トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

真理には私が問題です(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/18 9:10
† 父の心子知らず。
聖書を読めば読むほど,見えてくることは「父と子の関係」である。旧約聖書は「我と汝」という緊張感が私には感じられる。しかし,私達のため御子イエスが一粒の麦となり十字架にお掛りになり,父なる神様は大きな痛みを通られた。新約聖書では,この愛の痛みを通して父なる神は私達に接してくださる。何よりも父なる神は御子イエスとのたぐいまれなる親密な愛の関係を明らかにされ,御子イエス様も父なる神様のお心の内を生き通されたのであった。聖霊の主なる目的は私達が,御子イエス様をとおして,父なる神様と親密な父と子の関係に生きることである。父なる神様の最大の回復は「私達との愛の回復」である。宣教はいかに緊急を要するものとはいえ,父なる神と私達の愛の回復に先んじることはない。礼拝の重要性はそのためにある。・・・・父の心に生きることが,キリストに繋がり,聖霊の宣教の働きに繋がる。しかし,その順序が教会生活の中で定まらない。いったい,私達は父の心を知らないでも信仰を知っている者になるのだろうか?

†  信仰は自動更新されません。
私達の信仰生活は際限なく成長するものである。しかし信仰を停止して動くことをしない人がいると,みるみるその人は後退してしまう。いや,そうではなく成長する人に距離を引き離されてしまうのである。想像して頂きたい,神の聖さに私達はどれほどの距離をおかれているであろう? 近づけといわれ,近づくものが,その無限の距離を縮めているである。愛においても,義においても,信仰においても聖くなろうとしなければ停滞したままである。「・・・聖霊による、新生と更新との洗いをもって」テトス3:5) とあるように,救いは一回的な神の更新によって恵みとして与えられた。しかし,それ以後の自分の信仰には,自ら更新をして行く必要がある。無意識に自動更新される事はない。信仰を前進させる,成長させるのは自らの選択と決断(歩みだし)である。自分へのメッセージにたいして考えず,選択せずに過ごせば,なんら更新されることのないまま旧態依然の状態を維持するのである。人々の成長に関わりたいと願うならば,自らの信仰の成長のため手動で信仰の更新に取り組むことだ。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4118)

真理には私が問題です(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/11 9:10
† 神と私の相克。
相克[conflict]の意味は,対立するものが互いに争うこと,である。真剣に神に対して生きようとすれば,当然そこに,自分という人間の側面が大きく現れてくる。信仰を与えられた人間が,神との相克で苦闘するのは当然であるが,今日クリスチャンは,真剣になることを避けて通っているのではないか?と心配する。安易な信仰理解,理論上で説得できる信仰で事済んでいるのではないか?と心配する。・・・・軽やかで明るいことはとてもすばらしい。教会成長の原因の一つに「笑いのあること」が上げられている。私達のワーシップにも「笑いが絶えず・・・・」と歌われていることは,すばらしい。それは聖書の言う「信仰の結果である魂の救いを得ているからです」1ペテ1:9)となるからである。私はそれを疑わない。しかし,信仰の深みとは神と私の相克の結果として与えられ,揺るぎない者に変えられるのである。・・・・ヤコブが御使いと格闘し(創世32:24-28)その時ヤコブはこう言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」そして,新しいイスラエルという名を,上から(神から)もらったのである。ここに如実に相克(格闘として)の意味が現れている。これを迂回して行こうとする私が居るならば,未来に大きな不安を抱える事になるのである。

† 私にある世界。
 世界という言葉(概念)が,私の中で面白くなってきた。物理的な広大な宇宙も,営々と人間が築いてきた世界も,いずれも次のことが真実である。私が存在しなくてもあるものである。同時に,私が「存在するので世界がある。」要するに神が造られた世界の中で,神の偉大さと驚くべき恵みを感じるのである。たとえば,マコ8:36「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」今頂いている救われている命は,全世界に勝る価値を証明している。ここから見えることは私がキリストにある限り「世界に優る存在」として見られていると言うことである。私がなくても世界がある,と言う見方ではなく,現実的に私がある故に世界がある。世界に支配されている私のようだが,実は私の中に世界がある。・・・・私が存在しなければ実際に世界は関係ない。私が永遠不変の生命の持ち主であり,その中で世界は移り変わり消滅するものなのである。・・・・そんな風に考えたことはなかったが,思い(考え)の次元が変わってきたことが面白い。真理が開かれて行くには,既成の概念の集積である私がネックになる。奇想天外な聖霊の導きに期待する。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3957)

