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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

繋がる真実(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/3/18 10:10
† 絶好の時代。
驚くべき端末の時代が到来した。手のひらに収まる機器で全世界と繋がる時代がやってきたのである。まさに猫も杓子も「携帯電話時代」なのだ。日本人に限って言えば誰でも手に入れることが出来るのだから,便利以上に脅威だと思う。日本の人工衛星も4機がぐるぐると15分おきに地球を一周している計算である。地上の物体をことごとく認識できると言うから,我々は知らないうちに見られているのである。このような便利さはこの世のために作られているが,終わりの時代の宣教の道具にしたいものだ。パソコンがあれば無料でリアルタイムの映像付きの会話が時間制限なく出来る時代でもある。教会はいつでも遅ればせである。カウンセリングやコーチングに,こういったシステムは有効になると思う(こういうシステムはまもなく常識になる)こう思うと,辻浦々まで到達できる伝道の手段として,誰もが使いこなせる機器に着目すべきだと思う。岐阜市の牧師は自分の立てたホームページを見て,人々が教会に礼拝にやってくるといい,それ以外にはないという,そういう繋がりの時代に入ってきたという事だ。

† 大胆であれば繋がる。
私たち夫婦は,極安の国内旅行を楽しみにしている。ホテルや料理に贅沢を言わないならば,名所,古跡を尋ねることには代わりはない。このたび会員募集の寄せ集まりの42名の方々と,九州の鏡山(三大松原),伊万里焼き,平戸(ザビエル天主堂),九十九島遊覧,長崎原爆公園と資料館,大浦天主堂,天草殉教公園,その他を行き巡った。私達は多くの方々に牧師であることを伝え,教会が何をしているか,そして自らをもって「気さくな」所であることを証詞した。伝道のスタイルは「私は,あなたと同じであり,クリスチャンです」という平然さである。そういう一種の大胆さが,隔ての壁を砕くのである。彼らは私達を特別な者と見ることもなく,色々と会話が弾むのである。幸子師は10枚の教会案内を交わったそれぞれの人に渡し,またパワーフォーリビングも差し上げた。極めつきは帰りの電車の中で,英語で話しかけてきた韓国のビジネスマンと出会い,熱心なクリスチャンであることがわかった。私達はオリジナルのCDを差し上げると,彼は特上の韓国海苔を下さったのである。旅は,大胆になれば,人と繋がり,神と繋がるのである。
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繋がる真実(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/3/11 10:10
† 仲保者。
私達が好んでいる食品の中にマヨネーズやドレッシングがあると思う。コレラの食品には中和剤が含まれている。互いに混じり合わない性質のものを,混じるように中和する。個性ある二つの味が一つのものであるかのように混ざるのである。この中和剤というのは食品ばかりでなく,いろいろな分野の物質との間に用いられるのである。最近出てきたコンピューターのOS「ビスタ」に手持ちの機器やプログラムを繋ぐには,ふさわしいドライバ(橋渡しをして仲介する)が必要で,今までのものでは不都合が色々あった。仲保者となるドライバが優れていると,すべての機能が使えるようになる。これが人間間径に置き換えるならば,仲保者が優れていると不可能が可能となり,纏まらないものが纏まるようになる。最大の仲保者である主イエスに感謝する。聖なる神と俗なる罪人の私達を一つにされたのである。1テモ2:5)神の英知以外にあり得ない御業である。この主イエスにしっかりと繋がり,いよいよ主なる神に近づきたいと思う。

† 繋がっているしるし。
しばらく何年も会っていない友人の事を思い出すことがあると思う。親しみを覚え,暖かいものが感じて,その存在感に気がつく。この様な友人は,いつでも私のために最善であろうとしてくれる,かけがえのない人なのだ。人生にこのような友人を持つことは非常に大切なことである。しかし私達人間は,かつては親しくあったが,いろいろな人生の進捗で違いが生じ,ねたましくなり,嫉妬したりする。あるいは高慢になり,無慈悲な者ともなる。こうして大切な繋がりを失ってしまうのである。聖書はそうならない秘訣を教えている。「一番偉いものは最も若い者のようになり,上に立つ人は、仕える者のようになれ」ルカ2226)この御言葉のように振る舞う態度があれば,多くの友を生み出し,人生を豊かさで満たすことも出来るだろう。また,その態度こそが人と繋がっている「しるし」なのである。
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繋がる真実(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/3/4 10:00
† 惑わされない。
私達の信仰生活のみならず,平穏な生活を脅かすものに惑わしがある。これは作略的にもたらされるものもあるが,いろいろないきさつから生まれて,混乱させられたり,不信を抱かせられたり,恐れに引きいれられたりする。惑わしがやってくると平安を失い,今までの繋がりが弱められてバランス感覚を保つことが難しくなる。私達も厳しく注意しなければならないと思うことは,悪意の言葉,中傷の言葉,聞こえよがしに言う言葉,不注意な非難の言葉である。私達は自己愛がある限り,サディスト(人に苦痛を与えて喜ぶ性向)を罪人として持っていると思う。それは,そこにいる人や隣人を無視するという仕方でも実行されている。これは悪意の惑わしであって,とてもキリストの平和とはほど遠いものである。・・・・・こういう惑わしがきたならば主との繋がりを(静まって)強くせよ。雄々しく立ち向かうのでなければ負ける。

