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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「趣き(おもむき)」5

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/4/12 17:13
† ビンヤードカンファレンス。
 11-12日と私達の可児福音教会において,日本のビンヤード5教会と,アメリとイギリスから教師達が訪れ,総勢19名の皆様が来られた。親睦と互いの学びの時を保ち,パートナーシップのあり方について互いに話し合う時がもたれた。2回のセミナーがすべてのリーダーに公開され,多くの皆様が参加された。私達は自分たちがビンヤード教会であるという「趣き」を一層明確に出来たのだと思う。重要なビンヤードの価値観として,①過去の季節において「しるしや不思議」が著しく現れた時期があった。それがビンヤードの全てではないし,それはそういう時期がビンヤードにあったのである。②私達は「御言葉を重要にする」しかし,御言葉は全て主イエスご自身を指し示しているのであり,私達がイエス様のようになることを求めて行くことが最も重要な価値だと理解する。というものである。これはすべての教会に当てはまるものである。しかしそこには教理のための御言葉ではないこと,御言葉は生活の中に息づいてゆくことが求められている。③主イエスはすでに神の国を初めて居られる,ここ「可児福音教会」に,生きておられるのである。キリストが愛を行われたように,あわれみの御業を行われたように,新約聖書の事実がビンヤードの求めるところであり,私達の可児福音教会の趣きなのである。

† 錨のような信仰。
 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」6・19)停泊している船舶にとって,嵐の中の安全は「錨」(ストレックスアンカー)である。ここで用いられている御言葉は,安全である象徴として「錨」が描かれているが,錨は重いという象徴でもある。船の重量に応じた重さが錨に反映されて取り付けられる。揺るぎのない信仰を「錨のような信仰」として見ることが出来る。キリストを信じる者は「錨のような安全」を持っていることを決して忘れてはいけない。その安全に留まるばかりでなく,揺るぎのない錨のような重みのある信仰に成長しょう。神の義と愛が凝縮して現された主イエスの十字架と「贖われた自分」について,洞察を深めてゆくことである。すべての神の恵みとあわれみ,聖霊に関わることは「十字架と自己との関わり」の深みに相応する。マニュアル化されたカウンター的なノウハウに頼る傾向(趣き)が近年多くなっている。目先のことは出来るようになっても,錨のような信仰になって行かないのも事実なのだ。主イエスの十字架に目を留めることは,安全であり,かつ重い鎖のような信仰にへと結びついて行くのである。
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「 趣き(おもむき)」 (4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/4/5 11:50
 † 日本人の趣きと信仰。
   日本人の趣きは,日本人の気質ということに置き換えられるだろう。私達はキリスト信仰を持つ者として日本人気質との戦いの中にあると言っても良い。日本人の気質は優れているけれども,キリスト信仰には,ガードの堅い気質でもある。これが日本宣教の重荷となって現れている。日本人の気質を形成し,その趣きを形造っている大きな要因はやばり日本の古来の宗教である。神道や仏教が日本人の心の古里のように息づいているということである。最近町おこし,村おこしとして盛んになっている祭りはその背後に神社,仏閣がある。祭りは楽しく,おかしく興奮に満ちているが儀式として行われる。言葉による教義じみた説教など無い。しかし,それでこそ「心に古里を形成する」のであり,神社,仏閣へ違和感なく結びついている。神社が在るということで厳かで畏れを抱き,仏閣の多さと物言わぬ偶像に「自分の生のはかなさを見据えられて」それを超えることのできない自分を認めているのである。ここに日本人の慎みという趣きが生まれている。このように,とても宗教的であるけれども日本人の気質は無常観に包まれている。日本人は無宗教と言いながら,しっかりと宗教化されているというのが私の見解である。年齢を経るとともに日本人の内側から信仰にも似た趣きが強くなる,今日の団塊の世代がまさにそうなっている。キリストの福音が彼らの魂に切り込める「術」を磨くときである。

