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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

繋がる真実(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/3/4 10:00
† 惑わされない。
私達の信仰生活のみならず,平穏な生活を脅かすものに惑わしがある。これは作略的にもたらされるものもあるが,いろいろないきさつから生まれて,混乱させられたり,不信を抱かせられたり,恐れに引きいれられたりする。惑わしがやってくると平安を失い,今までの繋がりが弱められてバランス感覚を保つことが難しくなる。私達も厳しく注意しなければならないと思うことは,悪意の言葉,中傷の言葉,聞こえよがしに言う言葉,不注意な非難の言葉である。私達は自己愛がある限り,サディスト(人に苦痛を与えて喜ぶ性向)を罪人として持っていると思う。それは,そこにいる人や隣人を無視するという仕方でも実行されている。これは悪意の惑わしであって,とてもキリストの平和とはほど遠いものである。・・・・・こういう惑わしがきたならば主との繋がりを(静まって)強くせよ。雄々しく立ち向かうのでなければ負ける。

† 気長に待つ。
 これは主イエス様から学ぶことである。主が選ばれた弟子達を見ると即戦力としての器だったろうか?と思わされるからである。どう見ても神の国の即戦力とは言い難いものがあった。しかし主は少しも焦っておられない「働き人が少ない」と言われたが,あなたがたは未熟でだめだ,とは言われてはいない。これは私達にも当てはまる。主は私を決してあきらめてはおられないのである。世界の救いという神様のご計画から言えば12弟子から初まり,今日の私達はこの現実の時代の弟子としておかれているのである。12使徒も,また私達も,現実を生きるキリストの証人として生きるように愛され,育てられているのである。私達は自分に言い聞かせ,宣言しなければならない。「私は主のご意志によって主の弟子である」主のご意志に繋がることが何事にも勝る「揺るぎなさ」を持った弟子だからである。愛の忍耐を持って見つめて下さっている主に心からの感謝を献げたい。
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繋がる真実(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/25 10:00
† スイッチ9。
この話は金曜の祈祷会で分かち合ったが、もう一度自分のために確認したいと思う。クリスチャンにとって礼拝することは生命であるが、聖日の礼拝に入り込めないまま過ぎてしまうことがある。プログラムだけが進んで醒めた自分が取り残されているというわけである。生き生きした礼拝が何より大事だと説明され学んできた。では具体的に礼拝を間違いなく持てるにはどうするかだ。
礼拝にこれない自分、醒めた自分を切り替える「スイッチ」が必要である。その時に「スイッチ9」と思い起こすのである。9とは詩篇9篇のことで、ダビデの礼拝の仕方に倣う事になる。第一、静まる---心を尽くして主に感謝する(1節)。この感謝の思い巡らしが礼拝への入り口となる。あらゆる手段をもって主への感謝を生み出すことである。第2は、主の素晴らしい御業を宣言し、告白する(1節)。第3は主を喜びとし誇るとある。この様に「スイッチ9」を入れることで主に繋がり、自ら礼拝できるようになる。礼拝は受身ではなく、自ら主に繋がって礼拝となる。

† 主が繋がって下さる。
ヘブル13:5「私はあなたと共にいる。私はあなたを捨てない」(現代訳)礼拝の本質は「私が主を礼拝する」という態度に現れるものであるが、この御言葉は、そういう私達に「決して離れないで共にいる」と主は約束し、「決してあなたを置き去りにしない」と言われる。私の意識や感覚では及びもつかない驚くべき約束の言葉である。私達は十字架の主イエスを私への真実な愛、深い憐れみとして感じる事ができるが、この主なる神様の約束をしっかり受け止め「意識化」したい。主イエスがまず初めに愛して下さったように、主なる神様は私と繋がって下さっていてくださる、ということである。それは私の状態の変化にかかわらず変わることがないという。驚くべき恵みである。
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繋がる真実 (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/18 10:00
† 留まる。
主は,私達に向かって「あなたがたは枝である」と言われた。キリストに繋がっている(留まっている事の)重要性を指摘するためである。でなければ実を結ぶことは出来ない。要するに,結果を出せないよ,と言われたのである。結果というものは,行動に伴って生まれることを私達は知っているので,勢い私達は自分が何かをすることに向かってしまう。しかし,これが私達が経験している世の中の常識である。ではイエス様の真意は何なのか,常識的におかしくないのかと吟味せざるを得ない。まず第1に,神の国の法則を念頭にして語られている事を思うべきである。では,地上の社会では通用しないのか?と言うと完全に通用するのである。このことから言えることは,神の国のものは,地上の社会でも通用する。しかし,地上の常識では神の国に通用しないと言うことである。私達はビジョンを描く時に「結果」を想定している。そして,結果を生み出すために,何をすべきか,という行為を作り出そうとする。しかし,神の国の法則は,自分を「枝」に過ぎないことを覚え「木」であるキリストに繋がれと言われる。・・・・・そこにしか生命も結果も生まれない原則が働いているからである。「神の国とその義をまず第一に求めよ」マタイ6:33