† 気長に待つ。
 これは主イエス様から学ぶことである。主が選ばれた弟子達を見ると即戦力としての器だったろうか?と思わされるからである。どう見ても神の国の即戦力とは言い難いものがあった。しかし主は少しも焦っておられない「働き人が少ない」と言われたが,あなたがたは未熟でだめだ,とは言われてはいない。これは私達にも当てはまる。主は私を決してあきらめてはおられないのである。世界の救いという神様のご計画から言えば12弟子から初まり,今日の私達はこの現実の時代の弟子としておかれているのである。12使徒も,また私達も,現実を生きるキリストの証人として生きるように愛され,育てられているのである。私達は自分に言い聞かせ,宣言しなければならない。「私は主のご意志によって主の弟子である」主のご意志に繋がることが何事にも勝る「揺るぎなさ」を持った弟子だからである。愛の忍耐を持って見つめて下さっている主に心からの感謝を献げたい。
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繋がる真実(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/25 10:00
† スイッチ9。
この話は金曜の祈祷会で分かち合ったが、もう一度自分のために確認したいと思う。クリスチャンにとって礼拝することは生命であるが、聖日の礼拝に入り込めないまま過ぎてしまうことがある。プログラムだけが進んで醒めた自分が取り残されているというわけである。生き生きした礼拝が何より大事だと説明され学んできた。では具体的に礼拝を間違いなく持てるにはどうするかだ。
礼拝にこれない自分、醒めた自分を切り替える「スイッチ」が必要である。その時に「スイッチ9」と思い起こすのである。9とは詩篇9篇のことで、ダビデの礼拝の仕方に倣う事になる。第一、静まる---心を尽くして主に感謝する(1節)。この感謝の思い巡らしが礼拝への入り口となる。あらゆる手段をもって主への感謝を生み出すことである。第2は、主の素晴らしい御業を宣言し、告白する(1節)。第3は主を喜びとし誇るとある。この様に「スイッチ9」を入れることで主に繋がり、自ら礼拝できるようになる。礼拝は受身ではなく、自ら主に繋がって礼拝となる。

† 主が繋がって下さる。
ヘブル13:5「私はあなたと共にいる。私はあなたを捨てない」(現代訳)礼拝の本質は「私が主を礼拝する」という態度に現れるものであるが、この御言葉は、そういう私達に「決して離れないで共にいる」と主は約束し、「決してあなたを置き去りにしない」と言われる。私の意識や感覚では及びもつかない驚くべき約束の言葉である。私達は十字架の主イエスを私への真実な愛、深い憐れみとして感じる事ができるが、この主なる神様の約束をしっかり受け止め「意識化」したい。主イエスがまず初めに愛して下さったように、主なる神様は私と繋がって下さっていてくださる、ということである。それは私の状態の変化にかかわらず変わることがないという。驚くべき恵みである。
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繋がる真実 (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/18 10:00
† 留まる。
主は,私達に向かって「あなたがたは枝である」と言われた。キリストに繋がっている(留まっている事の)重要性を指摘するためである。でなければ実を結ぶことは出来ない。要するに,結果を出せないよ,と言われたのである。結果というものは,行動に伴って生まれることを私達は知っているので,勢い私達は自分が何かをすることに向かってしまう。しかし,これが私達が経験している世の中の常識である。ではイエス様の真意は何なのか,常識的におかしくないのかと吟味せざるを得ない。まず第1に,神の国の法則を念頭にして語られている事を思うべきである。では,地上の社会では通用しないのか?と言うと完全に通用するのである。このことから言えることは,神の国のものは,地上の社会でも通用する。しかし,地上の常識では神の国に通用しないと言うことである。私達はビジョンを描く時に「結果」を想定している。そして,結果を生み出すために,何をすべきか,という行為を作り出そうとする。しかし,神の国の法則は,自分を「枝」に過ぎないことを覚え「木」であるキリストに繋がれと言われる。・・・・・そこにしか生命も結果も生まれない原則が働いているからである。「神の国とその義をまず第一に求めよ」マタイ6:33

† 船に乗る。
イエス様はしばしば船に乗られ,そのための記事も多い。昨今の報道では海難事故が目につくが,船は乗員を運命共同体とする特徴がある。船が沈めば乗員は同じく海に投げ出される。要するに密接に繋がっている。船上で嵐に遭遇した弟子達が,船尾で寝ておられるイエスを揺り動かし「私達は死にそうです」と絶叫した。マタ8:25口語訳)まさに,自分達の危機はイエス様にも同じく危機なのだと感覚的に思われたのだ。しかしキリストは悠然たるものだった「海と風をしかられ嵐を静められた。私達はさめた気持ちで感動もせずに読み過ぎるが,その実存の中では脅威であった。「この方は一体どういう方なのだろう」と弟子達が思ったことは至極当然の思いだと言える。聖書にノアの箱船(創世記6-)が出てくる。そこに乗り込んだノアの家族と全ての動物は地を滅ぼす大洪水から救われた。船と繋がっていたからである。信仰は救いの船に乗り込んでいる事を意味している。嵐を見て恐れ船から飛び降りてはいけないのだ。キリストに繋がる共同体(教会)は必ず守られるのである。
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