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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

原点から勝利へ(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/8 10:20
†  縦軸と横軸を造れ。
 中国の大建造物(故宮)を見学した。言うまでもなく第一の門に当たるのが,天安門で世界一の広場を有するところだ。7つの門を通ったと思うが,その距離1000メーターで幅は700メーターの宮廷である。この宮廷を中心に北京の町が碁盤の目のように築かれた。日本の朝廷は,中国の長安(西安)をまねて,奈良や京都を建設したのであった。整然とした巨大な建造物は盤石な水平の土台の上にあることをしみじみ感じた。しかし,水平な横軸は垂直な縦軸に添うものである。天と地の垂直な軸が水平を決めているのである。この象徴が十字架である。キリストこそは天と地を繋ぐ縦軸である。キリストはまた,両の手を左右に広げて横木に釘付けられたのは,神の平和が無限の広がりである事を示し「御心にかなう人々にあるように」ルカ2:14)を現している。・・・・さて,地上の皇帝はかくも権勢と権力を誇示しなければならなかったのである。しかし思うに天の皇帝(御子イエス)は,卑賤(ひせん)の姿を取り人となられ,十字架を神の義である権威とされた。確かに地上の権威や権力は過ぎ去り,遺物となり「残っている」が,歴史は虚しさを伴っている。しかし,十字架に現された縦軸は天と地を繋いで廃ることなく。キリストの平和は全地に愛を与え続けている。私達はこの「縦軸」と「横軸」を自分自身の中に建造しなければならないのである。

†  あなたがする事。
 「捨てなさい」「離れなさい」と言われている聖書の箇所を,誰もが見つけることが出来る。これは私達を造られた神さまが,私達に「出来る」から,そう言われているのである。しかし,多くのクリスチャンは「とても出来ません」とか「赦せません」とか「捨てられません」と言っている。・・・・では,誰が出来るのか?多くのクリスチャンは「それは神さまがやって下さる働きだ」と言って,神さまの出来ることに転嫁して,自分では一向に変わることを拒むのである。聖書が言っていることは「これはあなたのしなければならないこと」として,捨てよ,と言い,赦せと言い,離れよ,と言われているのである。もし,あなたが今までのように,曖昧さを続けるならば,この事で神さまは何事もあなたに対して働くことは出来ないのである。自分から祈ることを選んで,主なる神さまと交わり,神さまの御心に服従する以外に方法はないのである。イエス様もそうされたのだから,それ以外に道はない。主なる神さまの前では,言い逃れることは出来ない。そこで,最近の私達を省みようではないか?主なる神さまが見ておられると,本当に信じているのか?を・・・・。臨在とは,神が見ておられる中に生きることによって現わされる「神の聖さ」であることを忘れてはならない。
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原点から勝利へ(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/7/1 10:20
†  幼子を聖書的に愛する。
 英語には「枝が曲がれば木も曲がる」という諺があるそうだ。幼児のときに愛情不足だったり,両親をなくしたり,トイレ・トレーニングを時期尚早に強いられたりした場合,足を折るのと同様に内面に傷つくことがある。このことが人生という木を曲げてしまうのである。人生の初めに起きた出来事にたいして罪深い反応をした結果,一生涯精神的に足を引きずって歩くことiにもなる。幼少時の一歳という時期は「基本的信頼感」という科目を学ぶ時期だといわれる。これは,誰かを信じる能力ではなく「自分の心を開き,愛情を受けたり与えたりすることのできる能力」のことである。この「基本的信頼感」とは人間関係に不可欠な内面の強さと弾力性に関係し,自分たちを傷つける人間にたいしても,自分をさらけ出せる側面を持てるようになる。これはまさに人格形成の土台をなす重要な部分である。私達は幼少の6年間で,その後の数十年で学ぶ以上のことを学んでいる,ということは驚異である。その中でも最初の1年間は最も多くのことを学ぶといわれる。私達は教会に多くの幼子を与えられていることを感謝しよう。人間の原点は幼児期にある。赤ん坊は最も愛と慰めを必要としている,やさしく抱かれることを通して愛情の受け渡しを学んでいるのである。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」箴言22:6

