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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「強さ弱さを持つ」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/3/7 1:00
† 強さは不偏。
 私達は人間のうわべを見る、特に自分見る(感じる)のである。「しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16・7)人間は誰でも年を重ねてゆくのであって、往年の体力も人間的な気力も変化するのは必然である。そういった必然の弱さへの傾向は、主なる神の主要な関心事ではない。人間のうわべは変化し弱くなるもので、主なる神の見られるのは、人の中心にある「心」である。これは劣化しない、ましてや主なる神との親密されおいては、信仰の年輪と共にさらに強固になり、揺るぎない体験的な信仰になる。世的な標準は人の年輪を見て強さ、弱さを測ろうとするが、神の御霊による標準は心の若さで有り、霊的な内なる強さである。心を主なる神に引き上げられた旧、新約聖書の聖徒は、年輪を重ねて心を鍛えられた人々である。族長達を始めとし、使徒であるパウロやヨハネを見れば、人の強さは心において不偏であることが、証明されている。

 † よき時代。
 常々思う事がある。それは、田舎での子供時代が最高に感じられることである。40軒ばかりの部落だったのに店が3軒あって、塩もタバコも酒も売られていた。2㎞ばかりのところに焼石駅があり、駅前には食堂が有り、通りには薬局が2軒、八百屋が2軒、診療所や郵便局、美容院、理髪店は二軒あった。農協も物品をそろえて販売していた。また、アイスキャンデーを作る店もあった。あれから65年の今は、すべてがなくなってしまった。あの頃は田舎といえども町だったと思えるのである。40軒の私の部落に同級生が12人いたことも奇跡的で、友達が大勢いて、狭い田舎なのに遊びには事欠かなかった。まさに自然を満喫して子供時代をすごしたのも、この上ない幸いだった。時の流れというものを変えることが出来ないのが、人間の弱さかも知れない。時代が進むにつれて、こんな現象が日本全国で起こっているのである。少子化はさらに拍車を掛けている。なにか働ける事業所を誘致したり、温泉でも掘り当てる冒険も必要ではないかと考えさせられる。  
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「強さ弱さを持つ」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/2/28 1:00
 † 最強を思う。
 2月23日(2021年)101才を目の前にして、私の義母が天に召された。受洗は昨年の11月で、母が外出を赦された最後の時で、母の友達15名ほどが集まった中でおこなわれた。葬儀は田舎の家で家族葬として20名ほどの中、キリスト教式で行った。この母の長い人生を通して、人々に蒔いた行いの数々が、家族以外の多くの人によって証しされた。母がクリスチャンになったことは、なぜに偉大なのか考えさせられた。「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」默14・13)母の蒔いた行いが、天国について行く。もし主にあって死んでいないのなら、行いは「ついて行かない」とされると思われるからである。私達の行いが天に通じるものであり、その質が高く、その量が多いならば、その人は主イエスから高い評価を得、真に賢く、真に強い人となる。霊に蒔く私達になろう。(ガラ6・8)
 
† 弱さに同情する。
 私達は神を知り、真理を知る特権に生かされている。神を知らない人々の、世の光りになる事を求められている。一般的には、人々は、いろいろな環境に準じて、その場所で長く暮らさなければならい宿命がある。まさに、主イエスが神の国を持ち込まれたこの世界は、千差万別の国々と多様な文化である。主イエスは神を離れた人々が、偶像を拝み、人間の創る好ましい理想の、ただ中に来られたのである。私達はそのような人々に、救いの福音を証詞するのである。日本人の弱さとは、無知や宗教的習慣を文化としていること見なすならば、福音を日本人に寄り添わせることは可能である。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」 ヘブル4・15)日本人の弱さに同情できるなら、福音を伝える機会は広がって行く。私達が神の愛のゆえに、全く異質な人々を、そのまま理解し受け入れ尊敬して行くのである。すると、神の愛が私達に生まれるのである。
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「強さ弱さを持つ」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/2/21 1:00
 † 既に植えられている。
 聖書を読んでいて、なるほどと思わせられることが多い。その内容が人生で体験ずみだからだ。非常に強いものとして現れてくるものが「いばらとあざみ」である。「・・・・土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」創世記3・9)種ををまかないのに、自然に生え出てくる強力な雑草である。いかにも、人間の堕落が招いた結果なのだと聖書は語る。「・・・・土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」創世3・17)これは、どうしょうもないこととして、人間を悩ましている。これは私達への挑戦的な力である。例えば、国道の雑草のために莫大な経費を計上しなければならない。線路脇に生え出る雑草の勢いには驚く、遂に昨年は枯葉剤が噴霧された。今も真っ黒なかたまりのようになって放置されている。私達の内にも雑草の種がある「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します」マタイ15・18)この雑草の力を無力にする、主イエスの血潮が私達に備えられている。
 
