と、驚くべき事態が起こってくるのである。即ち、祈りを聞かれる主なる神が働かれるからである。ままなる世界が生まれるのだ。

† 時の満ちるまで。
  その時まで我慢が忍耐が求められる。いろいろな時が思い浮かぶ、交渉が上手く行くまでの時。互いの思いが近づく時。遂に魂の救われるとき。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました」ガラテヤ4・4)イスラエルがローマの支配下にあった時代に、神が世に下ってこられた。とてつもなく複雑極まりない社会状況の中で、主イエスは福音を宣べ伝えられた。ユダヤの指導者達は主イエスの奇跡と人気をこのままにしておいたら、ローマによってイスラエルは滅ぼされると恐怖に戦いていた。そういう時に主イエスは活躍され、そういう時代だったので十字架の道が据えられた。まさに主イエスは忍耐の限りを尽くし死に至るまで主なる神に従順であられた。十字架上で「全てが完了した」と言われ、時を移さず「父よ。我が霊を御手に委ねます」と言われた。神の時が完成したのである。全ての人々の救いの時が世界中に開かれたのである。主の御名はほむべきかな、その恵みは永久まで。
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