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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

成熟は相関にある(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/9 9:10
† 常に二つのもの。
 相関とは「二つ以上の事物の、一方が変われば他方もそれに連れて変わるとか、あるものの影響を受けてかかわり合っているとかいうように、互いに関係を持つこと。また、そういう関係。」とある。物事が一面的でないように,「一にして関係している二がある」と言ったら,どうだろう。霊的成熟をしてゆく喜びには常に重要な2つの事柄が伴う,与えられる神の恵みと,それに感謝しあふれて与える恵み,が伴って「本当の恵み」になる。赦された者が,自ら赦しを与えて「本当の赦しの祝福」に預かる。ここで見られるように,完成(成熟)のためには相関関係が見られるのである。・・・・・私達は神の栄光を現すプログラム(人格)として,イエス様にふさわしければ,イエス様の香りのする行いが栄光として現れる。ここですぐに気がつくことは,同じ救われた者同士でも,イエス様にふさわしくあろうとしなければ,その人格からは,良い香りを嗅ぐことは難しいのである。主なる神は与え主として,揺るぎないお方であり,私達は救いを与えられているが,主により頼まなければ,揺らぎ倒れる者である。このように,霊的成熟は人格的相関関係に置かれている事を,まず始めに覚えよう。

† 樹は根を張っている。
 当たり前のことだが,樹は地上に見栄えの良い形をして威風堂々としている。地上という言葉は「現れている」という事を現すし,根とは,見えない,隠れていることを表す言葉である。私達はクリスチャンとして聖書の教えを,声たからかに告白する。「私は生まれ変わった。私は完全に変えられたのだ。新しく造られた者である。一切のふるい過去は消え去った。」まさに教理的に正しいのである。ここには「一度救われるならば,永遠に救われる」という,すばらしいキリストの勝利と私達の完成が込められているわけである。このような宣言はキリスト教会の「樹」に当たるものだ。では「根」は宣言されたとおり,洗い清められたか。・・・・・私達が気がつくように,現実的には「根」には,依然として古き人が息づいており,営々と横たわっている。・・・・・表面の現れでは完全な救いが実現しているが,隠れたる根(内なる人)はふるい罪の性質(習慣)として,一介的な宣言で死んではいないことがわかる。現実的な成熟には,この相関(関係)にあるものを,私達が明るみに引き出して,主の御手による取り扱いを受けなければならないであろう。
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真理には私が問題です(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/2 9:10
† 誇りの行き所。
 かってトルコの遺跡を訪れたことがある。エペソを初めとする黙示録にある7つの教会の幾つかだった。ローマの脅威とイスラムそれにキリスト教会の盛衰である。パウロの世界宣教によって生み出された教会は,新約聖書に記されているが,実体としては今はない。しかし,歴史というものはそういうものである。今は主と共にあるパウロにとって痛みではないと思う。神の経綸である完成と,永遠の尺度から見れば地上の変遷は当たり前である。決してパウロの信仰と宣教の誇りは失われることはないのである。さて,私達の評価は業績に置かれがちであるが,地上の評価と天上の評価が違うことを強く意識すべきである。私も魂として存在している,そして造り主である主のご意志に対して誠実であることを第一に求められている。これは業績を残せと言う以上に,生きながらえる間,ただ主に忠実であることだ。そこには,自ずから主に似る成長があるはずである。それのみが誇りとなる,なぜならば天に持ち帰られる唯一のものだからである。パウロは主に忠実であったから,異邦人伝道をし,その結果として著明な教会の基礎を築いた。問題なのは誠実や忠実さを欠きながら,結果や成果を目的とすることである。私達はその趣が強く,巧妙になっているのではないだろうか?。

