トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

† いつもある言葉。
   「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ロマ12・2)どの時代にあっても,私達は『心の一新」を必要としている。これは,きのうの自分に捕らわれないためである。昨日と言う時には過ぎ去ったという「古さ」が伴う。産業経済の畑で5年も10年も前の方法を今の現実問題に適用しょうとすれば合わないことも多くある。私達クリスチャンの信仰においても同じように,古いものを取り出してくるのではなく,新しいものを取り出せるように準備していなければならない。「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです」マタイ12・35)良い人は,日々心が一新されている人である。その人はよい物を取り出せる。倉からとは言うまでもなく,心「魂」からである。「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9・23)ここに,日々に刷新されてゆく原理が語られている。
  
 † どこに向かうか? 
  一日の始まりに,あなたはどこに向かうか?言うまでもなく心の向きを尋ねている。クリスチャンは主の御顔を拝するために向かうべきではないか?・・・・・それはあたらしい自分,刷新される自分のためではないか? 思うに今日のクリスチャンの信仰は,この初めにあるべきことが曖昧である。否,出来ていないのではないか? 魂の中身は,思う事と考えることである。生活上の,仕事上の,人間関係上の,私に関する全てのことが,思いや考えとして入り込んでくるのである。だからこそ初めに「神のことば」に向い,自分を刷新されて,神の思いと御心(考え)を魂(心)として出発する。この地道な繰り返しが習慣となり「良い人」と「良い倉」を形成するのである。簡単な実験を試みたら良い,一日の始まりに,神の御顔を拝するためにひざまずいた一週間と,そうでない一週間を。・・・・・あなたが神の子であるならば,その違いの大きさ,祝福のあるや,無しやで知ることが出来るであろう。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3755)

「伸張する魂」 (7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/6/13 13:56
† 再び魂とは何か?
   「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」エレミヤ17・9)陰険と訳されている箇所は「欺瞞に満ち」ている,という意味である。こういう心(魂)と自分とは関係ない,自分は例外だと思っている。・・・・・陰険な魂を自己自身と見ない私が現実に存在するのである。魂の伸張において中核を成す「信じて行動する」ためには多くの理由を持っている。その多くの理由の一つが聖書(御言葉)にすぎず,多くは今日まで育ってきた状況(家族,教育,教師,望み,目標,失望,悲しい出来事,心の傷など)によって大きく影響を受けているのである。要するに「信じて行動する」のは,多くが経験により決定されている事実である。私達クリスチャンは,そのことに気づかずにいる,大幅にこの現実を認めないと,魂は聖書的に伸張(成長)して行くことは困難を極める。始めに戻るが,自分の心が欺瞞に満ちたものであることを認めることである。次にへりくだり聖書を自分で読んで真理に驚く事だ。次に理解した事を信じること。そこに真の信仰がある。行動の理由が客観的な聖書の教えとして行われるならば,魂の伸張は間違いなく実を結んで行くのである。
   
 † 魂の荒廃を救え。
   礼拝でも宣べられているが,高度に文明化した社会においては,非人間化が極度に進むのである。先週,凶悪な殺傷事件が起こり7人が命を断たれた。若い世代に広がる非人間化への波は一種の社会現象となっている。そこに現れているフレーズは,親,教育,成績,学校,勝ち組と負け組,差別,社会が悪い,みんな死ね,などが聞こえている。それ以外にも多くあるが,傷を負い,大きな劣等感に陥り,ついには自分で自分を傷つけ自虐的(じぎゃくてき)になり,歯止めのきかない憎しみと怒りは悪魔の好ましい惨状へと導かれた。この世は人間を,誇りの中に,豊かさの中に,生き甲斐の中に,誰かのために,理想の中に,仕事の中に留めて生かそうとする。確かにそれらと切り離されて人間は存在しないが,弱い者や貧しい者は取り残される事を当然のように認める。毎年3万人が自死している事を見ても,枠にはまらない痛み苦しむ幾百万の人々がいるのである。この世に「真の人間の生」を与える所は教会であり,生まれつきの生に死んでキリストに生かされている人が「・・・・・罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」ヤコブ5・20)私達こそ人々の魂の伸張に真の寄与をするのである。




  
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4142)

「伸張する魂」 (6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/6/5 16:00
†  挫折感から。
   アンテオケ宣教会の機関誌に30名の宣教師の報告が載せられている。A師の記事が心に迫った。「過去のあのとき心の中に熱く燃えた思いと受け取った御言葉は,自分の思い込みであったのかも知れない・・・・・?」「この地は本当に主が開かれ導かれた御心の地なのか・・・・・?」実際の宣教活動を初め,根を下ろして活動して体験する,宣教地に対する大きなギャップだと言われる。・・・・・「それは幾つかの逆風の洗礼を受ける時に味わう。」と書かれてある。こういう時,クリスチャンである私達は,意気阻喪(いきそそう)し,魂を萎えさせて硬くなってしまうのである。しかしながら,この時こそ飛躍の時となるのである。思いもよらぬ出来事に足下をすくわれる思いをすることは,クリスチャンのみならず誰にもやってくる試練である。魂の伸張はこの事態にいかに望むかに掛かってくる。A師は,こういう時に神学校で教えられた「勝利の方程式」を思い起こすという。それは「座る」「立つ」「歩む」というプロセスに留まること。最初の座すが肝心である。「決して焦らず。まず最初は主の前に座して安息を受けること。」・・・・・神の平安が魂に訪れるまで座して祈れ。ということであるそうすれば,立つことが出来,歩むことが出来るようになるのである。
   
