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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

深みにこぎ出す(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/4 10:00
† 驚くことが深み。
 このたびの教職者セミナー(浜松)では大きな驚きが幾つもあった。ローランド・ベイカー先生は宣教地のモザンビークにおいては死人がすでに80人も甦っていると言われ,あたかも癒しの一つに過ぎない感覚を持ってしまった。そこを訪問したアーノット先生は普通の子供に見える女の子が,7人もの死んだ人を甦らせた事を知って驚き,つい尋ねてしまった「どうしてできるの?」 と,彼女は死んでしまった硬直した赤子を抱いて,主の御名を呼び求めること7時間に及んだという。しかし,体温が与えられ動きだし,ついに鳴き声を上げて生き返った。この奇跡が村中の人をキリストを信じさせるところとなった。こういうことが現実となる世界が来ていると言うことである。知的に固まって,ちっぽけな体験を信仰の全てにしてしまっているならば,なんと惨めな信仰ではないか? 多くの教えの型にはまって護教的になり批判ばかりが上手な信仰には無縁でありたい。人間には信仰の完成など無い,キリストのみ「信仰の完成者である」(ヘブ12:2) 信仰は成長し天国の事柄を地上に来たらせるものである。これで十分ということがない。それが深みにこぎ出す時の内容である。

† 突き進む。
 トロントのリバイバルが始まって今日まで終わることが無く,そのリバイバルの火が燃え続けている。ツィンゼルドルフ卿のモラビア兄弟団のリバイバルの火が100年間続いたと言われるが,本質において似ているのではないかと思っている。私達もビンヤード・リバイバルを身に受けてトロントプレッシングを延長線上に見ることができる。リバイバルの継続が私達の受け取ったミニストリーの原則に根ざしていると言うことである。ミニストリーの実践的な事柄の中に聖霊のお働きが継続されるということである。リバイバルは「知る(知的)」からミニストリーによる「識る(体験)」へ移らなければ失われてゆくものであると言うことだ。トロントは「しるしと不思議」のミニストリーを続けることを通して,リバイバルを拡大し深めていると悟った次第である。私達も同じように突き進むならば,リバイバルの深みへの道を発見するだろう。
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深みに漕ぎ出す(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/1/28 10:00
† 整備する。
 整理整頓は物事を効率よくする手だてである。私の小さな本箱のファイルでさえ、どこに置いたか忘れてしまい騒動になる。さて,このところ教会ではシステムの見直しが行われている。どのように手順をふんで決定するか。また、どこで大切なことを考える場所とするか、というようなことである。深みに船を乗り出すには余分な荷物を取り除いたり,オールにこびりついている貝や藻を取り除くのは自然のことである。なによりも大切なこととして求められていることは、自立的な信仰を持つこと、自分で気づいて答えを見いだしてゆくことである。今までは誰かの指示(答え)を待って指示通りに動けば良かったととすれば,これからは自分の中にすでにある答えを見出してゆくことである。それが自立的になることであり,自主性を身につけることである。そういう人々が協働して成熟していくのが,これからの新しい教会のスタイルである。上からではなく、下から上ってゆく組織(システム)逆三角形の,すべての人による教会が描けるのである。聖書的なマネジメントとしてキリストの身体造りが,いかに魅力的であるかがよく分かる。しかし,日本人の文化としては難しい課題であることは言うまでもない。立っていると思うものが自立的協同的な信仰を培う事である。システムに見合った内容は,やはり人の質にかかってくる。キリストに似た分だけが人々に影響力となることを片時も忘れてはならないだろう。

† 実現していく事柄。
 私に実現している事柄とは,と考える。過去と現在をみつめることになるが,未来においてのイメージが常に欠けている事に気がつく。起きてしまったことはどのように分析評価しょうとも,結果として感謝しつつ受け入れるのみである。私達は未来について「神様なら私に出来ること」を語るべきではないかと思う。要するに夢をえがけない現代人の中にあって,夢は実現する,というメッセージを生きている存在になることである。私達の確信は「神が私達の味方である。」ということであり,「必ず報われる。」ということである。そこにこそ夢を託す源泉があるし,多くの証人がその通りなんだと言っている。神様の手の中には私の100倍の人生の祝福のプロセスも,たった一倍の祝福のプロセスも用意されている。これは誰にでも同じように用意されているのである。ならば夢を語れる者になろう。まず,思うことであり,描くことであり,言う(宣言)することである。神の力に頼るときには,信仰によって神の聖霊がお働きになり実現される。何事も主をすべてとして取りかかれば,悔いることは何一つない。すべては御手の中にあるのだから心配は無用である。
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深みに漕ぎ出す(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/1/21 9:20
†信仰の深みへ。
 ペテロは水の上を歩んで立っておられる主イエスに「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」マタ14:28)と語りかけた「主は来なさい」と言われた。ここに信仰の深みの奥義があると思う。「私は信仰によって水の上を歩く」と宣言した訳ではない。ペテロは主に「お命じになって下さい」と言っている。私達はそれぞれ固有の限界を持っている。Aさんには大問題と思われることが,Bさんには何ら問題ともならない。しかしある事柄では逆転現象も起こる。12弟子でも一様ではなかったのだ。私達それぞれが,深みに向かって信仰を働かせることが出来るとすれば「主よ,私に水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください」と呼びかけることが出来ることだ。私には到底不可能な事柄だけど,神の御業を行わせてください。と懇願することである。この懇願(祈り)が信仰を深みへと引き出すのである。それをするのは,あなたではなく全能の主である。その現実があればこそキリスト信仰は存在するのである。