† 勝利を得るもの。
 「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」 黙示録3:5)7つの教会にたいして,主は勝利を得る者であるように勧めている。その報いは輝かしい,その一つが,このサルデスの教会に言われている約束の言葉である。この教会には救いが全うされていないと言われている。そして目を覚まし悔い改めていないと私は盗人のように来る。それは誰にも分からない。といわれている。私が緊張したのは「生命の書から消すようなことは決してない」と言われたことだ。これは今は生命の書に名前があっても,救いが全うされていないものは消されることを意味している。私達の神学的な理解だけで神の御心を断定できるはずがない。・・・・・「神を試みてはならない」マタイ4:7)しかし,多くのクリスチャンが神は憐れみ深いとし,それで,これくらいの罪は赦されると思い込む。このように神を試み,悔い改めない私達はどうなるかを想像したら震え上がる。常に真理には私が問題である。
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面白くないところに(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/25 9:10
† 目には目を,歯には歯を。
 自分は「反応的な人間である。」これは向こう気が強いと言うことではなく,自己防衛的なのである。なにかを言われることに傷つきやすい性質を持っていたり,単純に人間的に未熟なのである。私は謙遜に,まだまだ,なかなか成熟に至ってはおりませんと言わざるを得ない。最近の恐ろしい事件は「書き込み犯罪である」同級生が顔と顔を合わせている時は親友だが,相手の携帯や,ホームページに匿名を使って「うせー,死ね」「めざわりだ,消えろ」などと,およそ思いもつかないような言葉を使って中傷,批判をする。こういう行為によって自殺に追い込まれた者,学校に行けなくなってしまった者もいる。顔と名前のないこういった「言葉」は一方的に傷つける。それだけに不気味で悪魔的である。人は言葉に反応し影響されどん底に落ちる。ところが普段の私達も,一つの行為に2つの不快を持って報い。一つの言葉にかたくなな言葉を持って返答する。・・・・・しかし,イエス様だったら,右の頬を打つ者には左の頬を向けよ。と言い,7を70倍赦せと言われるだろう。ここで,すなわち反応的になってはいけない,と戒められている。はっきりわかることは「キリストの心を心とせよ」ピリピ2:5(文語)を持って,生きていなければ出来ないのである。信仰とは,反応的に成らず,キリストの心に生き,真理の深みを味わい喜ぶことなのである。


† 素直さの優先。
 まだ2才ばかりの児を見ていて,大いに教えられることがある。もはやしっかりとプライドがあると言うことだ。自分の思いがしっかりあるので,人の言うことに素直に従えないのである。そのために気分よく言うことを聞いてくれるように,その児の機嫌を損ねないように話さなければならない。要するに子供は正直にその時の気持ちを表す,大人は上下関係や,利害関係上から自分のブライドをコントロールしている。大人は素直さよりも賢さが優先しており,子供は素直さが優先している。・・・・・私達の主体性が,賢さに偏するとどうなるだろう。聖書で見るとエステル記に出てくるハマンのようになる。取り入ることの旨いハマン,策謀化のハマンである。しかし彼の末路は破滅であった。エステル9:25 )主体性が素直であるならば,主体性(世界観)の変遷が素直に反映される。主イエスが幼子を拒んではいけない。ルカ18:16)と言われた時,幼子のわがままも,含めて「素直さ」を評価されたのである。要するに子供は賢さを用いて媚(こ)びる事がないからである。これは私達が主に対しても素直で,人に対しても差別をせず素直である事が,主の目に高い評価となっていることを知るべきである。
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真理には私が問題です(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/18 9:10
† 父の心子知らず。
聖書を読めば読むほど,見えてくることは「父と子の関係」である。旧約聖書は「我と汝」という緊張感が私には感じられる。しかし,私達のため御子イエスが一粒の麦となり十字架にお掛りになり,父なる神様は大きな痛みを通られた。新約聖書では,この愛の痛みを通して父なる神は私達に接してくださる。何よりも父なる神は御子イエスとのたぐいまれなる親密な愛の関係を明らかにされ,御子イエス様も父なる神様のお心の内を生き通されたのであった。聖霊の主なる目的は私達が,御子イエス様をとおして,父なる神様と親密な父と子の関係に生きることである。父なる神様の最大の回復は「私達との愛の回復」である。宣教はいかに緊急を要するものとはいえ,父なる神と私達の愛の回復に先んじることはない。礼拝の重要性はそのためにある。・・・・父の心に生きることが,キリストに繋がり,聖霊の宣教の働きに繋がる。しかし,その順序が教会生活の中で定まらない。いったい,私達は父の心を知らないでも信仰を知っている者になるのだろうか?