† 船に乗る。
イエス様はしばしば船に乗られ,そのための記事も多い。昨今の報道では海難事故が目につくが,船は乗員を運命共同体とする特徴がある。船が沈めば乗員は同じく海に投げ出される。要するに密接に繋がっている。船上で嵐に遭遇した弟子達が,船尾で寝ておられるイエスを揺り動かし「私達は死にそうです」と絶叫した。マタ8:25口語訳)まさに,自分達の危機はイエス様にも同じく危機なのだと感覚的に思われたのだ。しかしキリストは悠然たるものだった「海と風をしかられ嵐を静められた。私達はさめた気持ちで感動もせずに読み過ぎるが,その実存の中では脅威であった。「この方は一体どういう方なのだろう」と弟子達が思ったことは至極当然の思いだと言える。聖書にノアの箱船(創世記6-)が出てくる。そこに乗り込んだノアの家族と全ての動物は地を滅ぼす大洪水から救われた。船と繋がっていたからである。信仰は救いの船に乗り込んでいる事を意味している。嵐を見て恐れ船から飛び降りてはいけないのだ。キリストに繋がる共同体(教会)は必ず守られるのである。
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深みにこぎ出す(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/11 10:00
†深みは進行形。
 深みに漕ぎ出すと言うことは,岸から遠く離れてゆくような感じをいだく。確かに現代の漁では遠海に漕ぎ出してマグロなど捕獲してくるからである。しかし,イエス様はここで霊的な収穫について語られた事を覚えたい。ペテロは「お言葉ですから」と従うという霊的な出発をし,深みに漕ぎ出した。私達にとって一番大事なことは霊的な資産を持つことである。聖書に「持たない者は持っているものまで取り上げられる」マタ13:12)とあるように,キリストの恵みと祝福を内的な収穫として得る事を必要としているのである。深みに漕ぎ出すとは,それは「自分の悟りに頼らない」箴言3:5)事である。前文に「心を尽くして主に拠り頼め」と書かれているように,自分の悟りに留まるとき前進は止まり,恵みと祝福の収穫が無くなる。多くの賢い人々が自分の悟りに留まりやすく,霊的な祝福に乏しくなることを多く見てきた。神からの悟りは絶えず新しくなる。深みへこぐとは,前進する進行形であることを忘れないようにしたいものである。

†人こそ本文。
 ガリラヤの漁師にとって網は命であることを意味していた。それは道具として今日も用いられ続けている。霊的な意味では網は福音のことで,これまた2千年前と変わりがない。この網を持って多くの収穫をするのである。私達をイエス様は「人間を取る漁師」にすると言われた。漁師は捕るべき相手を知り尽くす必要がある。私達が現代の青少年や社会人の動向を知ることに力を尽くすことと同じである。なお最も大事なのは網を扱う本人(私自身)である。福音を知り尽くす,その深さ高さを識らずしては網を賢く扱う術を知らないことと同じ事になる。一人のリバイバル(神を識る)ことが,何よりも先立つ事を覚えたい。
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深みにこぎ出す(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/2/4 10:00
† 驚くことが深み。
 このたびの教職者セミナー(浜松)では大きな驚きが幾つもあった。ローランド・ベイカー先生は宣教地のモザンビークにおいては死人がすでに80人も甦っていると言われ,あたかも癒しの一つに過ぎない感覚を持ってしまった。そこを訪問したアーノット先生は普通の子供に見える女の子が,7人もの死んだ人を甦らせた事を知って驚き,つい尋ねてしまった「どうしてできるの?」 と,彼女は死んでしまった硬直した赤子を抱いて,主の御名を呼び求めること7時間に及んだという。しかし,体温が与えられ動きだし,ついに鳴き声を上げて生き返った。この奇跡が村中の人をキリストを信じさせるところとなった。こういうことが現実となる世界が来ていると言うことである。知的に固まって,ちっぽけな体験を信仰の全てにしてしまっているならば,なんと惨めな信仰ではないか? 多くの教えの型にはまって護教的になり批判ばかりが上手な信仰には無縁でありたい。人間には信仰の完成など無い,キリストのみ「信仰の完成者である」(ヘブ12:2) 信仰は成長し天国の事柄を地上に来たらせるものである。これで十分ということがない。それが深みにこぎ出す時の内容である。

† 突き進む。
 トロントのリバイバルが始まって今日まで終わることが無く,そのリバイバルの火が燃え続けている。ツィンゼルドルフ卿のモラビア兄弟団のリバイバルの火が100年間続いたと言われるが,本質において似ているのではないかと思っている。私達もビンヤード・リバイバルを身に受けてトロントプレッシングを延長線上に見ることができる。リバイバルの継続が私達の受け取ったミニストリーの原則に根ざしていると言うことである。ミニストリーの実践的な事柄の中に聖霊のお働きが継続されるということである。リバイバルは「知る(知的)」からミニストリーによる「識る(体験)」へ移らなければ失われてゆくものであると言うことだ。トロントは「しるしと不思議」のミニストリーを続けることを通して,リバイバルを拡大し深めていると悟った次第である。私達も同じように突き進むならば,リバイバルの深みへの道を発見するだろう。
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