†  祝福と呪いは選択である。
 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。」エペソ6:1-3  ここで,注目しなければならないことは「そうしなさい」「そうすべきだ」とは言われていないということだ。これは聖書では「絶対的」であることを示しているのである。これを絶対としないで,軽くあしらう人であるならば祝福ではい反対の約束が適応されるのである。重要なことは「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とあるように,祝福と呪いは私達の選択に委ねられている。申命11:26「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。」と,原則を学ぶ上で,この真実は厳粛な法則である。神の言葉(約束を伴う)にも関わらず,いかにも不注意で現世的な感覚で生活しており,御言葉への信頼を持たないのに信仰ある教会だと思っている。こういう信仰,こういう教会にはなりたくないものだ。
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原点から勝利へ(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/24 10:20
† 喜びであり楽しみである。
 人間が,継続できるのは自分にとって喜びであり,楽しみだからである。これが,正義だから,善だから,義務だから,と言うことで自主的にできることは至難の業である。これが教会生活にも反映する。礼拝が義務であって,喜びでないならば退屈と苦痛なのである。奉仕が義務であって仕方のないことならば,できるだけ避けるように成るだろう。・・・・・悪循環というものがある。人間の傾向性が「善」や「正義・真理」「伝道・証詞」にたいして,興奮を憶えるほどに積極的ではなく,マイナーなのである。すると「なぜ,関心がないのか?」「どうして積極的でないのか」という要求が生まれる。これが教会になると「クリスチャンなのになぜしないのか」「信者なのになぜ出来ないのか?」という具合になる。こうすることによって,ますますジレンマの深みにはまって行くのである。クリスチャンなのにとか,信仰があるのにとか,救われているのにとか,によって事は旨く行くのではないと言うことである。自分にとって,喜びであり楽しみであり,自分のためなので出来るし,続けられるのである。原点の一つに「人間の本質を知る事」が挙げられる。その真実と,聖書の恵みが結びつくことによって,成熟を目指す高次な目標を達成できるのである。

† 心意気。
 「心」(heart)と聖書が言うときには,人の意欲,願い,関心,傾向性などのひとかたまりをさしてもちいられている。そのことによって個性が生まれている。ある人はこのことに興味を示し,ある人は違った事柄に関心を持つ。こういうことが「心意気」である。あることには熱心に続けられ,すなわち情熱を抱けるのである。10人いれば,10人が違った心意気(情熱)を持ってい。100人いれば,何人かが同じ事に心意気(情熱)を感じていて,活動的に神に仕えることが出来るのである。一方まだ,教会にきていない無数の人々の中に「神に選ばれている人々」がおられるのである。波長が同じで,福音のために熟している果実のように,すぐに勝ち取ることの出来る人々の事である。・・・・・私達の愛する婦人の方々が,毎週可児市の各地に赴いて,一軒一軒教会の案内をして下さっている。心意気の同じ人に出会ったならば,神の備えられた人なのである。心のある方々,何よりも教会にまでこられた方々を,祈り執り成し,追跡して行く心意気を持つ教会。そう言う原点を逃したくないものである。
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原点から勝利へ(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/17 10:20
† 反応的にならない。
 世の中では落ち着いた人である。とか,腰の据わった人である。と言うような評価を受け称賛される人達がいる。一流の人々は,その一面を持っている。逆に見れば揺るぎのない信念や一途な精神を持たずして大成はしないと言うことである。こういう人々は原点を見据えて生活しているのである。そこで,原点とは「常に立ち返るべき所」という意味である。それを何か場所のように思うのではなく,心の内に立ち返る原則のことと理解することが大切である。私達に腰の据わった考え方がないと,すぐに反応的になって語り,行動し,後悔すべき結果を招く。自分の人生に原則を持っていると,腰の据わった者となり,様々な人間の主張にも動揺せず,反応的にならず,堅実な建徳の道を歩むことができるのである。その秘訣は「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」マタイ7:24)とあるように,真理の言葉を,思慮深く守ることをすれば,最高最上の原則(原点)を持つことになるのである。よって,私達はキリストの身体に属することを無情の幸いと思わざるを得ないのである。