真理には私が問題です(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/11/4 9:10
† 気分的な私。
 人は,何かを求めているのだが,その中に「気分を変えてもらいたい」という事がある。毎日の生活は単調で,平坦な歩みである。プロ野球選手のように,しのぎを削る競走をしているわけではない。しかし,そういったプロの戦士達も,気分を切り替えることの出来る人でないと,長丁場を闘って行くことは出来ないそうである。前向きに生きるために健全なフィーリング(気分)を保つことは重要なのである。クリスチャンには,まず御言葉が備えられ,主に祈ることをとおして整えられることが備えられている。感謝と賛美を献げるならば,新たな気分を頂くことを経験している。・・・・・にも,かかわらず私達は心の不活性に不足を感じているのである。このような事柄を見つめ続けて,主に問い続けていると,大きな秘訣を悟るようになる。人間の罪にある本質というものを見させられ,そのことを通して信仰の偉大性を教えられるからである。私達はクリスチャンであるのに,心の不活性な気分の下に置かれる事が多いであろう。しかし,たといそうであっても,そういう私が問題ではないのだ。言葉を逆さにすれば,そういう問題の私が,十字架の驚くべき真理の中で問題にされていないのである。ここに現されてくる恵みの気分が,クリスチャンの表面に現れれば信仰の完成度は高いといえる。

†  私はプログラム?
 コンピューターは人間の知性に近づくことを求めて開発されている。何よりも処理能力ではコンピューターの方が断然優れている。しかし,人間が考えるようには思考することはできないのだ。人間は神に造られ,超越した頭脳を持っている。そして人生の大半を費やして学び,プログラム(能力)を持つようになる。社会はあらゆる人間の能力(プログラム)が働いて成り立っているのである。・・・・・私は神に仕える自分を省みる時に,畏れおののきを感じる。今日まで生きてきた全てが,福音のためのプログラムではないか?  なぜなら,私の通ってきたあらゆるものを通してでなければ,私は私の福音を命あるものに脚色できないからである。・・・・・もし,私に悔い改めがなされておらず,聖さにおいて不十分であるならば,私というプログラムは,欠陥があり,良い結果(答え)を産出することは出来ないのである。・・・・・そういう観点から聖書を読んでみると,安易なプログラムでは至高のキリストの身体を築けないことが分かる。・・・・・神は霊であり聖なる方であるのて,私がプログラムとして第一に聖であることを求められるのである。神の下僕はこの事を正面から捕らえなければ,大いなる問題となる。また,主にある者は,神の用いたいプログラムなのである。御言葉という材料(データー)を,あなたという生きたプログラムで,神の恵みに変えて現すのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3769)

真理には私が問題です(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/28 9:10
† わけありの作品。
 よくメールの中に「わけあり新製品特価のご案内」というものが送られてくる。色んな商品があって品物には異常はないが「わけあり」なのである。確かに「買い」であるが,ある人は疑う人もいるらしい。保証もしっかりついているので問題はないと思うが,「わけあり」にこだわればやはり買はなくなる。さて,私達のイエス様は,そういった,わけありの品物を買われると思う。なぜならば,わけありの人間を愛して受け入れてくださるからである。イエス様にとっては全てが,不良品か,わけあり品でしかないからである。人間は優れた完成品を造り出して大いに世界を豊かにするが,人間としては「わけあり」ナノだ。私は小学5年頃に,自分が,わけありの欠陥だと気付きだした。ある人には,なんでもないことがどうして自分には不安なのか? また,とても良いことだと分かっているのに,出来ない自分に失望してしまった。 「少年よ大志を抱け」という言葉に,大志を抱けない自分を知って失望した。それで自分は「わけあり」だと気付いた。19才担って,イエス様に出会うまで,わけありの自分に悩み,苦悶した。真理にかけ離れた私でしかなかったが,イエス様は道となってくださり,生命となってくださって真理の中に入れられた。そして今でも,自分が「わけありの人間」であることを,片時も忘れることはない。「今あるは,ただ主の恵みあるのみ」だからである。

