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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

原点から勝利へ(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/24 10:20
† 喜びであり楽しみである。
 人間が,継続できるのは自分にとって喜びであり,楽しみだからである。これが,正義だから,善だから,義務だから,と言うことで自主的にできることは至難の業である。これが教会生活にも反映する。礼拝が義務であって,喜びでないならば退屈と苦痛なのである。奉仕が義務であって仕方のないことならば,できるだけ避けるように成るだろう。・・・・・悪循環というものがある。人間の傾向性が「善」や「正義・真理」「伝道・証詞」にたいして,興奮を憶えるほどに積極的ではなく,マイナーなのである。すると「なぜ,関心がないのか?」「どうして積極的でないのか」という要求が生まれる。これが教会になると「クリスチャンなのになぜしないのか」「信者なのになぜ出来ないのか?」という具合になる。こうすることによって,ますますジレンマの深みにはまって行くのである。クリスチャンなのにとか,信仰があるのにとか,救われているのにとか,によって事は旨く行くのではないと言うことである。自分にとって,喜びであり楽しみであり,自分のためなので出来るし,続けられるのである。原点の一つに「人間の本質を知る事」が挙げられる。その真実と,聖書の恵みが結びつくことによって,成熟を目指す高次な目標を達成できるのである。

† 心意気。
 「心」(heart)と聖書が言うときには,人の意欲,願い,関心,傾向性などのひとかたまりをさしてもちいられている。そのことによって個性が生まれている。ある人はこのことに興味を示し,ある人は違った事柄に関心を持つ。こういうことが「心意気」である。あることには熱心に続けられ,すなわち情熱を抱けるのである。10人いれば,10人が違った心意気(情熱)を持ってい。100人いれば,何人かが同じ事に心意気(情熱)を感じていて,活動的に神に仕えることが出来るのである。一方まだ,教会にきていない無数の人々の中に「神に選ばれている人々」がおられるのである。波長が同じで,福音のために熟している果実のように,すぐに勝ち取ることの出来る人々の事である。・・・・・私達の愛する婦人の方々が,毎週可児市の各地に赴いて,一軒一軒教会の案内をして下さっている。心意気の同じ人に出会ったならば,神の備えられた人なのである。心のある方々,何よりも教会にまでこられた方々を,祈り執り成し,追跡して行く心意気を持つ教会。そう言う原点を逃したくないものである。
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原点から勝利へ(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/17 10:20
† 反応的にならない。
 世の中では落ち着いた人である。とか,腰の据わった人である。と言うような評価を受け称賛される人達がいる。一流の人々は,その一面を持っている。逆に見れば揺るぎのない信念や一途な精神を持たずして大成はしないと言うことである。こういう人々は原点を見据えて生活しているのである。そこで,原点とは「常に立ち返るべき所」という意味である。それを何か場所のように思うのではなく,心の内に立ち返る原則のことと理解することが大切である。私達に腰の据わった考え方がないと,すぐに反応的になって語り,行動し,後悔すべき結果を招く。自分の人生に原則を持っていると,腰の据わった者となり,様々な人間の主張にも動揺せず,反応的にならず,堅実な建徳の道を歩むことができるのである。その秘訣は「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」マタイ7:24)とあるように,真理の言葉を,思慮深く守ることをすれば,最高最上の原則(原点)を持つことになるのである。よって,私達はキリストの身体に属することを無情の幸いと思わざるを得ないのである。

†  一善一ヶ月。
 原則を身につけるにはどうするか? 多くの賢人が実践し成功させた方法を真似ることは賢明な選択である。私達クリスチャンは真似て歩むことを求められている種族なのである。しかし,真似ると言うことをいやがるクリスチャンが多いとはどういう事か? 私が思うに思慮が足らないか,自信家という傲慢か,尊大な人物なのだ。一言で言えば謙遜になれない自己があると言うことだ。・・・・・これこそ重要な原点「謙遜である」ことを身につけなければならないのである。「フランクリン自伝」をお勧めする。彼が敬虔なクリスチャンとして,しかも社会的な成功者として,いかに霊的(聖書的)な原則を身につけていったか,その努力と方法を知ることができる。一日一善ということが言われるが,一善を「謙遜」として,それを一ヶ月実践する。とても謙遜が一ヶ月で身につくものではないだろうが,意識的に祈りを持って自分の原点として「謙遜」を磨くのである。聖書の言う謙遜のもたらす偉大さを思えば,これに取り組まない者はけっして今以上にはならないではないか? このように私達は年齢に関係なく「真似る者」「倣う者」である。これを放棄したら「煮ても食えない」部類に入ったのである。
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原点から勝利へ(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/10 10:20
†  原点は原則と同じ。
 よく原点に戻るなどと言われる。世の中の流れは時として,「バブル景気」と言われるような実体のない好景気が生まれる。紙の上で金が倍加する様なときには,ここぞとばかりなりふり構わず買いあさる。しかし,そのツケは厳しい現実に突き落とす。愚かにも初めて真顔に変えるのである。・・・・・創業者の精神に変える。とか,企業のあるべき原点に立ち帰る。とか,永続する真のありかたを求めるのである。私達クリスチャンは「どこから来て,何処へ行くか」という原点をしっかりと生きている人種である。これがなければ原点がない人間になる。したがってな霊的な原則を打ち立ててる事ができない。多様な価値感が人間を取り巻いている事は誰でも知っている。しかし,私達は「聖書の示す原則以外に,永遠に繋がる事を知らない」日本の社会の中で,私達クリスチャンは「福音的原理主義者」である。しかし,それはダイヤモンドのような輝きと,何ものにも傷を受けない強固さを意味している。あなたはもっと鮮明に誇りを持って原点(原則)を表に表すべきである。

