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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

信頼し信じる(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/20 10:20
†  車輪は必ず回転する。
 聖書では「後の者が先になり,先の者が後になる」という知られている言葉がある。この世はまさに光の子供達は後塵(コウジン)を踏み,闇の子らが大手を振って歩いている。高貴な精神の持ち主が顧みられず,横柄な大言壮語する者が宮殿の王座に就いているのに似ている。「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ」詩73・13 しかし,常にこのままで留まる事はない。車輪が回転するように「後の者が先になる」神の時が必ずくる。このような摂理は誰も変える事はできない秘密である。詩73篇を続けて読むと,この作者が見るに,うらやむべき絶頂を生きて,思いのままなる生活をしていた者が,一瞬にして滑り落ち,滅びる様を見せられた。この事によって神の摂理が支配している事を悟った。今の時の軽い患難にへこたれてはならない。主を信頼して忍耐する者には,かならず時が回ってくるのである。「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10・36

†  継続し続ける。
 信頼し続ける。この事がいかに試練を生み,問題を抱えるか体験するだろう。私は良く「真実は必ず通ずる」と自分の心に言い聞かせて生きた者である。大きな誤解と不理解は,生き様を通して示して行く事によって結果を生むものである。キリストがあえて弁解をなさらず,使命の道を歩まれた様にである。人はその時々によって口を開き,それに戸を立てる事はできない。私達クリスチャンは状況の中にあっても,状況に生きるだけではない。信仰の目指す「神の義と神の国を第一に求める」一貫性を恒久の知恵としているのである。それを生き様として,答えとするのである。これには4,5年では足らない,10年,20年の変わらざる信仰生活,主を信頼する生活を通して明らかにされるのである。人は様々な経験を積み,多くの失敗,思いの通りにならない経験をする。そして初めて一貫性を持って生きている者を認めるのである。それほどに人間は賢くもなく,自己本位な存在に過ぎない。それだからこそ祈り,聖霊に導かれて生きる事だ。真実な一貫性はそのようにして生まれる。
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信頼し信じる(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/13 10:20
†  立っている所に従う。
 ゴールデンウイークの恵みがいろいろな場所で分かち合われている。金曜の祈祷会でも一人一人が与えられた恵みを証詞しをし,主に栄光を帰した。一人一人は信仰歴も違うし,通ってきた道も違う,同じ信仰なのだけれど「立っているところ」は誰も同じではない。主はそれを喜び,受け入れてくださる。信仰に歩んでいる現実の自分こそ「己」である。 それで「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12と言われている。・・・・・私達は,日進月歩を続けるものである。主の恵みが朝ごとに新たである(詩59・16) 御言葉が開かれて,真理の喜びがつきる事がない。新しい事は真理が開かれて起こってくるのである。真理も理論も同じように行動されて真実となる。私達は具体的な生活をしているものであるから「聖霊は思いの外に現れる事を求めておられる」聖霊に感じて,善を行い,主の慈しみ深さを行動する。受けた恵みに立って動きなさい。聖霊様はそう言うあなたである事を,期待し信頼しておられるのである。

†  奥深い声。
 言葉にならない時に「うめく」・・・・・私達の生活は,多くのうめきに直面する。明るさの中に生きていても「呻き」を逃れて生きるすべはないと思われる。信仰の偉大な使徒であるパウロも「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」ロマ8・22)と言っている。それだからこそ助け主である聖霊様は「・・・・・言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」8・26)祈れないでいる私達の呻きを,さらに深い(霊からの)呻きに変えて,主なる神さまに繋がってくださり結果を出される。悪人は,さらなる悪のために呻いている。しかし私達は真理のために,義のために呻く,一方では悪魔が動き,こちらでは聖霊様が動く,主にあるが故に呻きを多いならば敵に勝つ,しかし呻く事をやめて,安易に生きる賢さを,クリスチャンが選べば聖霊なる助け主は,ほとんど重要な働きを私達を通してはできないのである。主はあなたが義にたち,自分のため,罪と悪の世のために「うめく」事ができる者として,あなたを立てて信頼しておられるのである。
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信頼し信じる(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/5/6 10:10
† 御霊を信頼する。
私達は自意識(魂)を強く理解するものである。今回のセミナーで福野師は的確に「御霊と魂」の領域の違いを教えてくださった。魂とは,知(知性・理性)情(感情・情愛)意(意志・決断)という人間の領域で肉的なもの。御霊(私達の内に内住されている聖霊)は良心として現れ(償う事へと導く),直感力(御言葉を感受する)霊的な交わり(主なる神様と権威的に交わる)・・・・私達は多くの場面で,人間的(魂)の部分で理解し,活動し,霊的であろうとするが,能力や人間的な力に頼っている。このような状況では聖霊様は押しのけられている,ということである。霊的解放は,肉的なものが「静まり」内住の聖霊のうながし(声)に従うことである。私達は「御霊の声か魂の声か」聞き分けられない立場にある。確実に聖霊に導かれる方法はへりくだって,謙虚にしていることである。自分を大きくしていると自分の肉の声を聴いて聖霊の声だと思って大きな誤りをしてしまう。しかし自分の尊大さをうち捨てて,鉄くずのようにへりくだれば,聖霊に引き寄せられ,確かな導きを受けることが出来るのである。