†  主客のはき違え。
 主客の混同。とはよく言われた言葉であるが,一般的ではないようである。しかし,霊的には非常に重要である。私達は「主」と呼ぶが,言うまでもなく「私のご主人様」と同じ事なのである。私が助けを必要とする,自分の足らなさを意識するような時は,盛んに「主よ,主よ」と呼ぶのではないだろうか? 「主よ」と呼ばない時,無意識に生活している時,私は下僕の姿をしているだろうか? 私達は,生き生きとした本当の自分が,何処においてそうなるのかよく分からないままで生きているようである。なぜならば主イエス様を「我が主我が神」として迎え入れていない状況が余りにも多いからである。 たとえば,トマスが,復活の主イエスとの会合に居らず,他の弟子達の復活論議に,ますます懐疑の念を深くした時,復活の主はトマスに現れて,ご自身の身体に触れよと言われた。その時トマスは「我が主我が神」と初めて全面降伏をした。明確な全面降伏が私達クリスチャンに必要である。そこに初めて主に仕える喜びが生まれる。この降伏は献身ではない,クリスチャンのとるべき必然性である。私達の不徹底性が結局,主客の混同を平気で行ってしまうのである。日本の社会における霊的問題は教会の外にあるのではなく,クリスチャンの私達の中にこそあると,見なければならないであろう。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3890)

真理には私が問題です(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/10/21 9:10
† 信じられない私。
 「信じていました!」と言ったのは,昨年「信じられない!」と言った,プロ野球日本ハムのヒルマン監督である。昨年に続いてリーグ優勝,そして日本一を競う戦いへの出場権をも勝ち抜いた。専門諸氏によると,このチームは特別な選手が居るというわけではないが,チームが心を一つにして闘う志気のあることが,強さに現れている,のだそうだ。監督は昨年,チーム力を信じられなかったのだろう,しかし今年は信じておられたのである。さて,私達も教会生活を通して,信じられない自分が,信じられる自分に変えられて行く課程に置かれている。信仰とは教条的に信じるのではない。自分という生身の人間である私が,御言葉の真理に吸収されて信じられるである。大事なのは,私に真理を引き寄せるのではなく,神が真理に私を引き寄せ,同化されることをキリスト信仰というのである。今あなたに信じられないことがあることは正常である。それは聖霊様の働きががあなたに向かうことである。非常に大事なことは信じられない自分を真摯に受け止めることだ「主よ。私にはとても信じられません。しかし主よ,あなたが信じられるようにしてくださることを心から感謝いたします。」と,正直に自分を現すものが,神の信仰に成長するのである。

†  外れない態度。
 宝くじには縁がない者ではあるが,買う気にもならない。その心は「外れ」ばかりが当たるからだ。外れが当たることを繰り返していると,期待が遠のくのは仕方のないことである。この作用は,その人の理性的な一部として定着してくる。私が宝くじに関心がないのは私の理性的な作用が働いているからである。このようにして人生で体験する事柄が,私を形作るのである。これが,その人のパラダイム(世界観)となる。日本人の世界観は大方は消極的,否定的であると見られている。これは歴史的,地理的,思想的な背景によってDNA化(潜在化)されているからだ。まず,私達の出発はそういう自身を認める所にある。そういう自身を知らないと,肯定的な理想を描いても,常に「外れる」ことを体験してしまう。キリストが「私は道であり,真理であり,生命である」ヨハネ14:6)と言われ,信じるクリスチャンを鋤き変える(私をひっくり返してキリストの内容にされる)のだが,私の世界観(理性的な視野)が,旧態依然として居座って居ると,神の意図が反映されないのである。・・・・・これからは「どうして,このような私が在るのか?」と主に問うべきである。聖霊はあなたを「神に造られた者」である健全な原始の人間に造り変えることがおできになるからである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4045)
牧師の想いカレンダー
« « 2018 7月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 1 2 3 4
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top