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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

面白くないところに(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/7 9:10
† 自分の身分。
 新内閣は「背水の陣内閣」であると福田さんは言われた。前途悠々たる立場にはないことを言われたのである。時の流れに従って,突然風向きが変わってしまう,そして今までの環境が激変する。私の母方の祖父は村を率いる村長として貢献した人であったと聞く。しかし昭和22年の片山内閣の農地法改正で,大地主の立場は無くなった。これまでの庄屋としての身分は無くなったのである。こういった社会的な身分は体勢によって根本的に変わるものである。面白くもないこととはいえ,近代化の途上ではやむを得ない事なのである。問題は身分という精神的な捉え方である。教会も組織中心になると,信仰は組織の中の自分の位置が優先されるようになる。だから可児福音教会は形骸化を一切排除する。私達クリスチャンはキリストの生命に繋がる肢体として,脳も足も内蔵も皮膚も,競い合うことのない一つの生命である。聖書は「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」1コリ 12:22)というのである。教会を組織として,あるいは人脈として見たり,政治的な「パワーシフト」で動くと見たりしていないか? そういう見方をする精神状態の自分になると,教会の面白味は即,あなたから失われるだろう。   


† 自分が自分を作り出す。
 「こんな私に誰がした」という流行歌が日本中を駆けめぐった時期があった。そこにはつらい社会へのやるせなさや,施政者への不満も含まれていたのであった。なるほど,自分は誰かのために「こうなっている」という被害者意識は案外誰にも沸き上がりやすい思いであろう。誰かとのせいで,生涯を駄目にするような事実のあることを,知らないわけではない。しかし,何よりも自分が自分を築くのだという,重大性を強く感じるのである。・・・・いつまでも変わらないで自立しないのは何故か? どうして聖書的な基礎が実行できないのか? そこには完全な自分への甘さがある。・・・・自分を崖っぷちまで持って行って飛び降りる信仰的行為ができない。甘さのために身につかないのである。誰の問題でもない,誰のせいでもない,自分の甘さのなせる業なのである。社会的に一人前で,選挙も納税もするが,霊的義務が果たせないことを是認するような自分が出来てしまうのである。これを真剣に「面白くない自分」と捉えるべきである。そして,それは自分が築くべきであって,けっして誰かのせいではないのである。
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面白くないところに(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/30 9:10
† 苦手にする意識構造。
 「なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。(箴言22:13)私達は怠け者とは思っていない。家族を養い,人並み以上に省みており,社会的にも何ら非難される所はないからだ。この御言葉で,気になることは「仮装意識」である。獅子などいないのにいると思いこんで行動しない有様である。故意的に状況を作り出している心理状態なのである。・・・・私達には「苦手だ」と思うものがある。気質とか性格によって,合わないものがあることは事実である。しかし,故意的に避けることを通して苦手なんだからと,決め込む事は一種の怠け者である。・・・・「面白くないことを苦手」として行動しないことに終わるからである。私達の生活には「嫌だな」と思うことは沢山出てくる。特定の人間はいない,誰でも持ち場,立場で苦手意識がある。それを打ち破って行くには,誠実さが求められる。主へのコミュットメント(決断した時のような感情の高まりがなくても決断を遂行すること)に従って,手つかずにしていることを始めることである。霊で始められたことを肉の怠惰で終わって良いはずがない。


† 人には出来なくても,神には出来る。
 主なる神さまが,人生をご支配下さることを考える時に,不思議な思いを持つ。私の父は私に特別な強要をすることをしなかった。勉強意識を高めるような指導もなかったが,何を考えるべきかについても言わなかった。しかし,そのお陰で私は自由にキリストを信じた。家風とか父の意志とかに影響されていなかったのだ。しかし,献身すると言った時には,烈火のごとく怒り,勘当すると言われた。しかし,キリストを信じたと言った時には「悪いことではない」と言っていたのである。ある時,叔父が,父をなじっていることを聞いたことがある。私が牧師になるなどは,父がしっかりと監督しとらんからだ。ということだった。私を就職させた叔父に取って,仕事を辞めて献身する事は赤貧に甘んじる道を選ぶことで,最も面白くない,ばかげている事だったのである。では,私は面白くない道を選んだのだろうか?・・・・よく考えていただくと分かることだが,全能の神に全てを掛けて歩むことは,最近発足した内閣に掛けるのとは雲泥の差がある。神には何でも出来る。
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面白くないところに(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/23 9:00
† 言わないでいる。
 自分自身の問題は何であるか?と単刀直入に訪ねて行くと,行き着くところがある。それは,誰にも言わないところである。時間をたどって行くならば,そのところにたどり着く、またそれは言わないでいる事柄でもある。聖書は「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8:17)と言っている。人に言わないでいることも,自分には明らかなことである。神にも明らかな事なのである。・・・・神との親密さは「明るみ」の中で行われるものである。私が自分に都合の悪いところや言いにくいことを秘密にしているならば,神との親密さは実現していないのである。神は知っているのだから良いじゃーないか。と都合よく割り切ろうとするが「光の中を歩む」ヨハネ1:7)からはずれてしまうのである。それなのに,自分の霊的レベルが教会の平均よりも上であるなどど是認してはならない。神の聖い光に照らされて心の闇は光に変わらなくてはならないのだ。その心の闇が砕かれて,教会の交わりと歩みは光の中へと健全に移されるのである。  

