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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

信頼し信じる(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/6 10:10
† 御霊を信頼する。
私達は自意識(魂)を強く理解するものである。今回のセミナーで福野師は的確に「御霊と魂」の領域の違いを教えてくださった。魂とは,知(知性・理性)情(感情・情愛)意(意志・決断)という人間の領域で肉的なもの。御霊(私達の内に内住されている聖霊)は良心として現れ(償う事へと導く),直感力(御言葉を感受する)霊的な交わり(主なる神様と権威的に交わる)・・・・私達は多くの場面で,人間的(魂)の部分で理解し,活動し,霊的であろうとするが,能力や人間的な力に頼っている。このような状況では聖霊様は押しのけられている,ということである。霊的解放は,肉的なものが「静まり」内住の聖霊のうながし(声)に従うことである。私達は「御霊の声か魂の声か」聞き分けられない立場にある。確実に聖霊に導かれる方法はへりくだって,謙虚にしていることである。自分を大きくしていると自分の肉の声を聴いて聖霊の声だと思って大きな誤りをしてしまう。しかし自分の尊大さをうち捨てて,鉄くずのようにへりくだれば,聖霊に引き寄せられ,確かな導きを受けることが出来るのである。

† 真理を信じる。
御言葉の解きあかしを聞きながら,真理が開けてゆく快感を誰もが感じたのではないかと思う。特に「異言の真理」について大きな確信を与えられたのではないだろうか? 私達があまり重要視していない真理が,とてつもない信仰の奥義への扉を開くことは当然あり得ることである。最も難しい課題「霊性を高める」ことについて,「異言はその人の得を高める。」となるように,実践して体得するものである。自分の気分や見解という魂の声を無視して,御言葉をそのまま信じる事である。これが中々難しい,ばかばかしいことと思えることを主はあえて求められのは,御霊が私達の知性や想いを超えさせるためである。異言は確かに,それが何なのという感がある。しかし聖書は「異言は神に語るもの」ものとして,大きな意義と価値を与えていることに注目して,語り続けるべきものである。真理の認識を得てそのまま信じよう。
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信頼し信じる(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/29 18:10
†  自分をいかに信じるか。
 スポーツの世界では自分との勝負ということになる。「勝つと思うな思えば負けよ」という,ひばりさんの歌があったが「柔」の世界ではそれが勝つための無の境地なのだろう。剣豪宮本武蔵も「無心」という,自分に影響されない境地で戦うことを目指したようである。自分を信じる事はたやすいことではない。いかに実績があろうとも,それが物を言う訳ではない。それが精神である人間の世界である。物質化され,機能化されている世界では確かに実績を問われ品性や人格を問われない。そこでは,それで通用するかもしれない。しかし,人間として,また聖書的霊性の尺度からは通用しない。この精神性の問題は,人それぞれが自分と対話し,問わなければならないのである。無の境地に通じる私達の奥義は「十字架」である。パウロの生きた秘訣を現代の私達も必要とする。「我,生きるに非ず,キリスト我が内にありて生きるなり」ガラ2・20)パウロは最大の成果をみて,神の恵みによると言うが,それを生み出すところに「キリストに死んでいる自分」を見ているのである。このように「無に勝る死」によって,自分を信じることが出来る。誠に高度な秘訣である。若いときからこの秘訣を用いて「自分を信じ信頼せよ」キリストに通じ,パウロに通ずるDNAを自分のものとせよ。なぜならば,そうでなければ「自分を信じれず」「勝つ」事も出来ないからである。

