トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

面白くないところに(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/9 9:00
† 通りゃんせ。
 「とおりゃんせ,とおりゃんせ,ここは何処へ行く道じゃ・・・・」童謡の一節だが「行きはよいよい帰りは怖い」とある。ある説によると「行き」は生まれること。「帰り」は死ぬこと,と言われている。童謡は結構厳しい内容が多いと聞く。しかしである,我が主イエスも「とおりゃんせ」と言われる。ここを通らないでは一人前にはなれないよ。と言う意味である。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」マタ 10:38)愛する主が,私に「あなたはふさわしくない」と言われるほどのショックがあるだろうか?・・・・例えば,「罪の赦しを信じた時,十字架を通ったではないか。私はそれで十分と信じていた。」と,私達は確かに通ったのだ。しかし,十字架の真意は,負い続けることであり,神の栄光が現れる事にある。肉なる人間は「行きはよいよい十字架」を受け入れるが,十字架を負う「自我に死ぬ」ことを怖がる。否,肉的に面白くないのだ。十字架を負っている人は「キリストの戒めを守れる人である」ヨハネ14:15)キリストにふさわしいなら天の栄光は現される。私もあえて言う「十字架を負う」事は,最も面白い世界に生きる最大の決断である。

† 私の場所ではない。
 頼むべきものが何もない,誰もいない。どうにもならない。これは,最も面白くないことである。しかし,行くべき所があるのである。使徒パウロは,2コリ1:8-9「・・・・非常に厳しい耐えられないほどの圧迫に,生命さえ危うくなり死を覚悟した」「自分自身を頼まず,死人を甦らせて下さる神にのみ頼んだ・・・・」これを「神に追い込まれる」という。逆境が,最大の困難が私達にとって「神のみに追い込まれる」のである。こういう経験がない場合は,信仰はまだ,いろんな世的な衣装をつけており,いまだ本物とはなっていない。優秀であるとか,賜物があるとかが,何かと評価の対象になりやすい。しかし,そういった生まれつきのものが,神の国の評価であるかのように誤魔化す(ごまかす)のが,「世と肉とサタン」である。主なる神は,安易な方法で知られるお方ではなく「隠れています神」イザ45:15)と宣言されている。あなたの場所はどこですか?地上の安住,安逸でしょうか?・・・・主は,あなたの最善のために窮地を備え,耐えられない事態をもちいて「ご自身に追い込む」ことを願われ,ダビデのように神を知る者となるのです。詩144:2「主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。主はもろもろの民をおのれに従わせられます」
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4208)

面白くないところに(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/9/2 9:00
† 変えられない所。
 誰でも生きている途上にある。そして生きて来たという過去を持っている。まさに過去は変えられない集積である。考えてみると私達は未来の舵を取る特権を持っているように思えるが,かえって過去に左右されて舵を取っている事に気がつく。・・・・全くそんなことに頓着なく,気づいていない人も多いのであるが,人生を吟味するならば大方はその通りである。要するにここに「変えられない」人間の性(さが)がある。いくら環境を変え,新しい家屋に住んでも,またもや過去の環境と同じような生活状況を造ってしまうのである。ここに被造物としての人間を見るのである。罪の性(さが)に悶絶していたアウガスチヌスは,どうして自分は変わらないのか?新しくならないのか?と絶望の極みにあった時「取りて読め,取りて読め」という内に聞こえる神の声を聞いた。その御言葉は「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」ロマ13:13)であった。そのことを通して,アウガスチヌスが希なる聖人として生まれ変わったのである。・・・・自分の極みは何であるか?それは,変えられない自分ではないか,不快で面白くない自己の現実の所に留まれ,そこに神は現れて下さるのである。


†  どうか赦して下さい。
 おもしろくない代表的な事柄は最近よく目にする。「申し訳ありませんでした」というお詫びである。政府要人や,一流企業の役員が深々と頭を下げる姿が,殊に多いこの頃である。不正を働き,悪事を隠していた犯罪行為に対しては,神は社会というシステムの中で審きを明らかに示される。それとは別に,真理に対する,神に対する霊的な不正や悪事というものがある。警察も来なければ法律も適用されないが,自覚的な行為として「罪を告白する」「罪の赦しを求める」ものである。自我やプライドが,どうしても赦さない「最も面白くない様(ざま)」を選ばなければならないのである。ただ聖なる神が求められる事に押し出され,聖霊の促しに従う以外に出来るものではない。多くのクリスチャンが罪の「赦しを人に求める」ことと「人を赦すこと」に,霊的な間を置くことで,曖昧になり,霊的なシャープさを失っている。十字架の赦しを私達が現すなら,神の天的なエネルギーが働くことを忘れている。あなたは不本意にも罪を犯し,そのままにしていないか?聖霊の促しに反抗し罪の告白を取りやめていないか?赦しを求めるべきなのに「どうか私を赦して下さい」と言わないままにしていないだろうか?
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4166)

たといそうでなくても(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/26 9:00
† 御国の真実。
 「悲しみ尽きざる浮き世にありても日々主と歩めば御国の心地す」という聖歌の歌詞がある。信仰とは保証された希望に喜びを持ち力を感じるものである。希望の頂点に御国(天国)があるのだが,少しも悲観的でなく,あきらめでもない。クリスチャン生活は「日々主と歩む」ことを通して主の臨在の中に御国をかいま見る。それは信仰生活の至福というものである。しかし,近年多くの人が地上にありながら主の御霊に導かれ天国の輝く麗しさを観た人々が大勢現れている。これはヨエルの預言「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」使徒2:10)が大きな意味を持つ。そこには「終わりの日に」と言われている。主がやってこられる携挙の前には著しい聖霊の働きが現れ,各地で死人も生き返るしるしが起こる。そういうニュースを当たり前のように聞くようになったら,誠に主の来臨が近づいているのである。たといそうでなくても,私達は聖書に照準を合わせた信仰を注意深く備えなければならない。神が望まれるように「主の携挙に備え」また地上に激しく臨む「聖霊のお働きに備える」これがバランスのとれた教会の信仰と働きとなる。


