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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「目ざすものがある」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/29 1:00
 † 終わりはどうなる?
 多くの著名な方々の訃報が伝えられる。そして彼らの輝かしい歩みが改めて心に響くのである。人生の功績は著名人に限ったことではない。生を与えられた一人一人の人生の行程が尊いのである。聖書は語る「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」マタイ25・21)今あるところで、前向きに働き生きることが、多くを任せられる者になる。仕事に善し悪しはない、人をうらやむ必要はない。天上の主なる神が誠実に評価される。そうされるのだから、何の不足もない。さて、重要なのは最後の終着点が大事である。主イエスにあって働き、人生を登り切ると、その頂点には永遠の都がある。主イエスが王なる主人として、あなたを出迎えてくれるのである。地上の実績がどれ程あっても、主イエスにない人生を登り切ると、そこに待ち構えるのは虚無という地獄である。暗闇の王が待ち構える恐怖の世界である。私達は神を畏れ、心を新にして生きて行こう。

 † 人間の暗闇を光りに換える。
 深層心理学では胎児・幼児体験を重要な人間行動の源として理解する。私達の人生は原始において、自分の生きる時の行動心理の種を蒔かれているといえよう。画一的な優れた教育を施しても、一様な人間にならない。それぞれの生い立ちによって、人生の内容(性格)が異なるのである。家庭の崩壊が進む社会にあって、子供達は円満な情緒に達しておらず、自己の不安がいろいろな場合に表れる。教会の使命は、人々を罪から救い、解放して下さる主イエスを伝える事である。自分が犯してきた罪からの救いと共に、さらに重要なのは私の人格に欠落している愛の回復である。心理学は原因を分析し、突き止め対策を提供する。しかし、愛を提供する事は出来ない。人を生かすのは愛であり、それは人間に不可欠な神の愛(無条件の愛)である。この神の愛の中でのみ、人はあからさまに自己をさらけだせるのであり、その結果、自分自身の人格(性格)の欠けたる部分が、愛(神の性質)で充ちて、全き人となる。聖霊の宿る教会のみが、人間の深みの暗闇を光りの中に解放出来るのである。
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「目ざすものがある」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/22 1:00
 † 不人気な事をする。
 主イエスは人々に、人気のある事をするために世に来られたのか?私の答は迷うことなくNOと言う。もちろん5つのパンと二匹の魚で五〇〇〇人の給食を賄われた奇跡では、人々の人気は頂点に達した。これほど便利な者を、自分たちの王にしたかったからである。しかし、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」ヨハネ6・53)と言われると、主イエスの真理に対しては、意味を感じず群集は去っていった。主イエスの使命が、世の人々の人気などと全く関係のない事だったからである。神の愛を現すには、世に影響されたり、人々の人気取りなどとは全くの無縁であったのである。それは、それほどに透明である事を意味している。人におもねる事は、真実を歪めることでもあるからだ。このことは主の弟子達も、主の十字架と復活の後に悟って、誠に主イエスのように生きて、教会を聖霊に導かれる、聖いキリストの身体に建て上げたのである。神を畏れると言う事は人ではなく、神に喜ばれるように生きることである。

† 死から救い出す。
 「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」 ヤコブ5・20)私達の救出する人々は、主イエスを知らない全ての人々である。なに不自由なくこの世に生きており、健康で元気な人々である。悩みもなく、患難もない人々だ。ただ一つ共通するのは「その人は罪人」であり、永遠の滅びに向かって生きている人々なのである。教会はそういう人々がいるところに神が建てられている。教会とは「罪人を迷いの道から連れ戻す人」 の群れだからである。そこを目ざしている教会が、滅び行く人々の真の光りなのだ。私達は今、自らの信仰生活をこの上なく、喜び楽しんでいる。与えられた大きな恵みの特権に安住している。もし、真の喜びがあるならば、世の人々に証詞をすべきである。神からの喜びがないならば、何も出来ないからである。教会にあっても、世の楽しみを愛しているなら、罪人を救い出すための力が湧き出ないだろう。目ざすものを失うと進歩を失うように、教会は一人一人の救霊心によって使命を果たすのである。
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「目ざすものがある」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/15 1:10
 † 死する事への希望。
 今朝、ビートたけし氏が70才を超えて、「誰でも人間は死ぬということ」と、今後の働きについて語っていた。その中で、死については全く分からない。と言う事だった。日本人は、思い切り生きることに、全てがあると考えているようである。その心の奥深くに「死」とは、何か?その真実や意味が把握されていないからだと思う。教育が死生観には触れず成り立っているからかも知れない。私達も聖書を知るまでは、明確な死生観を持つ事は出来なかったのだから、無理からぬことである。聖書を信じる人々は、目ざして生きる目標がある。この世で神を知り、神の愛に触れ交わりを持っているように、死後には、永遠に神の愛の中で、交わり生きる確信である。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」ヘブル11・10)彼とは、アブラハムであり、私達のことである。このように聖書では「死」は、目ざす希望によって克服されている。主イエスの死よりの復活により、私達の死は永遠への瞬間的な体験とされるのである。ハレルヤ!