† 躓きの向こうにある現実。
 イエス様はあなたを試される。あなたの理想を逆なでするようなことを,あえてあなたに求められる。そしてそれに耐えることが出来れば大きな答え(祝福)をそこにおいておられる。ヨハネ9章の,生まれつき盲目の人に対するイエス様のなさり方で明らかである。この物語の鍵の言葉は「神の栄光が現れるためです」と言われている。さて,全能の神の御子が,生まれつき全盲で不自由きわまりないこの方に,何をされたか?・・・・つばきで泥をつくり目に塗られた。この奇怪な行為で目が開くと,本人も弟子達もと期待した。しかし、そうではなかった。イエス様は続いて,唖然とすることを言われた「シロアムの池で洗いなさい」と,全盲の人にとっては非常な危険を伴う急勾配の坂を下らなければならない。しかし,あえてイエス様は,躓きとなるような要求をされたのである。なぜならば信頼すること,信じることは,躓きを乗り越えてあるものである。問題がある事,問題のある人,リスク(冒険・危険)を伴う内容を乗り越えて行くことが,信じること,信頼することである。そこに結果がある。神の栄光はそのようにして生まれつきの全盲の人を,完全に癒し,見えるようにしたのである。
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信頼し信じる(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/22 10:10
† 5年や10年先を見る。
 4月2日,15歳の私は何もわからない世界に裸一つで飛び込んでいった。これを藪入りと呼んでいた。昭和30年(1955年)のことである,戦争を南洋で体験してきた職人もおられれば,この会社で見事に一端の腕を持ち切り回している人もいた。いろいろな技能を持った集団の中で,最も小さな者として全てに仕える事から始まった。同僚という者がいないので,全てが先輩であり,兄弟子であり,親方だった。朝は会社の玄関掃除から始まり,仕事の終わりは,仕事場の掃除とすべての機械の油ふきをする事。夜は外出する事は禁止という,いわば人間としてではなく修行する者(小僧)として扱われる事を受け入れなければならなかったのである。こういう出発をして行くと一年や2年で何かをものにしたということはできない。あえて仕事は教えてもらえず,人の言いなりに動き,働く事を求められる。一切の自分のやりたい事が拒否される世界なのである。少なくとも5年で何とか,10年で一人前という計算である。それを信じて,つらい日々を耐えなければならないのである。今に思えば,そこを通れた事は希少な体験として,また非常に人格的,霊的な訓練となった。例えばヨセフのように目の前に起こっている事が絶望的でも,5年先を,10年先を見る事が出来る。神の真実を信頼できるのである。

† 今を無駄にしない。
 将来に向かって子供は勉強し,若者は社会に適応する技能を習得する。これは世の習わしである。しかし,義務化されているところでは出来ても,自分の自由の中で出来るかと問われると現状に甘んじ,あえて趣味以外は手をつけないのではないか? 今を有益にして無駄にしないことは充実した生活を約束する。私達クリスチャンは聖書から常に啓蒙的な励ましを受けている。それは短い人生を無駄にしないで感謝に満ちた喜びを生み出すためである。神の豊かなご計画に沿って努力すれば,甲斐のある成熟した結果を持つ事が出来るからである。私達は神の世界にいるのである,目を開いて神に興味と関心を持とう。驚きを与えられた事に留まって真理の意味をつかめ,それが自分自身の本物となる。借り物の真理で満足してはならない。自分のものでないものは自分で噛みしめて消化し自分のものとする作業をすることである。この作業は決して無駄になる事はなく,そこにある宝石を自分のものにする事である。この事を信じ信頼して,試して欲しいものである。
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信頼し信じる(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/15 10:10
† 正気になるために。
 主イエスはサウロの激しい迫害の一部始終を見ておられた。ステパノの殉教の時,その場にサウロがいた事を知られた。サウロは一方的なユダヤ教原理主義者であった。だからクリスチャンは異端者でありこの世から抹殺する対象でしかなかった。そんなサウロをイエスは見ておられた。羊のような無抵抗なクリスチャンを老若男女見境なく捕縛することがまことの神をあがめる事だったのである。主はサウロが,サドカイ人やパリサイ人,律法学者のようではない事を見られた。先の者達は福音を見聞きし,イエスがメシヤである事を大いに知って,背きと,そそのかしでイエスを十字架につけた。サウロの中にはそのような政治的な謀略が見られなかった。サウロは霊的な純粋さのために暴走していたのである。主はダマスコへの道でサウロに現れる事を選ばれた。サウロは真実を知れば,真実に背かずどんな事でもする人間である事を認められたからである。・・・・・主の信頼は裏切られる事はなかった。サウロはパウロとなって誰よりも復活の主イエスを,信頼し信じる者になり,世界に復活の主を宣べ伝えたのである。私達はパウロのように復活の主を信頼し,信じる者であるか吟味を迫られる。