† 真理を信じる。
御言葉の解きあかしを聞きながら,真理が開けてゆく快感を誰もが感じたのではないかと思う。特に「異言の真理」について大きな確信を与えられたのではないだろうか? 私達があまり重要視していない真理が,とてつもない信仰の奥義への扉を開くことは当然あり得ることである。最も難しい課題「霊性を高める」ことについて,「異言はその人の得を高める。」となるように,実践して体得するものである。自分の気分や見解という魂の声を無視して,御言葉をそのまま信じる事である。これが中々難しい,ばかばかしいことと思えることを主はあえて求められのは,御霊が私達の知性や想いを超えさせるためである。異言は確かに,それが何なのという感がある。しかし聖書は「異言は神に語るもの」ものとして,大きな意義と価値を与えていることに注目して,語り続けるべきものである。真理の認識を得てそのまま信じよう。
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信頼し信じる(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/29 18:10
†  自分をいかに信じるか。
 スポーツの世界では自分との勝負ということになる。「勝つと思うな思えば負けよ」という,ひばりさんの歌があったが「柔」の世界ではそれが勝つための無の境地なのだろう。剣豪宮本武蔵も「無心」という,自分に影響されない境地で戦うことを目指したようである。自分を信じる事はたやすいことではない。いかに実績があろうとも,それが物を言う訳ではない。それが精神である人間の世界である。物質化され,機能化されている世界では確かに実績を問われ品性や人格を問われない。そこでは,それで通用するかもしれない。しかし,人間として,また聖書的霊性の尺度からは通用しない。この精神性の問題は,人それぞれが自分と対話し,問わなければならないのである。無の境地に通じる私達の奥義は「十字架」である。パウロの生きた秘訣を現代の私達も必要とする。「我,生きるに非ず,キリスト我が内にありて生きるなり」ガラ2・20)パウロは最大の成果をみて,神の恵みによると言うが,それを生み出すところに「キリストに死んでいる自分」を見ているのである。このように「無に勝る死」によって,自分を信じることが出来る。誠に高度な秘訣である。若いときからこの秘訣を用いて「自分を信じ信頼せよ」キリストに通じ,パウロに通ずるDNAを自分のものとせよ。なぜならば,そうでなければ「自分を信じれず」「勝つ」事も出来ないからである。

† 躓きの向こうにある現実。
 イエス様はあなたを試される。あなたの理想を逆なでするようなことを,あえてあなたに求められる。そしてそれに耐えることが出来れば大きな答え(祝福)をそこにおいておられる。ヨハネ9章の,生まれつき盲目の人に対するイエス様のなさり方で明らかである。この物語の鍵の言葉は「神の栄光が現れるためです」と言われている。さて,全能の神の御子が,生まれつき全盲で不自由きわまりないこの方に,何をされたか?・・・・つばきで泥をつくり目に塗られた。この奇怪な行為で目が開くと,本人も弟子達もと期待した。しかし、そうではなかった。イエス様は続いて,唖然とすることを言われた「シロアムの池で洗いなさい」と,全盲の人にとっては非常な危険を伴う急勾配の坂を下らなければならない。しかし,あえてイエス様は,躓きとなるような要求をされたのである。なぜならば信頼すること,信じることは,躓きを乗り越えてあるものである。問題がある事,問題のある人,リスク(冒険・危険)を伴う内容を乗り越えて行くことが,信じること,信頼することである。そこに結果がある。神の栄光はそのようにして生まれつきの全盲の人を,完全に癒し,見えるようにしたのである。
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信頼し信じる(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/4/22 10:10
† 5年や10年先を見る。
 4月2日,15歳の私は何もわからない世界に裸一つで飛び込んでいった。これを藪入りと呼んでいた。昭和30年(1955年)のことである,戦争を南洋で体験してきた職人もおられれば,この会社で見事に一端の腕を持ち切り回している人もいた。いろいろな技能を持った集団の中で,最も小さな者として全てに仕える事から始まった。同僚という者がいないので,全てが先輩であり,兄弟子であり,親方だった。朝は会社の玄関掃除から始まり,仕事の終わりは,仕事場の掃除とすべての機械の油ふきをする事。夜は外出する事は禁止という,いわば人間としてではなく修行する者(小僧)として扱われる事を受け入れなければならなかったのである。こういう出発をして行くと一年や2年で何かをものにしたということはできない。あえて仕事は教えてもらえず,人の言いなりに動き,働く事を求められる。一切の自分のやりたい事が拒否される世界なのである。少なくとも5年で何とか,10年で一人前という計算である。それを信じて,つらい日々を耐えなければならないのである。今に思えば,そこを通れた事は希少な体験として,また非常に人格的,霊的な訓練となった。例えばヨセフのように目の前に起こっている事が絶望的でも,5年先を,10年先を見る事が出来る。神の真実を信頼できるのである。

† 今を無駄にしない。
 将来に向かって子供は勉強し,若者は社会に適応する技能を習得する。これは世の習わしである。しかし,義務化されているところでは出来ても,自分の自由の中で出来るかと問われると現状に甘んじ,あえて趣味以外は手をつけないのではないか? 今を有益にして無駄にしないことは充実した生活を約束する。私達クリスチャンは聖書から常に啓蒙的な励ましを受けている。それは短い人生を無駄にしないで感謝に満ちた喜びを生み出すためである。神の豊かなご計画に沿って努力すれば,甲斐のある成熟した結果を持つ事が出来るからである。私達は神の世界にいるのである,目を開いて神に興味と関心を持とう。驚きを与えられた事に留まって真理の意味をつかめ,それが自分自身の本物となる。借り物の真理で満足してはならない。自分のものでないものは自分で噛みしめて消化し自分のものとする作業をすることである。この作業は決して無駄になる事はなく,そこにある宝石を自分のものにする事である。この事を信じ信頼して,試して欲しいものである。
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