 † キリストの気質と趣き。
  日本人の趣きについては,いろいろの見解がある。ただ,私達日本人クリスチャンには「依って立つ」在るべき姿勢が決まっている。キリストのごとく,使徒のごとく地上のどのような理由にも自らを曲げられない「生き様」で証明される。使徒4・12「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」この肯定的な開放感と未来にわたる希望と明るさである。この重苦しさのない「生き様」がキリストの気質であり,クリスチャンの趣きなのである。この「趣き」こそ,日本人のみならず,世界に通用する救いの喜びと希望である。教会がそこに向かわなければ,教会は重苦しく生気を欠き,窒息状態になる。使徒パウロがピリピの人々に「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」ピリ4・4)と言ったように,教会の生命の現れは,信仰の喜びである。キリストが人間の苦しみと悲しみと悩みのどん底を通られ,死を通され葬られ,そのところから復活され,もたらされた喜び,これにまさる希望の喜びはない。この趣きをおびているのが私達である。私達は「世を友として」信仰の喜びをうばわれてはならない。ヤコブ4・4「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」信仰の喜びが私達の趣きである。だから,この世(日本)を勝ち取ることが出来るのである。
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「 趣き(おもむき)」 (3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/30 8:34
† 平等にして不平等。
 主なる神様は私達に対して「えこひいきをなさらない」(ロマ2・11)これは大きな慰めである,ひるがえってユダヤ人から見れば,自分たちの方が,優れて神に愛されるはずだ,と思うかも知れない。キリストを認めないユダヤ人は「選民意識」の中で,神は自分たちを特別に扱われることを疑わない。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」詩4・3)私達はキリストにあって自分たちのことだと信じており,ユダヤ人達はアブラハムにあって「特別に扱われる民」だと信じているのである。私達はキリストにつながって生命の供給を受けているならば必ず特別に扱われていることを感じる。それは,主の恵みの働きが私達の心の中に「特別感」を与えるからである。そう感じない日々が続いているならば注意しょう,主から遠のいて生きているのである。これが習慣になると「その人の趣き」として現れるようになる。このように神は平等に恵みをお与えになるが,私達が主から遠のけば,恵みによる特別感が無くなる。ここに不平等が生まれてくるのである。

 † 教会の趣き。
 私達の教会には,私達の教会としての趣きがある。今回行われた「中高生春のキャンプ」は,70名近い中高生が山上の旭高原少年自然の家にった。可児福音教会が伝道を始めたときから,中高生伝道が続けられた。30年以上,力を注いで続けられていることが可児福音教会の特質を形作っているのである。この若者達が2世代目としてキャンプに集っている。親たちとしてのクリスチャンは,自分の子供達のために主に献げて霊的に働くことが求められている。今日,働き盛りの壮年が霊的な使命観を持たずに礼拝を繰り返していることが報じられている。これは大きな損失であり,霊的な誤りである。ネヘミヤは神の栄光が軽しめられ,廃墟と化してしまった,エルサレムの城壁の再建に立ち上がった。そのとき中心となるべき壮年に言った「・・・・・大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」ネヘミヤ4・14)現代においても自分の子供のため,教会の必要に答え,犠牲を惜しまないで献げるなら,より強固な家族を築くことになってゆくのである。そして,神の栄光は地域に現れ,全地に及んでゆくのである。中高生に力を注ぐ事は教会一体の事業であることが分かるであろう。献金すること,奉仕をすることは「自分たちの家族のため,代々に続く家」のためにも在ることを心すべきである。
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「 趣き(おもむき)」 (2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/22 14:00
† 孤高のイエス様。
 イエス様はご自分のみもとに弟子達を常におらせられた。ご自身を学ばせるためであった。そうして,ごつごつした荒削りの弟子達をすばらしい人格に変えられた。天から下られるほどに,私達に近づかれたイエス様は,同時に全き孤独の道を歩まれた。それは私達人間がどれほど優れていたとしても,イエス様の孤高の聖さの傘の下には入れないからである。それがイエス様と私達の趣きの違いである。私達はイエス様がいかに聖なるお方であるかを畏れる分だけ潔いと言えるだろう。折しもイースター(復活節)を迎えた。ゲッセマネでの孤独な悶絶の祈り,十字架に立ち向かわれる孤高なイエス様,十字架の上で父なる神に全く見捨てられた者として絶叫されるイエス様,誰がこのような道を歩めるであろうか?・・・・・この孤独にして孤高の従順の故に「神の子としての称号」である死人の中から復活をされたのである。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」ロマ1・4)私達のために,孤高の道を歩んでいただいたイエス様に深く感謝し賛美を献げる。