†  信仰は自動更新されません。
私達の信仰生活は際限なく成長するものである。しかし信仰を停止して動くことをしない人がいると,みるみるその人は後退してしまう。いや,そうではなく成長する人に距離を引き離されてしまうのである。想像して頂きたい,神の聖さに私達はどれほどの距離をおかれているであろう? 近づけといわれ,近づくものが,その無限の距離を縮めているである。愛においても,義においても,信仰においても聖くなろうとしなければ停滞したままである。「・・・聖霊による、新生と更新との洗いをもって」テトス3:5) とあるように,救いは一回的な神の更新によって恵みとして与えられた。しかし,それ以後の自分の信仰には,自ら更新をして行く必要がある。無意識に自動更新される事はない。信仰を前進させる,成長させるのは自らの選択と決断(歩みだし)である。自分へのメッセージにたいして考えず,選択せずに過ごせば,なんら更新されることのないまま旧態依然の状態を維持するのである。人々の成長に関わりたいと願うならば,自らの信仰の成長のため手動で信仰の更新に取り組むことだ。
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真理には私が問題です(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/11 9:10
† 神と私の相克。
相克[conflict]の意味は,対立するものが互いに争うこと,である。真剣に神に対して生きようとすれば,当然そこに,自分という人間の側面が大きく現れてくる。信仰を与えられた人間が,神との相克で苦闘するのは当然であるが,今日クリスチャンは,真剣になることを避けて通っているのではないか?と心配する。安易な信仰理解,理論上で説得できる信仰で事済んでいるのではないか?と心配する。・・・・軽やかで明るいことはとてもすばらしい。教会成長の原因の一つに「笑いのあること」が上げられている。私達のワーシップにも「笑いが絶えず・・・・」と歌われていることは,すばらしい。それは聖書の言う「信仰の結果である魂の救いを得ているからです」1ペテ1:9)となるからである。私はそれを疑わない。しかし,信仰の深みとは神と私の相克の結果として与えられ,揺るぎない者に変えられるのである。・・・・ヤコブが御使いと格闘し(創世32:24-28)その時ヤコブはこう言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」そして,新しいイスラエルという名を,上から(神から)もらったのである。ここに如実に相克(格闘として)の意味が現れている。これを迂回して行こうとする私が居るならば,未来に大きな不安を抱える事になるのである。

† 私にある世界。
 世界という言葉(概念)が,私の中で面白くなってきた。物理的な広大な宇宙も,営々と人間が築いてきた世界も,いずれも次のことが真実である。私が存在しなくてもあるものである。同時に,私が「存在するので世界がある。」要するに神が造られた世界の中で,神の偉大さと驚くべき恵みを感じるのである。たとえば,マコ8:36「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」今頂いている救われている命は,全世界に勝る価値を証明している。ここから見えることは私がキリストにある限り「世界に優る存在」として見られていると言うことである。私がなくても世界がある,と言う見方ではなく,現実的に私がある故に世界がある。世界に支配されている私のようだが,実は私の中に世界がある。・・・・私が存在しなければ実際に世界は関係ない。私が永遠不変の生命の持ち主であり,その中で世界は移り変わり消滅するものなのである。・・・・そんな風に考えたことはなかったが,思い(考え)の次元が変わってきたことが面白い。真理が開かれて行くには,既成の概念の集積である私がネックになる。奇想天外な聖霊の導きに期待する。
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