† あきらめの安住。
 思い通りになるほど痛快なことはないであろう。牧師の私にはそういう事はあまりない。良いように言い訳をするならば「私の思いではなく神のなされる事がなっている」と言うことができる。それは,主の御心がなることを何よりも求めているからだ。しかし買いたいもの,欲しいと思うようなものは,ポケットの経済の赦す限り思い通りにしている。しかし,どんなに「思い通りになれ,それが最善なんだ。」と叫ぶがごとく思っても,すぐにはそうならない現実に腰が折れそうである。要するにあきらめかけるのだ。・・・・朝ごとの祈りに赴いて365日変わらず目にする請願の一つ一つを祈るとき感じることがある。あきらめないで祈りの中で宣言し,新鮮にすることである。生き生きとした請願にすることだ。それが私の訓練になっている。私達の目にする世界や状況は目に見えて変わっる事がないので,そういう世界を見続けると安住してしまう。すなわち,祈ることを止め,宣言することを止め,チャレンジのない,聖い渇望のない世界に落ち着いて安住するのである。「熱くも冷たくもない」默3:16)所だ。そこは神が厭われる所である。そしてそれが最も身近な教会の問題ではないだろうか?
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面白くないところに(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/16 9:00
† 留まりたいところにあるもの。
 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」ヨハネ15:7)いかにも留まるべき所は主イエス様である。多くの実を結ぶばかりでなく,欲しいものを求めよとまで言われる。そして与えられるからだ。私達は心理的に繋がっている,脳裏の中ではそうしているつもりなのである。ところが,主イエス様に留まると言うことは,人間生活のあらゆる部分で求められている事なのである。具体的な生活をキリストに留まって行うことが信仰生活なのだ。そうしてみると,いかにも生活がキリストから離れてしまっているのではないか。問題はそのことに気づかないままで居ることだ。私達は礼拝や聖会や祈祷会という交わりの中ではキリストに留まれても,夫婦や家族,近隣の人々と中では旧態依然の自分の中に留まっていないだろうか? 古い自分に留まる方が自然になっていないだろうか?。キリストに留まることから遠ざかるならば,豊かな実を結ぶための手立てを失うことになる。今この所で「主よ。私はあなたに繋がる」と宣言しょう。


† 不信頼の原因。
 私達が最も惨めな敗北者となるのは,主イエス様に信頼しない時である。主なる神は必ず私達の信仰を「試み」て,ご自身への信頼を強められる。私達はそれぞれ「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」1コリ10:12)と言われているが,それは試練があるからだと聖書は述べる。主の祈りの中でも「試みに会わせず悪より救い出し給え」と祈る。なぜならば,試練はつらく,心痛み,耐えられない圧迫を伴い,とてつもなく面白くない所だからである。ともすると未信者のごとく神を呪い,不平と不満の世界に落ちてしまう事も起こり得るからである。そういう時は,祈りの友に助けを求めよ。御言葉の励ましを受けよ。呻吟して神の御名を呼び求めよ。そうするならば,私達はこの世から救われた者であり,思い煩う必要のない偉大な生ける神が助けを与えられる。私達はこの世に生きるだけの未信者ではない。信仰によって生きており,神の大能の御腕が私達を支えているのである。イザヤ40:10)試練という最も面白くないところから,かえって強く神を信頼する大きな財産を得るのである。
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面白くないところに(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/9 9:00
† 通りゃんせ。
 「とおりゃんせ,とおりゃんせ,ここは何処へ行く道じゃ・・・・」童謡の一節だが「行きはよいよい帰りは怖い」とある。ある説によると「行き」は生まれること。「帰り」は死ぬこと,と言われている。童謡は結構厳しい内容が多いと聞く。しかしである,我が主イエスも「とおりゃんせ」と言われる。ここを通らないでは一人前にはなれないよ。と言う意味である。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」マタ 10:38)愛する主が,私に「あなたはふさわしくない」と言われるほどのショックがあるだろうか?・・・・例えば,「罪の赦しを信じた時,十字架を通ったではないか。私はそれで十分と信じていた。」と,私達は確かに通ったのだ。しかし,十字架の真意は,負い続けることであり,神の栄光が現れる事にある。肉なる人間は「行きはよいよい十字架」を受け入れるが,十字架を負う「自我に死ぬ」ことを怖がる。否,肉的に面白くないのだ。十字架を負っている人は「キリストの戒めを守れる人である」ヨハネ14:15)キリストにふさわしいなら天の栄光は現される。私もあえて言う「十字架を負う」事は,最も面白い世界に生きる最大の決断である。

† 私の場所ではない。
 頼むべきものが何もない,誰もいない。どうにもならない。これは,最も面白くないことである。しかし,行くべき所があるのである。使徒パウロは,2コリ1:8-9「・・・・非常に厳しい耐えられないほどの圧迫に,生命さえ危うくなり死を覚悟した」「自分自身を頼まず,死人を甦らせて下さる神にのみ頼んだ・・・・」これを「神に追い込まれる」という。逆境が,最大の困難が私達にとって「神のみに追い込まれる」のである。こういう経験がない場合は,信仰はまだ,いろんな世的な衣装をつけており,いまだ本物とはなっていない。優秀であるとか,賜物があるとかが,何かと評価の対象になりやすい。しかし,そういった生まれつきのものが,神の国の評価であるかのように誤魔化す(ごまかす)のが,「世と肉とサタン」である。主なる神は,安易な方法で知られるお方ではなく「隠れています神」イザ45:15)と宣言されている。あなたの場所はどこですか?地上の安住,安逸でしょうか?・・・・主は,あなたの最善のために窮地を備え,耐えられない事態をもちいて「ご自身に追い込む」ことを願われ,ダビデのように神を知る者となるのです。詩144:2「主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。主はもろもろの民をおのれに従わせられます」
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