 † 小事に忠なる事。
  霊的事業という言葉を使うとすれば,大事よりも小事を大切にすることが事業の肝要(かんよう)といえるだろう。リバイバルということが,大きい出来事のように思われやすいが,リバイバルを来たらせるものは小事に忠実な働き無くしては起こりえない。一人の人を大切に出来ない教会は,多くの人を任せられる教会ではない。これは我らの主が言われる「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」ルカ16・10)と言うことである。魂(魂の伸張)とは,この言葉に言い得ている。特定の人(利害のある)に丁寧なのに,そうでない人には態度が変わるとするならば,主の聖霊の態度が弱く,肉の態度が強い人であって,魂の貧しい人である。私達の出来る行為には限界があるだろう。然し,あらゆる場面で「私にあるものを上げよう」と言って,主の御名によって祝福を祈ることは,中学生クリスチャンでも出来るのである。もし,そういったことさえ思いにも浮かばないとするならば,魂は眠りこけて無能になっているのである。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」1コリ16・13




  
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4002)

「伸張する魂」 (5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/31 12:04
† 共通するもの。
  バッハやベートーベンを聴きながら思う事がある。幾世代を超えて最上位の賞賛を譲ることがない事だ。初めて聞く者にも,これから生まれてくる者にも同じなのだろう。一方,私達にとどいた福音はあらゆる時代を経て変わりない祝福を与えている。ここに何かしら共通するものを感じる。然し,私達は静まって日本に訪れている季節を考えなければならない。100年に及ぶ福音宣教の現状は1パーセントのハードルを越えることがない。然し,迫害もなく,全く自由そのものに生活が保障されている。今,日本人は世界から見聞きしている天地異変に対しても危機感に乏しく世俗の喧噪から目をそらして神を求める様子もない。然し,どのような時代状況であろうと福音宣教に成功する共通の方法がある。閉塞した時代に,いつも神はリバイバルの器を起こされた。神のみに望みを置き,真の幸福はキリストの救いであると,全き信仰を持った魂である。そのような一人の魂が教会に起こされると,聖霊の火が燃え上がる。そのような魂が真の言葉(メッセージ)を持つのである。あなたがそのために召されたのではないだろうか?
   
 † 魂の献身。 
   聖書では,魂は心とも訳され「内なる人の世俗的な行動に制限されている」ものを指している。「霊」は人と神とを結合させるものである。さて,魂は私の「世俗的な行動」に影響(制限)されていることを,逆手にとって影響されない立場を取ればいいことになる。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ロマ12・1)神に捧げる人生は,献身の生き方である。これこそ魂の成長に必須なのである。全人格的な献身がされていないためにクリスチャンの成長は阻まれているばかりか,混乱の集積回路の様になっている。世俗の仕事の中で,人間関係の中で,多くの不変の原則を学ぶ事によって魂の成長(伸張)は生まれる事は事実である。然し,それだけではクリスチャンには不十分であることを理解されると思う。礼拝を守るということは,主なる神に対する必須の姿勢である。礼拝における教会へのメッセージは,信徒レベルのセルで分かち合われ,一人一人の実際に適用されて成長につながるのである。




  
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4342)

「伸張する魂」 (4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/5/24 11:01
† 祝福される者。  
私達が生き続けたいと無意識に今生きているように,私達は祝福される事を第一に願って無意識の内に生活している。彼造物である人間が神の祝福を求める事は埋め込まれている本能なのである。祝福されるためには,それを埋め込んだ創造主の不変の法則が掲示されている。豊かになったものは貧しい者を支えよ。ということである。自由資本主義や競争原理主義に在る経済機構の中では,持たない者から,貧しい者から富を積み重ねる事を当然としている。然し,このような機構の行き過ぎと横柄な国家や企業にたいして神の怒りが下る時がくるのである。また,もう一つの重要な法則は,貧しい者にも出来る祝福の道である。祝福されたい者は什一を神に帰すことである。生ける神は祝福を求める人間の真の姿を見ておられる。キリストはレプタ2枚を献げたやもめに驚嘆された。200円程の献金だったが彼女の全財産だったことを見抜かれ感動されたのだ。マルコ12・43)生ける神は祝福すべき者を探しておられるのである。あなたの魂は祝福を求め,経済や人生に祝福をもとめている。それならば生ける神の御前に,この二つの法則を無視してはならない。
  
 † 世を凌駕(りょうが)せよ。
  クリスチャンは「世をしのげ」(世に勝れ)という意味である。この世に生きるという時には「この世」が大事であって,そこに「生きている」という私が第ニのように受け止められる。クリスチャンの中でも第一に「この世」そして信仰が続くと受け止められていないか?。この図式は自然に(肉として)産まれた人間は誰でも構造的に位置づけられている感覚と知るべきで,この場合「私があって信仰がある」という順番になる。しかしキリストを信じる者はパラダイム(世界観)が逆転したのである。この世ではなく「創造者なる神」が第一であり,次にあなたが第ニである,そしてこの世はあなたの後に続くものである。私達に与えられている信仰,すなわちキリストにある者は,世を凌駕した者,雄々しい魂の勝利者なのである。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」マタイ10・28)信仰とは魂の伸張として現れるものである。主イエスは「・・・・・勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16・33)とあなたの勝利を支えられる救い主なのだ。
 




  
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (4247)
牧師の想いカレンダー
« « 2018 12月 » »
25 26 27 28 29 30 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 1 2 3 4 5
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top