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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

たといそうでなくても(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/5 9:30
† 真実は裏側にある。
  表に現れている歴史は教科書に書かれている。しかし書かれる事のない裏側があって表に現れる歴史があることを思わせられる。私達の信仰は表面的には他の人々と区別のないように見えている。しかし,私達の一つの言葉さえも信仰を通して出てくる。信仰は隠れて見えないフィルターのように,言葉も,行動も,思いも,動機も潔くする働きをするのである。神の国はそのようにして現れ,そのような人々の集合である。そのような信仰が世界を作り変えることを,キリストは望んでおられ「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」ルカ17:21)といわれる。世界という表舞台は裏側の事柄にあまり関心を払わない。勝ったか負けたか,成功したか,失敗したか。表面上の事柄が大きく評価される。それが自由競争社会のよさだとされる。しかし,人間の真実は万民に公正な神の審きによって明らかにされるのである。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」1サム16:7)私達が地上で永遠に残る信仰の事柄にどれほどに忠実であったかが評価され,正当な報いが与えられる。それがクリスチャンに対する「神の審判である」この世で評価なき者が,天国で大きな評価を受ける現実が起こるのである。

† 主が来られる。
 今あなたは,主が来られても良いですか? 働き盛りの皆様,青年の皆様に,戸惑いはないだろうか? 聖書の信仰は「マラナ・タ(主よ来たりたまえ)」という一語によって特徴づけられていた。主が来られ,瞬く間に変えられて空中に引き上げられる携挙に,心が備えられていたのであった。この信仰は過去の産物だろうか? とんでもない。これは今日こそ最も現実的な信仰の内容となるべき観点である。たといそうでなくても,次の御言葉は重要である。アモ4:12「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」今日の私達にとっては,復活されたイエスに会う備えを意味している。現代のクリスチャンは神の事柄よりも,世界の事柄に中心が移っている。頭ではクリスチャンだが,どっぷりとこの世に浸っている姿である。十字架に死に,自分に死に,世に死んでいる。と言葉を信仰にすることによって,信仰が身につく(身を結ぶのだ)・・・・主が今来られても良い。という信仰に変わろうではないか。
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たといそうでなくても(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/29 9:30
†  必ずなる。
 蓋然(がいぜん)性。これは確実性のことで「確率が高い」という使われ方をする言葉である。実験にたいして,理論に対して確かさは常に求められる。一方,信仰は人間にかかってくる。なぜならば,どの様な霊的な客観的事実が横たわっていても,信じることによってしか自分の現実とすることが出来ないからである。信仰は知るという知識からではなく,信仰は信じて自分の内容とする,あるいは自分の生き様とするものだからである。たとえそうではなくても,聖書の証言は神の御業によってことごとく真実とされたのである。要するに,私の人生の姿勢,態度が即,心の在りようであり,自分の内容なのである。信仰は,こういう意味で知識の多さや,能力で計れるものではないのである。クリスチャンは多くのいにしえの聖徒のように,静まって主の前に出て「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい・・・・。」1コリ13:5)必ず,聖書の事実は自分の事実となる。