† 長いスパンを持って。
 「ローマは一日にしてならず」と言われるが,確かに人間の成長や自立にも言える言葉である。主に出会って劇的な体験をする者は,急角度な変化を遂げて成長を始める事が出来る。もちろん多くの試練と戦いの中で挫折してしまう事も多いのは否めない。しかし,多くの人々の場合,急激な変化を期待しすぎてはならないように思う。霊的な欲求という事柄に時代差があるからである。今の時代に育っている人々の感覚にあわせながら信頼し信じて,真理に引き寄せなければならない。私達の教会は幸いなことに,長いスパンをもって育成する事を常とする「青少年伝道」を中心にしてきた。長い時間を,信頼関係を築く交わりと,学びと礼拝と奉仕にたむける事によって内面深く信仰が息づく事である。成長するとは「目が開かれる」事である。見えなかった事が自己において真実になる事である。聖霊によりその現実は起こるのだが,そのために「目を開く礼拝があり,真理の学びと交わり,と祈り」が備えられている。私達は常に「主よ,見えるようになることです」ルカ18・41)という目的を持つべきである。
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信頼し信じる(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/8 18:10
† 信じて死す事。
キリスト信仰は,信仰の宗教とも言われる。信じるということが「初めであり終わりである」からだ。なぜそうなのか,それを決定づけているのが,主イエスの信仰である。だから主イエスは信仰の創始者(ヘブル12・2)と言われている。主イエスは最愛の弟子達からも見放され一人十字架に引き渡された。それは主イエスにとって予期されていた事であった。弟子達は「私達も主と共に死のう」とまで言う元気があったのだが,現実になるとあまりの恐怖に逃げ出してしまったのであった。ここに主イエスの信仰があったのである。主イエスはこのような弟子を信頼しておられたと言う事である。ペテロは何とか裁きの中庭までついてきたが,主の言われたとおり,鶏が鳴く前に3度もイエスを否定してしまった。こういう弟子は信頼されるに値しないはずである。それでも主イエスは信頼されたのである。人の失敗に対して信頼する事は「信じる」と言う事である。多くの場合,出来たから信じるに値する者とする。しかし主は完全に失敗した弟子達を信頼して,十字架の死を遂げられた。このような信頼する信仰が後にすべての弟子達を引き出し,世界を作り変える真の弟子に成長させたのである。

† 復活の及ぼすもの。
キリストが「死人の中から復活された」事は,完全な希望を意味している。失格した弟子達は,その頼りなさ,罪深い弱さの自覚と認識の中で,どん底に置かれていた。しかし,死人から甦られたキリストとの出会いによって,すべて払拭されてしまったのである。福音というものは人間の本質を知らされた者に届くものである。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」ルカ5・31)要するに人間に完全はないはずである,まして死人からの復活をされた主イエスを前にして,誰が健康な人間であろう。・・・・・それでも人間は「自分は健康だと」自認して生きてしまうのである。せいぜい身体上の医者には行くが,永遠の魂のためにまことの医者を求める事はない。ここではっきりわかる事は,永遠の命を得る事も,失う事も,その人の「自己責任」だと言う事である。聖書を信頼し信じる事も,福音を聞いても信じないようにする事も,その人の責任である。しかし,その背後で闇の力が働いている事を思えば,福音を拒む人々のために祝福を祈らなければならない。それが福音に生きる者達の責務である。
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