† 成長する二面性。
内と外が二面性であるように、人間そのものも二面性を持っている。
神の子供として求められるところは、心という内側の成長が、外に向かって現されると言うことである。人間の人格的な行為は、内側の心から溢れるものである。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」マタイ15・19)内側(心)が潔められた結果が、口の言葉に現れ、行動に表れる。私達のGoin Toは、内側の潔い心から発して、外側に現れる愛の行為としての宣教なのである。主にある、心からのモチペーションは、私達が神の子として選ばれ、救われた重みに比重する。潔い心は、自分の無価値さを痛いほどに知らされ、神の恵みにしか生きられない自分を、深く悟り得ていることである。外に向かう力は、無なる私達が神(聖霊)に生かされ、力を帯びて伝道(証詞)が出来るのことである。異国に赴くにしても同じだ。初めてインド宣教を起こした、ウイリアム・ケアレーは「神には偉大なことを期待せよ」と、後続の私達に言う。それは、何者でも無いと思う、へり下った心に聖霊は働かれる。だから神を期待出来るのだ。
† 懲らしめに適応する。
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない」 ヘブル12・5)最近のメディアの発達と共に、動画信者が激増している。教会の誓約を気にすることもなく、献金もしない道を選ぶのである。具体的な神の家族としての義務を果たす必要が無い気楽さがある。家族で育つ事は「懲らしめ」が伴う。自分の思い通りが通らない。家族としての教会には、嫌いな人、感覚の違う人などがいる。私自身も不出来な者であり、人を躓かせる癖のある人間なのだ。神はあえて、そういう人々を選んで「人の不十分」を学ばせ、神の愛に留まるように、私を訓練されるのである「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらう・・・」2テモテ4・3)気ままな願いを警戒して、健全な御言葉に訓練される、神の家族の子供として成長したいものである。