†御言葉の背後。
 私達は何事も肉眼で見る時には平面的に見ている。もっと進んでみるときには三次元的に見る。もっと進んで四次元的に見る。過去,現在と未来並びに神のご支配をその約束を見ることで,当たり前が当たり前でなくなる。私達人間が知的な存在であるのは,神の実在とその御言葉を四次元的に理解して霊的な存在として人間を生きるためである。御言葉の背後には神の御業の全容が秘められている。義務として御言葉を読むのではない。御言葉を知らなくては生きている自分の存在がわからなくなるからである。要するに御言葉は単なる言葉,一次元的な内容になってしまうのである。「初めに言があった」そして私の全て(存在)がある。この秩序(哲理)を逸脱すると人格も人生も分解してしまうのである。御言葉を楽しめる人が本当に安定した充実した人であることを体験して欲しいと念願する。
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深みに漕ぎ出す(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/1/14 9:20
† 新しい領域を作れ。
私達は幸いな教会に属して信仰生活を守られている。今年三才未満の幼子達が九名になる。驚くべき祝福ではないか? 私の故郷の村では一年間に一人しか出生しなかったというのだから比較にならない。そういうことどもを祝福として受け入れてゆく広い心持ちを必要とする。そうでないと恵みとは何なのかわからない当たり前の生活になる。私達は自分の心の領域を旧態依然のままに始めていることに気がつく。本当は自分達が生きておれば、必ず恵みを蓄積し、能力も力量も増しているはずだ。聖書には「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」イザ54:2)と言う。これはあなたの魂の領域を大きくせよ。という命令である。なぜならば、主は満たしてくださるからである。どんなに優れたコンピューターのプログラムでも領域に充分な余裕が無ければ働けない。深みに漕ぎ出すとは、自分に領域を作ることだ。領域を大きくしただけ自分を大きくし、成長させ、多くの成果をもたらす事が出来る。キリストにあって大きな自分を描け、それが領域である。

† 再起動。
聖書には「奮い立て」「燃えたたせよ」という言葉があり、いずれも熱意を伴う言葉である。しかし気乗りはしないけれども、自分の感情を無視してやってみる、という内容も含んでいる。私達信仰を持つ者は誰でもそのことを経験しているのではないだろうか? ペテロが自分の感情では否定的で冷めていたのに「お言葉ですから」と言って感情とは裏腹の行動をして驚くべき収穫をした。それが信仰なのである。多くの人は自分の感情が伴わないと肯定的に信仰的な決断や行動をしょうとしない。感情が大きなマイナスとして人生も蝕んでしまっている。これは常に浅瀬に留まり感覚的な世界(砂の上)に立ち続けるに過ぎない。こういう世界に生きている自分を再起動させて、自分の思いや感情に逆らっても「主に従う」「御言葉を信じる」という奮いたった、新しい信仰生活に出発して行きたいものである。主の御霊があなたの信仰を引き上げられるようにお祈りする。
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深みに漕ぎ出す(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/1/7 17:10
† 継続し続ける。
漕ぎ出すということは「向かう」ということも意味している。今までの歩みを評価しつつ「新たな方向」へ歩み出すことである。主なる神様は偏狭なお方ではない。常識的には考えられない「酒場における宣教活動」もされている。ビンヤードはホモやレスビアンの宣教もしている。主は失われている人々のためにどんなことでも可能にされる方である。さて、私達はそれほど宣教の視野が開かれているわけではないが、私達が開拓教会として宣教を進展させており、成長を見せているならば、県下は愚か中部一円の教会の励みを生み出すことになるであろう。特別でない普通であればあるほど多くの教会にインパクトを与えられるのではないか? そういった自覚をもって立ち上がった2007年である。「濃尾平野岐阜三川プラン」は、漕ぎ出してゆく「方向」である。何よりも一人一人が重要とされるプランであり「全ての人が大切にされる教会」は可児福音教会のモットーである。

† わかるためにする。
発明や発見に至るためには「仮説(見込み)」が立てられる。エジソンは白熱電球を発明するのに5万回の実験(失敗)を繰り返したという。気の遠くなるような忍耐の連続である。しかし、聖書は私達のために実験済の理論と実践の仕方をあきらかにしてくれている。教会成長とは究極の所、成熟したクリスチャンを育成することである。混乱を招くような概念や用語が飛び交っているが、惑わされる必要はない。結局、愛のあるところにしか命が生まれないように、十字架の愛が浸透しないところに真の交わりも生まれない。聖霊のお働きを仰ぐのでなければ霊的な進展を見ることもない。そのため聖書にはどの時代にも通用する霊的成長の原則が書かれている。私達は現代の今ある状況にのなかで、あれやこれやの具体的な取り組み方をあきらかにして、原則を活かしてゆくのである。人間のアイデアや考えはこれから幾万通りも発明されるだろう。それは教会を作る中味ではなく真理の原則の入れ物に過ぎないという事である。願うことは、私達のビジョンが聖霊様の働きやすいものである事。そのように努めて行きたいと思う。
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