† 心根の良い人に。
 聖書を学ぶうちにうちにだんだん分かってくることがある。すなわち行き着くところの事である。・・・・・聖書をよく知りたい,深い信仰を持てるように熱心であることに我を忘れているときがある。また,主の救いのすばらしさの故に主への奉仕に励むことは大きな喜びとなり人生の生き甲斐になる。すべてのクリスチャンが神と人に仕える優れた人になるのである。それは,私達の求め,注目する中心が,聖なる神にして,全き人性をまとった完全なイエス様なのだから教会はすばらしさに満ちる。集う人々がこのような恵みによって生き生きしていることは天の賜物というほかない。さて,はじめに戻るが,恵みに生きている私達に聖書は勧める。「また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです」1テモ3・7)ということである。霊的な事柄で何か突出していればそれで言いと言わず「世間で」評判の良い人であること私達に求めて来るのである。教会の中だけでなく未信者の中でもキリストの香りに満ちた心根の良い紳士,淑女となろう。
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「 趣き(おもむき)」 (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/15 13:48
†「 千差万別」
 千差万別,この言葉は人間に当てはまる。今まさに入社試験が行われている。企業側は自分たちの企業色に合った社員を選びたいと思っている。人の中にある趣きを重視ている事は当然である。「趣き」は,その人の気質のようなもの,聖書的に言うならば「その人のもつ霊」という内容にもなる。長年培われて宿る「霊」であり,その人の趣きである。ヨシュアと並ぶカレブについて言われている,民数記14・24「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」ここで「カレブはほかの者と違った心を持っ」と言われている。これが「趣き」である。常々思う事であるが,主なる神様は「一把一絡げ(いっぱひとからげ)」にして私達を扱われない。一人に目を留めて,その趣きを重んじられる。主は,ご自分にふさわしい趣きを持つ者を,この時代のために求めておられる。ここでは神の霊にふさわしい趣きのある人の事になる。

† 我が霊による。
 子供には子供の趣きがある。青年には青年の趣がある。壮年にもしかりである。そういった自然性の趣きは認められるにしても,選ばれ召された私達クリスチャンは共通の趣きを持つ者である。「聖書的である」ということはれっきとした「趣き」である。使徒パウロがテモテを見いだし感動した。優れた信仰の持ち主,自分と同じ霊の「趣き」を持った若者だったからである。今日,自己アピール性が強調されている。要するに自分の特徴を打ち出せ,ということである。特に日本人から見て西欧人の自己アピールの強さには驚くことがある。学歴や,経歴,実績を堂々と披瀝することを当然としている。まさに,そのごとくの人もあれば,そうでない人もあるようである。しかし,世の中に対しては,クリスチャンも自己アピールを堂々とすべきなのである。世の中は技術や実績,学歴がものをいう世界なのだから遠慮することはない。では,神も自己アピールするクリスチャンを高く用いるであろうか?・・・・・テモテは自己アピールしたのであろうか?私は思う,主なる神は,ご自分の霊の宿る者をご存じであり,神が引き寄せ,引き上げられるのではないか,ということである。   
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