† 世界を視野とする。
 「世界を視野とし,世界と交わり,世界に出て行く教会」これは私達の見つめ続ける教会像の第一に挙げている理念である。もし,この理念(言葉)がないなら,私達は語るべき言葉を持たない。理念として固定される時それは神に憶えらればかりでなく,可児福音教会のDNAとして,その体質に形成されて行くのである。私達が強い者ではなく,世の権力者,知者でもない(1コリ1:26-27)しかし,信じる者の愚かさを通して,神の愛と力は世界を変えることが出来るのである。たとえそうでなくても,世界を視野とするという事は,今立っている所から始まっているのである。言葉を代えて言うならば,立っており,置かれている所で信仰を働かせていることが世界に通じて行くのである。しかし,大きな事や,遠くのことを見て,今の現実を逃避したり,現実の不備に,不平や不満を口実にして怠惰であるならば,不的確な人とされる。そういう群れは教会としても不的確であろう。世界に出て行くほどの教会は愛と寛容を持って難事を克服している。だから成長するのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (5176)

たといそうでなくても(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/19 9:30
†   山を下りても。
 教会の頂上ともいえる聖会が,我が教会では春と夏のキャンプである。中高生は今年もすばらしい講師に恵まれ,初めて参加した若者が積極的に応答した。それは教会の全員が祈りを捧げて主の御名を呼び求めて下さったからである。私達にとって,これほど嬉しいことはない。同時に行われた青年キャンプでは,著明な講師のビデオを通してリーダーシップの学びが行われた。私も学びに参加したが,教えの強調点が明確で説得力があった。参加した青年の感想や決意表明を感謝し尊敬する。主は一人一人を豊に導かれるであろう。たといそうでなくても,聖霊は私達の知性に目覚めの機会を与え,主へのコミュットメントの重要性を全員に行き渡らせられた。感動の山を下って,普段の生活が始まったが「主に対して決断したことは,感動が冷え切ったにしても行動し継続する。」これが21世紀のリーダーなのだ。 

†  われ土方なれど。
 この3周年献堂記念日に,特別講師としておいで下さった滝元明先生が書かれたベストセラー「われ土方なれども」は,意図の中に「たといそうではなくても」という,強い信仰表明が隠されている。先生の真っ赤に焼けてほとぼしる信仰が,郷里,田舎での開拓自給伝道を決意された。その時に生活の糧を得るため土方としての重労働をされたのである。人というものは条件の良い事柄を選び,易しい事から始めようとする。しかし先生は重労働の土方であることを選ばれた。外見からすれば,見栄えのしない一介の労働者である。しかし,その中身は甦りの主であるイエス様の力と喜びとに満ちておられたのである。たといそうではなくても,先生の歩みは,日本の各地に福音を宣べ伝え,甲子園ミッションを成功へと導かれた。一介の土方なれど,その主の恵みによって「愛と熱血の伝道者」であり続け,日本の福音化のために尊くもちいられておられる。紅顔の少年ダビデを選ばれる神は,主を熱愛し,主と共に歩む固い決意を持つ者を愛される。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」イザヤ26:3
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (5116)

たといそうでなくても(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/8/12 9:30
†  困難の意味。
 私達は平穏を求めるし,そのために努力を積み重ねている。しかし,生きている途上には問題は起こる。職場における仕事上の困難てあったり,家庭に起こる難しい問題であり,自己自身の精神的問題における困難,人間関係の困難が待ち受ける。クリスチャンは良く神は愛ならば,なぜに苦しみを与えられるのか?という。聖書は「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」ヘブ12:6)その目的は信仰の躍進であり,人生の飛躍である。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:11)確かに,企業においても困難に直面し危機に陥りながら見事に克服し,強靱な体質に生まれ変わったケースは限りなくある。特に日本の企業はそう言った修羅場をくぐり抜けてきたのである。たといそうでなくても,試練は信仰に必要なのである。困難に直面することにおいて,祈りに向かい,主の御顔を仰ぎ求め,信仰に集中するのである。それによってしか神を知ることがない場合が多い。神の御業は不可能にたいして可能として現れることを望んでいる。

†  主よ来たりたまえ。
 私の信仰とは,いかなるものであるか?聖書の求める真理に忠実か?内的な変革をして成長しているか? 今,主の来臨を喜べる準備が出来ているか? 「主よ来たりたまえ」は水野源三さんの詩で,元コロンビア・ローズでクリスチャンになった湖美芳さんが賛美さたタイトルである。透き通った信仰は,崇高な詩となって表れる。今という現実に,主よ来たりたまえとあたかも恋人に逢う喜びにも似て待ち望んでおられる。たといそうではなくても,私の内に主こそ唯一の慕うべき御方であるという確たる位置を与えるべきである。現実に主のみ顔を拜したいという思いと,信仰のうちで主のみ顔を拜したいというのでは,どこか違うだろう。しかし,今この現実の中では,今に対するキリストの勝利の信仰を推進しなければならない。一人の悔い改める者を生み出すために教会は産みの苦しみを委ねられている。ただ,そうであっても,主にお逢いする喜びと楽しみが損なわれることはない。主よ来たりたまえ,と自らの顔が輝くほどに主を慕う喜びを持ち続け得ることを望む者である。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (5314)
牧師の想いカレンダー
« « 2018 7月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 1 2 3 4
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top