† 育んで強くなる。
今年も楽しみの一つは、プロ野球の開催である。今、各球団は沖縄など暖かな地域で、トレーニングに余念がない。若い選手の台頭がいかにも楽しみである。選ばれた選手といえども、育てられないと一軍で活躍することは出来ない。良いコーチに指導してもらうこと、それと努力に努力を傾けることがプロとなる事である。私達はそういう厳しさの中にいないかも知れない。しかし、共通するところは多い。私達は神から愛されている特別な存在である。それは神の注いで下さっている恵みを受けているからだ。私達はその恵みの豊かさを育み、大輪の花として咲かせる務めがあるが、自然には成らない。まず、恵みの生命について学ばなければならない。訓練を通して学ぶこともしなければならない。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」ピリピ4・11)使徒パウロが学んだようにである。信仰を通して、人生の知恵を学び、神の愛と御言葉を、真の生きる技術として行く、それが育まれて行くと、満ち足りる境遇に達するのである。
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「強さ弱さを持つ」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/2/14 1:00
 † 人間の自然。
 私達は、人を外面から見たり、その人の内面を見ようとする。人はどちらも、持ち合わせているからで、やむおえない。やはり人として好く見てもらいたいし、良く思ってもらいたいのは当たり前である。それで外面の部分をだいじにする。身なりが良い、清潔感がある、と言うことは人に誤解を与えない良いことなのである。しかし、私達は心に問題を抱えると、外側の表情や、立ち居振る舞いに現れてくるのである。それは悪いことではない、私達の様に交わりを重んじる世界では、愛の気づきが生まれ、問題解決のために励ましと祈りが生まれてくる。聖書によれば、外面を繕(ツクロ)うことが強さではなく、たび重なる試練や悩みをとおして、神を信頼し内なる人が強くなる事を重要なこととしている。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩119・71)人の内面においては、いつも見えざる革命が起こっている。その体験が外に顕(アラワ)れる、その人は気づかないのだが、輝きを放っており、香りがただよっているのである。
 
† 集めるものはなにか。
 就職シーズンをむかえている。世の中には大儲けをしている企業もあれば、時の流れで業績が上がらない企業もある。しかし、あらゆる企業の働きが必要なのである。専門性が互いに支え合うことが良い社会の原則だと思う。企業が求める新しい人材とは、ふさわしい能力である。性格が善い人が必ずしも求められていない。専門性があり、能力があること。しかし、人間性が第一に求められる職場もある。これも求められる能力である。さて、神が集められる人々を「コイノニア(教会)」という、まじわり、共有という意味である。特長は、第一に、人間の能力を求めていない。尊卑(ソンピ)も関係なく、年齢にも関係ない。神は人間の能力を求めるのではなく、逆に神ご自身の偉大な能力を与えることである。コイノニアに集められる人は、能力がないことを認めた人が集められる。自分には罪過を消し去る能力がないと認める人。死に打ち勝つ能力を持たない人。永遠に生きる能力を知らない人である。また、幸せに生きる能力がないと思う人も「私のところに来なさい」マタイ11・28)と招いて下さる。
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「新しい世界を創る」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2021/2/7 1:00
 † 真の世界を。
  人間は、まことの自由を求めている。そこで哲学者は考えたのである。人間は何ものにも干渉されないことによって、真の自由があるはずだ。イヤ、そうでなければならない。と、それで神があり、天地創造などは論外であるとした。そこで大きくなるのは人間の「理性の完全性」であった。人間が評価したのは「理性の進歩」であり、そこに人間のユートピア(理想郷)に達するという楽観主義であった。人間の求める真の自由は、無神論に根ざした理性の進歩であり、科学と技術の発達でもあった。しかし、この人間のエゴイズム(利己中心)は、それに伴うはずの道徳心が育っていなかった。人間は、残虐非道な世界戦争を生みだし、人間自らを破壊した。神の存在を無視する全体主義も同じ道を生みだすものである。聖書に帰る意味は、キリスト教信仰なくして、健全な倫理・道徳が社会に、国に、世界に生まれないという事実である。なによりも聖書によらなければ、人間は未来に対して希望を生みだすことなど出来ない。まず自らを知るため、鳥瞰的(チョウカンテキ)に世界(自分)を見つめよう。 

† 制約の中で創って行く。
 制約を受けたくない。しかしほとんどの人が制約下にある。国のトップの政治家にしても、国内外の様々な制約の中で活路を開こうとしている。キリスト信仰を持つ牧師や信徒リーダーも宣教の壁(霊的な制約)を感じながら活路を開こうとしている。そうでなければ教会は、衰退あるのみである。「濡れ手に粟」といわれる、苦労もなく、手に入れられる、魂の救いなど原則として無い。なにをして創り出して行くのか? すると私自身の問題だと気がつく、向上心を持って能力不足を補うこと。魂の救いへの熱情(危機感)を持つ事。そうでなければ壁を破る(ブレ-クスルー)ことは不可能だ。穴を開けるドリルビット(刃)が強ければ、ステンレスを含むあらゆる物質に対応して穴を開けられる。そういった対応能力を持ちたいのだ。使徒パウロは宣教を「・・・・説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」1コリ2・4)と言ってる。私達は、それと共に、日本人に適用する考え方、接し方や話し方、親しくなる交際力も、創り出すための重要なドリルとなる。
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