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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「 趣き(おもむき)」 (3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/30 8:34
† 平等にして不平等。
 主なる神様は私達に対して「えこひいきをなさらない」(ロマ2・11)これは大きな慰めである,ひるがえってユダヤ人から見れば,自分たちの方が,優れて神に愛されるはずだ,と思うかも知れない。キリストを認めないユダヤ人は「選民意識」の中で,神は自分たちを特別に扱われることを疑わない。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」詩4・3)私達はキリストにあって自分たちのことだと信じており,ユダヤ人達はアブラハムにあって「特別に扱われる民」だと信じているのである。私達はキリストにつながって生命の供給を受けているならば必ず特別に扱われていることを感じる。それは,主の恵みの働きが私達の心の中に「特別感」を与えるからである。そう感じない日々が続いているならば注意しょう,主から遠のいて生きているのである。これが習慣になると「その人の趣き」として現れるようになる。このように神は平等に恵みをお与えになるが,私達が主から遠のけば,恵みによる特別感が無くなる。ここに不平等が生まれてくるのである。

 † 教会の趣き。
 私達の教会には,私達の教会としての趣きがある。今回行われた「中高生春のキャンプ」は,70名近い中高生が山上の旭高原少年自然の家にった。可児福音教会が伝道を始めたときから,中高生伝道が続けられた。30年以上,力を注いで続けられていることが可児福音教会の特質を形作っているのである。この若者達が2世代目としてキャンプに集っている。親たちとしてのクリスチャンは,自分の子供達のために主に献げて霊的に働くことが求められている。今日,働き盛りの壮年が霊的な使命観を持たずに礼拝を繰り返していることが報じられている。これは大きな損失であり,霊的な誤りである。ネヘミヤは神の栄光が軽しめられ,廃墟と化してしまった,エルサレムの城壁の再建に立ち上がった。そのとき中心となるべき壮年に言った「・・・・・大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」ネヘミヤ4・14)現代においても自分の子供のため,教会の必要に答え,犠牲を惜しまないで献げるなら,より強固な家族を築くことになってゆくのである。そして,神の栄光は地域に現れ,全地に及んでゆくのである。中高生に力を注ぐ事は教会一体の事業であることが分かるであろう。献金すること,奉仕をすることは「自分たちの家族のため,代々に続く家」のためにも在ることを心すべきである。
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「 趣き(おもむき)」 (2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/22 14:00
† 孤高のイエス様。
 イエス様はご自分のみもとに弟子達を常におらせられた。ご自身を学ばせるためであった。そうして,ごつごつした荒削りの弟子達をすばらしい人格に変えられた。天から下られるほどに,私達に近づかれたイエス様は,同時に全き孤独の道を歩まれた。それは私達人間がどれほど優れていたとしても,イエス様の孤高の聖さの傘の下には入れないからである。それがイエス様と私達の趣きの違いである。私達はイエス様がいかに聖なるお方であるかを畏れる分だけ潔いと言えるだろう。折しもイースター(復活節)を迎えた。ゲッセマネでの孤独な悶絶の祈り,十字架に立ち向かわれる孤高なイエス様,十字架の上で父なる神に全く見捨てられた者として絶叫されるイエス様,誰がこのような道を歩めるであろうか?・・・・・この孤独にして孤高の従順の故に「神の子としての称号」である死人の中から復活をされたのである。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」ロマ1・4)私達のために,孤高の道を歩んでいただいたイエス様に深く感謝し賛美を献げる。

† 心根の良い人に。
 聖書を学ぶうちにうちにだんだん分かってくることがある。すなわち行き着くところの事である。・・・・・聖書をよく知りたい,深い信仰を持てるように熱心であることに我を忘れているときがある。また,主の救いのすばらしさの故に主への奉仕に励むことは大きな喜びとなり人生の生き甲斐になる。すべてのクリスチャンが神と人に仕える優れた人になるのである。それは,私達の求め,注目する中心が,聖なる神にして,全き人性をまとった完全なイエス様なのだから教会はすばらしさに満ちる。集う人々がこのような恵みによって生き生きしていることは天の賜物というほかない。さて,はじめに戻るが,恵みに生きている私達に聖書は勧める。「また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです」1テモ3・7)ということである。霊的な事柄で何か突出していればそれで言いと言わず「世間で」評判の良い人であること私達に求めて来るのである。教会の中だけでなく未信者の中でもキリストの香りに満ちた心根の良い紳士,淑女となろう。
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「 趣き(おもむき)」 (1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/15 13:48
†「 千差万別」
 千差万別,この言葉は人間に当てはまる。今まさに入社試験が行われている。企業側は自分たちの企業色に合った社員を選びたいと思っている。人の中にある趣きを重視ている事は当然である。「趣き」は,その人の気質のようなもの,聖書的に言うならば「その人のもつ霊」という内容にもなる。長年培われて宿る「霊」であり,その人の趣きである。ヨシュアと並ぶカレブについて言われている,民数記14・24「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」ここで「カレブはほかの者と違った心を持っ」と言われている。これが「趣き」である。常々思う事であるが,主なる神様は「一把一絡げ(いっぱひとからげ)」にして私達を扱われない。一人に目を留めて,その趣きを重んじられる。主は,ご自分にふさわしい趣きを持つ者を,この時代のために求めておられる。ここでは神の霊にふさわしい趣きのある人の事になる。