†  一善一ヶ月。
 原則を身につけるにはどうするか? 多くの賢人が実践し成功させた方法を真似ることは賢明な選択である。私達クリスチャンは真似て歩むことを求められている種族なのである。しかし,真似ると言うことをいやがるクリスチャンが多いとはどういう事か? 私が思うに思慮が足らないか,自信家という傲慢か,尊大な人物なのだ。一言で言えば謙遜になれない自己があると言うことだ。・・・・・これこそ重要な原点「謙遜である」ことを身につけなければならないのである。「フランクリン自伝」をお勧めする。彼が敬虔なクリスチャンとして,しかも社会的な成功者として,いかに霊的(聖書的)な原則を身につけていったか,その努力と方法を知ることができる。一日一善ということが言われるが,一善を「謙遜」として,それを一ヶ月実践する。とても謙遜が一ヶ月で身につくものではないだろうが,意識的に祈りを持って自分の原点として「謙遜」を磨くのである。聖書の言う謙遜のもたらす偉大さを思えば,これに取り組まない者はけっして今以上にはならないではないか? このように私達は年齢に関係なく「真似る者」「倣う者」である。これを放棄したら「煮ても食えない」部類に入ったのである。
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原点から勝利へ(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/6/10 10:20
†  原点は原則と同じ。
 よく原点に戻るなどと言われる。世の中の流れは時として,「バブル景気」と言われるような実体のない好景気が生まれる。紙の上で金が倍加する様なときには,ここぞとばかりなりふり構わず買いあさる。しかし,そのツケは厳しい現実に突き落とす。愚かにも初めて真顔に変えるのである。・・・・・創業者の精神に変える。とか,企業のあるべき原点に立ち帰る。とか,永続する真のありかたを求めるのである。私達クリスチャンは「どこから来て,何処へ行くか」という原点をしっかりと生きている人種である。これがなければ原点がない人間になる。したがってな霊的な原則を打ち立ててる事ができない。多様な価値感が人間を取り巻いている事は誰でも知っている。しかし,私達は「聖書の示す原則以外に,永遠に繋がる事を知らない」日本の社会の中で,私達クリスチャンは「福音的原理主義者」である。しかし,それはダイヤモンドのような輝きと,何ものにも傷を受けない強固さを意味している。あなたはもっと鮮明に誇りを持って原点(原則)を表に表すべきである。

†  家族という原点。
 「人生はどんなにうまくいっても短いのですから,家族と時を過ごすように私自身,肝に銘じています。」とポール・J・マイヤー(SMI会長)が言っています。敬虔なクリスチャンである彼は,私達にもそうするように勧め,家族と幸せをわかちあい,家族を愛し,そのことを家族に伝えるようにして下さい。と言っている。・・・・・神は初めに「家庭」をお造りになった。単なる人間を造ったのではなく,家族を目的とされたのである。私達は見逃しがちであるが,神の国は教会のみではなく家庭(家族)に見られるべきものである。家族の集中力は,福音への熱心であり,キリストへの感謝が進行形である事だ。その努力をして行く事が原点に留まって行く事になる。子供は親の意向によって形成される。それゆえ,夫婦は結婚の原点に立ち返り,感謝を言い交わす夫婦に,夫は妻を愛し,妻は夫に従う関係を平和のうちに保ち続ける努力をしてゆこう。倉田百三が書いたように「人生は技巧である。」愛もまた自然ではなく技術(努力)を要するのである。ありのままで,神の国がこないように,聖家族も信仰の努力をとおして生まれるものと確信する。
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