 † 自然と耕作。
 神戸育ちの妻が私の実家の田植えや、稲刈り脱穀に毎年手伝いをした。父親が病を負うまで、17年間は続いた。開拓伝道をする私達に実家からの米、醤油、野菜は私達の生活を助けてくれた。妻は、決してただでは貰うことはせず。米代は必ず用意した。そして、その村では、私達が最も手伝いをする者達として評判にもなった。妻が父親に尋ねたことがある。「米作りはどの位出来るのか?」父は60年と答えた。その時、妻は「たった60年ですか」と、父は思いもよらない言葉に驚いていた。自然という永劫(エイゴウ)の時の流れからすれば、60年は短いと考えられる。確かに、田舎は激しい変貌をした。あの田も、畑も雑木林になった。自然は規則正しく春夏秋冬をもたらすが、人間は社会変動に放浪されるのだ。私達の教会の隣りには田んぼがある。今は、晩秋の田起しがされ、黒々とした土が美しく見える。教会の働きも、季節を追って耕し、種を蒔き、愛情を持って育てるのでなければ、救いの収穫はない。そのためには教会の全員が、主イエスの収穫に、共に労苦する家族意識がある事だ。
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「目ざすものがある」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/8 1:00
 † 何でもあり。
 アウシュビッツ強制収容所(ポーランド南部)で、生き残ったユダヤ人の人々を心理学者のV・E・フランクルは観察し「夜と霧」に書いている。「生きる事に意味を」持っていた人は、過酷な環境の中でも生き抜く力を持っていた。また、全てを奪われた(家族、地位、名誉)人であっても、人間としての尊厳を魂に持っていた(信仰ある人々)も、過酷さに耐え得る力を持っていた。そう記している。人間は意味のない事の中で、生きる事が出来ないと結論されるのだろう。そういう意味で、意味ある「目ざすものがある」ならば、人は生き続けられるのである。また、そういう意味で、目ざすものがあれば、何でもありとなる。ないよりはあった方が良いに決まっているからである。人はこの世では17,209種類の職業の何かにたずさわり生計を立てる、また何かを目指して幸いを得ようとする。それが人間の自然の欲求である。そして、全ての人に永遠不変の誰にでも与えられる、最も力強い魂の尊厳が用意されている。私達を造られた神が与えて下さる希望、滅びることのない永遠の救いと生命である。主イエスを知れば知るほどに、希望が湧き力を与えられる。

 † 目ざす者は青春。
 やるべき事がある人、目ざすものがある人は年齢に関係なく青春を生きているのである。そう語った人は著名な建築家であった。世の中は実年齢(生年月日からの年齢)で人を見る。しかしながら若くして老人がいる。一方で青春を生きる高齢者がいる。青春とは、という捉え方にあると言えよう。青春は実年齢の若さではなくて、その人の内面の若々しい情熱である。情熱のあるかなしかで見るならば、実年齢は関係なく、目ざすものがあって、生き生きと活動的な人が青春を生きているのである。そうしてみると、目ざすものが何か分からなくなっている人もいるであろう。しかし、心配することはない、ありのままの自分を、主イエスの前に正直に打ち明けることである。そして何が目ざすべきものか尋ねて求めることである。あなたの造り主は、優しく教えられる。はじめ気乗りがしなくても、その大きな意義に、目も心も開かれて、生き生きとした青春を取り戻せるのである。主イエスの御霊が情熱の源となられるからだ。
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「偉大な価値を現す」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2020/11/1 1:10
 † 主なる神の実際。
 教会を迫害し続けていたパウロが、エマオの途上で復活されたイエスにまみえた。その神々しさに打たれて目が見えなくなった。主イエスの弟子アナニヤの祈りを受けると、目から鱗のようなものが落ちた。その時、聖霊に満たされたのである。サウロはすぐに洗礼を受け「そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」使徒9・20)あまりにも激しい変わり身であった。異邦人の使徒として主イエスに選ばれたのだが、主イエスと共にいた使徒達は、戸惑ったのである。なにを持ってパウロを使徒と見なすべきか?神学的(教理的)な理解力によって判断すべきか? エルサレムの原始教団の確信したことは、パウロと彼に従う者達に、主なる神が伴い、聖霊の御業が成されていた。これが確信を与えたのである。私達も同じように「神は我々と共におられる」マタイ1・23)と言って、生活の中に主イエスを招き、感謝を現して生きることである。聖霊様はそこに働かれ、信仰は増進し、活力が増し加わる。そのように、主イエスの復活の力が証明され、人々に証詞されるのである。

 † 私ではなく主なる神様。
 私の存在は、あまりにも小さいと思わざるを得ない。誠に「無にひとしい者」1コリ1・28)として数え得る。自らが無である事には大いなる特権がある。私は最小単位の[1]なら、主なる神はどれ程だろう。しかも「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない」使徒18・10)と語られる。パーフェクトの神様は数字では表せない。主なる神は、全てに[100%]であられる。その、主なる神の子供に私はされている。無に等しいがゆえに、全てのものが神からのもので満たされる。無であると言うことのゆえに、現されたものは全て主なる神によるのである。このような驚くべき特権に預かるとは、あまりにも偉大で、主なる神を畏れるばかりである。使徒パウロの言葉が身に染みる「誇る者は主にあって誇れ」1コリ1・31)とあるとおりだ。この世は、自分を売りにする、自己顕示が重要とされる。しかし、それらは、もみ殻のように吹き飛んでしまうものだ。私達は神に召された者だから、自分に比重を置くよりは、主なる神に100%の比重を置くことである。
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