†  負けは負けではない。
 著名なロビン・シャーマは,S・ローズヴエルト大統領の言葉を書斎に掲げているという,そこには「・・・・顔を泥と汗と血で汚しながら,実際に現場で闘っている男。勇ましく立ち向かっている男。何度も判断を誤って,期待に添えない男。・・・・最悪の場合は,たとえ失敗したとしても,勝利も敗北も知らない冷たい臆病な連中と違う,あえて勇敢に立ち向かった結果として失敗した男。そう言った男たちこそ,称賛すべきなのだ。」ここには誠実な人間の姿,信仰の姿があると思う。ここには現実に実存して生きる生命が溢れている。この世界では,成功とか勝利とかがどうしても求められる。たといそうではなくても,勝利や成功を度外視して,目的や大義に身を献げて生きる人にこそ,真実な称賛を送りたい。真理のために犠牲を強いられた人々,殉教した聖徒たち。今日も福音のために神の称賛だけを求めて勇敢に信仰を生きる人々に,神の祝福と平安があるようにと祈りたい。
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たといそうでなくても(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/22 10:20
†  生活の信仰。
 信仰生活という言葉が一般的に使われる。これを逆にすると,全く違った意味が生まれる。信仰を行う場としての生活ではなく,生活から信仰を眺めるのである。何気ない生活ではあるがそこから気がつく。たといそうではなくても,私達は信仰の有るべきを学びながら生活に適応しょうとしている。そこには自己を従わせようとする努力がある。一面それは信仰を生活に強制する部分を持っている。そこには,それを嫌がる肉性(生まれつきの性質が)対抗してくるわけである。人間は生活が不自由になることを極度に嫌うのではないか?これを好む人がいるか? 「縛られる」と感じることに居たたまれない感覚に襲われる人もいるであろう。しかし,これは見方を変えれば全く逆になる。メジャーの選手になりたければ,進んで厳しいトレーニングに縛られることを求めるだろう。同じように,多くの利益を求めたいならば,投資というリスクや犠牲を払わないではあり得ないことである。この現実を「生活」と見るならば,生活は信仰によって窮屈になるのではない。生活を信仰に投資する事によって勝ち取る豊かさ,大きな勝利を収穫するのである。主の恵みを現わす生活であるためには,信仰に生活を提供するのである。生活が自然に信仰にチャレンジする,これが生活の信仰の現実だと思う。

†  効率は福音とは成らない。
 劇的な変化というものがある。19世紀になって新聞,雑誌,ラジオというメディア時代が訪れ,教会の宣教のスタイルが変わった。21世紀の今日では瞬時に世界と繋がるIT時代となり,様々な宣教のあり方が模索されている。教会は出来る限りの方法で福音を人々に伝える努力をしなければならないと信じる。これまで私達は東濃地方一円にトラクト配布を行ったし,今日も可児市全域に教会案内を行う訪問している。目に見える効果がないにしても,だからといって止めてはならないのである。これらは言うなれば世の中の便宜をもってより効率の良い福音伝達を考えていることである。また,世の中の利器を用いること,宣伝やコミュ二ケーションを図ろうとするものである。しかし,それで福音が広まるのではないことを知らなければならない。福音は「聖霊の啓示」Ⅰコリ12:3 )によって知られるものであり,神の働きがなければ知られることがない隠された奥義である。だから伝達という技術や宣伝だけでなく,神様が働いてくださるように、という祈り,献身の執り成しがなくてはならないのである。しかし,「たといそうでなくても」私達はまず,地域に教会と聖書のあることを伝達することを求められている。それに祈りが加わる事である。
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たといそうでなくても(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/15 10:20
†  見えるところに依らず。
 聖歌539番は「見ゆるところによらずして信仰によりてあゆむべし,何をも見ず,また,聞かずとも,神の御約束にたち」の歌詞を賛美する。誠に信仰生活のあるべきを教えられ励まされる。 この「たといそうではなくても」と言う言葉はダニエル書3:18に記される,口語訳聖書の言葉である。そこに登場する,シャデラク,メシャク,アベ・デネゴの若きユダヤの青年達がバビロンのネブカデネザル大王像の礼拝を拒否し,そのため7倍に熱せられた溶鉱炉に投げ込まれる運命に追い込まれる。しかし,彼らは「真の神は私達を救い出すことが出来ると告白し,「たといそうでなくても」私達は王の像も,偶像も拝みません。と主の御手に全てを委ねるのである。そして,神の御手の業が起こされる。このような高潔な信仰は私達の心を奮い立たせるものである。・・・・誰にも「見えるものが何もない,聞こえてくるものが何もない」そう言う時があるのではないか? その時こそ神の信仰(御言葉に立つ)事が出来る時でもあるのだ。自分に可能性を見ない時の方が霊的である事も真実であり,弱い時ほど神のご支配は強く,恵みとなる。見えず,聞かずとも御約束に立つ者には神のみ業が待っている。