† 我が霊による。
 子供には子供の趣きがある。青年には青年の趣がある。壮年にもしかりである。そういった自然性の趣きは認められるにしても,選ばれ召された私達クリスチャンは共通の趣きを持つ者である。「聖書的である」ということはれっきとした「趣き」である。使徒パウロがテモテを見いだし感動した。優れた信仰の持ち主,自分と同じ霊の「趣き」を持った若者だったからである。今日,自己アピール性が強調されている。要するに自分の特徴を打ち出せ,ということである。特に日本人から見て西欧人の自己アピールの強さには驚くことがある。学歴や,経歴,実績を堂々と披瀝することを当然としている。まさに,そのごとくの人もあれば,そうでない人もあるようである。しかし,世の中に対しては,クリスチャンも自己アピールを堂々とすべきなのである。世の中は技術や実績,学歴がものをいう世界なのだから遠慮することはない。では,神も自己アピールするクリスチャンを高く用いるであろうか?・・・・・テモテは自己アピールしたのであろうか?私は思う,主なる神は,ご自分の霊の宿る者をご存じであり,神が引き寄せ,引き上げられるのではないか,ということである。   
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「静まって」 (7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/8 14:19
†  人間の苦手とするもの。
 先日も牧師の集まりの中で「静まる」事に話が及んだ。というのも,最近中部地方では霊的な大きなイベントがなく,講師としてアーノット先生の名前が出た時である。アーノット先生は「慌ただしいセミナー」ではなく,一週間から10日ばかり全く静まって,牧師達が真のミニストリーが出来るように指導したい,という旨の要望が出ているのだそうだ。世界各地でこのような「深い静まり」の中で回復した牧師達が,驚くような働きに転じているという。日本人はとにかくばたばた忙しく動き回っているのだが,牧師達も同じく長い時間を,なにもしないことに,献げる勇気を持っていない。アーノット先生は,そこに日本が抱える教会のデメリットの一端を見ておられるのであろう。私もかって何をするのでもなく,主と一夜を過ごす徹夜を試みた。目的は「主と共にいる」ために,主がともにおられるがごとく振る舞い,心の会話をした。結果は?それで著しいしるしが見えたわけではないが,主が慕わしくなり,それが私の雰囲気になった。静まるとは,何もしないで主と一緒にいること,主の関心に私が心を向けることである。
 
† 行き届くために。
 静まることについては,14回目めのこの項目で終わる。さて,いろいろな会合に出たり,人と出合ったりするときに感じることがある。同じ人でも,事前に心の準備をされ,集まる一人一人を祝福して会合に臨まれているな,と感じる時がある。そうでないときは目があっても,私がそこにいないかのような,その人の心の雰囲気が漂う。もちろん一目(いちもく)置かれる存在ではないので当然なのだが,私もそうなのだと自重する。朝に祈りの時を持つことの重要さは,一人一人に祝福を送り,誓願を執り成すことによって,受け入れと愛が備えられる。その対象となる人に出合ったとき,瞬時に親しみと関心を寄せられる状況になる。静まる事は,人に対して行き届く秘訣だと思う。もちろん,静まって神と交わるならば,ゆとりのある心の落ち着きを持っているので,何事にも思慮深い行為が生まれることは請け合いである。静まる事は,行き届くための大切な要素であり,慈しみと愛を創造する。深く主と静まる人は,人への愛を保ち,怒りや不平に支配されることから解放されてゆくのである。
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「静まって」 (6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/3/2 8:30
† 静まって持つ者になる。
 イエス様は全て持つ事なき生涯を通されたが,同時に全てをお持ちであった。生まれるときは宿屋にも泊まれない洞穴の馬小屋を産所とされ,最後の晩餐は他人の家であった。エルサレム入場の時には他人の者である子ロバに乗られた。十字架にかけられ死なれた時にも自分の墓はなくアリマタヤのヨセフの墓に葬られた。しかしながら主イエス様はすべての人を潤し,およそ必要とするもの全てを人々に与えられた。借り物の生活をしながら全てをお持ちになったのが主なるキリストである。静まるときに見えてくるものが多い,私達は自らに多くを持って何事かが出来ると考え,自分の能力や何事かに成功の根拠を置こうとしてしまう。しかし主イエスはそうではない,人としての自らの中に根拠を持たず「我が霊による」と言われる,神の霊(聖霊)により頼まれたのである。人を身近に引き寄せる聖い高潔な品性,聖霊に燃えている生命,神の義(正しさ)による慈しみの愛,いかなる人をも片寄り見ることのない親しみ。このような神からのものによって,多くの人々を協力者にし,必要の全てを与えられたのである。静まるとは人間の業を「やめよ」という意味である。主イエスは,人(あなた)にも教会にも模範である。
 
† 主の弟子であるために。
 教会に人々が多くなる事は,日本において何よりも望ましいことである。しかし,往々にして起こることは,大きな教会になって本当に立派なクリスチャンが少なくなってしまう傾向である。それは流れに流されてゆく木の葉のように,なされるままに教会生活を送ると言うことだ。何を重要とすべきなのか,私達の教会においては「一人の救いである」そのためにば何でもする。さらに,イエス様が言われた「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」マタイ28・19)とあるように「弟子とする」クリスチャンはキリストの弟子として生きることを第一とするのである。このことがおろそかにされルならば,たちまち教会は形骸化し信仰は宗教化して躍動を失い安穏(あんのん)とした状態になってしまうのである。ただ,人間の肉性は安穏を求め,古い革袋に落ち着きやすい。しかし,それではキリストの弟子とはなれないのだ。新しい革袋として,はち切れるように膨張する新しい葡萄酒(神の生命)を宿すにふさわしくなければならない。私達は絶えず静まって,このことのために立ち返り自らを新たにしてゆくべきなのである。
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