†  家族という原点。
 「人生はどんなにうまくいっても短いのですから,家族と時を過ごすように私自身,肝に銘じています。」とポール・J・マイヤー(SMI会長)が言っています。敬虔なクリスチャンである彼は,私達にもそうするように勧め,家族と幸せをわかちあい,家族を愛し,そのことを家族に伝えるようにして下さい。と言っている。・・・・・神は初めに「家庭」をお造りになった。単なる人間を造ったのではなく,家族を目的とされたのである。私達は見逃しがちであるが,神の国は教会のみではなく家庭(家族)に見られるべきものである。家族の集中力は,福音への熱心であり,キリストへの感謝が進行形である事だ。その努力をして行く事が原点に留まって行く事になる。子供は親の意向によって形成される。それゆえ,夫婦は結婚の原点に立ち返り,感謝を言い交わす夫婦に,夫は妻を愛し,妻は夫に従う関係を平和のうちに保ち続ける努力をしてゆこう。倉田百三が書いたように「人生は技巧である。」愛もまた自然ではなく技術(努力)を要するのである。ありのままで,神の国がこないように,聖家族も信仰の努力をとおして生まれるものと確信する。
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原点から勝利へ(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/3 10:20
† 勝利の定義。
 勝利の定義が明確でないと的を射てはいないので,そのことを考える。勝利という捉え方は,まず人間性としての勝利である。人間らしく人間にもたらされている真理の情報を収集し生きる事。永遠に生きる本来の人間となる事である。自分の好き勝手に生きる事を勝利とは言わない。人間の本質を極めないまま生きる事は勝利とは言わない。生まれつき病床にあっても人間として勝利者となれ事に変わりはない。永遠に到達する真の知識を得て,その道に立って生きるならば完全な勝利者である。この世で成功者として立身出世することが勝利者ともいうことはできない。「勝者必衰の理(ことわり)あり」で,そう言う勝者は消え去る。勝利とは「死に打ち勝つ勝利者」1コリ15・55-57) また「・・・・・私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」ロマ8・37)と私達が何気なく培っている信仰が勝利の全てであるのである。この原点を見失えば,生きている意味も失い,勝利の定義も失い,浮き草の人生に流されるのである。

† 信仰は肯定的に生きる事。
  人は(あなたは) 肯定的に育てられたか?否定的消極的に育てられたか?考えた事があるだろうか? 日本の文化の中では「アメリカンドリーム」と言うような,文字通り,夢は現実になる。と言うような希望性というようなものが開いていない。しかし,肯定的な志向の下であなたが無意識の中で育てられたならば,幸いだと感謝しなければならない。日本人は「恥の文化」だと「菊と刀」でベネデクトが言ったように,恥をかかない生を生きるということは,大胆さを奪う窮屈さがある。最近の大臣の自殺や関連する大物人物の自殺には,罪を犯して罪を償うよりは,隠していた事を恥じと捉えて,恥を消す(自殺)に赴く,否定的な志向が感じられる。・・・・・暗闇の時に満月の輝きを思える事は肯定的である。土砂降りの日に太陽をみたいと思う事は肯定的である。逆境に出会ったときは,恵みを思い起こし,感謝できる全ての事を書き出す事は肯定的である。心の中に祝福を抱いている事は肯定的である。そう言う人は人生が肯定的・積極的 であるばかりでなく,本当にすばらしい条件が生まれ,状況が変わってくるのである。心の原則というものを重視せよ。そこに日々の勝利があるからである。
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原点から勝利へ(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/27 10:20
†  原則を識る。
 多くのクリスチャンは信仰があれば,良いというように考える。それだけの信仰生活,教会生活を念頭に置いてしまう。その根底には自分の幸せや人生という考えがあることがわかる。確かに人間の生活はその範疇を超えてある訳ではない。しかし,同じ人生でも見つめる世界,持っている目標によってガラリと変わってくる。もし,自分の可能性を知らないならば,これは「負の原点」である。負となったているセルフイメージ(自己像)は,神の産物ではない。これこそは人間の敵であるサタンの仕組みによって造られたものである。生まれる以前から私を知り創造された神(エソ1・4)が,求め,期待しておられる状態ではない。奇しくも主はそんな私達を選ばれ回復されたが,依然として後遺症の低い自己像が支配している。これは決して本来のクリスチャンではない。回復を必要とされているのである。ここに大切な原則の必要を知るのである。「神にあって私は真実の私になる」すなわち負の生活から勝利者の生涯になるのである。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」2コリ3・18

[/b]†  自分の外にある。[b]
 経験の動物としての人間はそれなりの知恵を持つのである。日本人は日本の文化と習俗の中で生きて行くための知恵を培ってきた。しかし人間の生み出したものは所詮人間のためである。クリスチャンになってわかった事は,私達は「地上に国籍はない」ピリ3・10)地上に終始している知恵では,私達の原則とはならない。天に通じるものとしての聖書の真理を知恵とし「原則とする」絶対の必要があるのである。要するに元来人間の中には原則はなかったのである。造られたものとして「アダムとエバ」は生きる原則を神から与えられた。その原則を生きなければ死ぬ,と言われた。けっして手を出してはならない非原則があったのである。私達は戒めとか,律法という霊的な狭義として理解しているが,聖書(神の御言葉)は人生全般を支配する原則の「原点」なのである。教会に来て,何を知り何を学ぶのであるか?この事についてはすべての必要のためということができるだろう。しかし,初代の教会の観点から見るならば,聖書の解き明かしは真理を原則として生きる者への揺るぎない生きた確証と励ましであった。私達の教会も添のようになりたいものである。
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