†  神の力かサタンの業か。
 私達の信仰的な認識では,この世は移り変わる,そして最後は崩れ去る。だからそこには私達人間をとどめる真理はない。しかしこの世の栄華は存在し,富める者と貧しいものがいる。搾取する者とされる者がいる。不正と悪が力をもって支配している。私達はそういう世の中を知っているし,改善不可能を続けている事実を知っている。しかし,そのようなサタンの支配下にあるこの世にあって,神の力が勝ることを確信している。その事によって世界が変えられ神の国が治めるのである。「たといそうではなくても」神の陣営が私達を取り囲んでいることを確信するのである。もし,そうでなければ信仰は実質を失って「口先だけのもの」となり,実態はこの世で地位を得たり,富を増すことが信仰生活の中心になるだろう。聖書では,そんなものは異邦人の切に求めるものであって,神の国と義を第一に求める者には,添えて与えられるものだといっている。マタイ6:33)信仰はブローチのような小さなものではない。その人とその人生の思想を形作るものでなければ意味がないのである。そういう明確な告白を持てる者が前に出て欲しいものである。
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原点から勝利へ(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/8 10:20
†  縦軸と横軸を造れ。
 中国の大建造物(故宮)を見学した。言うまでもなく第一の門に当たるのが,天安門で世界一の広場を有するところだ。7つの門を通ったと思うが,その距離1000メーターで幅は700メーターの宮廷である。この宮廷を中心に北京の町が碁盤の目のように築かれた。日本の朝廷は,中国の長安(西安)をまねて,奈良や京都を建設したのであった。整然とした巨大な建造物は盤石な水平の土台の上にあることをしみじみ感じた。しかし,水平な横軸は垂直な縦軸に添うものである。天と地の垂直な軸が水平を決めているのである。この象徴が十字架である。キリストこそは天と地を繋ぐ縦軸である。キリストはまた,両の手を左右に広げて横木に釘付けられたのは,神の平和が無限の広がりである事を示し「御心にかなう人々にあるように」ルカ2:14)を現している。・・・・さて,地上の皇帝はかくも権勢と権力を誇示しなければならなかったのである。しかし思うに天の皇帝(御子イエス)は,卑賤(ひせん)の姿を取り人となられ,十字架を神の義である権威とされた。確かに地上の権威や権力は過ぎ去り,遺物となり「残っている」が,歴史は虚しさを伴っている。しかし,十字架に現された縦軸は天と地を繋いで廃ることなく。キリストの平和は全地に愛を与え続けている。私達はこの「縦軸」と「横軸」を自分自身の中に建造しなければならないのである。

†  あなたがする事。
 「捨てなさい」「離れなさい」と言われている聖書の箇所を,誰もが見つけることが出来る。これは私達を造られた神さまが,私達に「出来る」から,そう言われているのである。しかし,多くのクリスチャンは「とても出来ません」とか「赦せません」とか「捨てられません」と言っている。・・・・では,誰が出来るのか?多くのクリスチャンは「それは神さまがやって下さる働きだ」と言って,神さまの出来ることに転嫁して,自分では一向に変わることを拒むのである。聖書が言っていることは「これはあなたのしなければならないこと」として,捨てよ,と言い,赦せと言い,離れよ,と言われているのである。もし,あなたが今までのように,曖昧さを続けるならば,この事で神さまは何事もあなたに対して働くことは出来ないのである。自分から祈ることを選んで,主なる神さまと交わり,神さまの御心に服従する以外に方法はないのである。イエス様もそうされたのだから,それ以外に道はない。主なる神さまの前では,言い逃れることは出来ない。そこで,最近の私達を省みようではないか?主なる神さまが見ておられると,本当に信じているのか?を・・・・。臨在とは,神が見ておられる中に生きることによって現わされる「神の聖さ」であることを忘れてはならない。
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