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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

成熟は相関にある(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2008/1/6 9:10
† 口も手も出さない。
 昨年,中日ドラゴンズを日本一に導いた落合博満監督は,「オレ流」という言葉を造った人である。我が儘を通すという,オレ流ではなく理にかなったオレ流なのである。落合さんは社会人野球から26歳でプロ選手になった。金田正一監督と打撃の王様と呼ばれた山内一弘コーチがいた。落合さんが打撃練習をしているゲージの後から,二人の話し声が聞こえてきた「山さん,この打ち方じゃープロで通用せんぞ」コーチも「そうだね」と言った。そういう中でもコーチは,真剣に教えてくれたそうである。・・・・・ある時落合さんは山内コーチに「俺のことはほっといてください。それで駄目ならクビで結構ですから」と独学でバッティングを身につける道に歩むことになる。山内コーチはそれ以後口も手も出さず見守られた。しかし,結果的に,一人で悩み抜いたことで,バッティングの奥深さを学び,自分のスタイルを身につけることが出来たのである。落合さんが三冠王を手にするまでになったとき。必ずと言っていいほどルーキー時代の山内さんから受けた指導が身になっている事を思わされた。この二人に共通することは内角球の強い球を巧く打つ事であった。「教えられ指導される」ことと別に「独学実習すること」この相関を生涯の努力とするところに落合さんの「オレ流」が生まれたのである。

† 画像は虚にあらず。
 最近の高画質テレビには驚かされる。まるで写真をみるような鮮明な画像である。昨年は天安門や万里の長城をこの目で見たが,改めて世界の遺産と言われる造形物や大自然をハイビジョンなどでみると,それで十分だと思うほど堪能する。人間が赴ける場所は限られている。しかし画像によれば鳥瞰的に全体を見渡せるなど,圧倒的である。例えそこに行かなくても,どの様な角度からも幾らでも見ることが出来るのがうれしい。「百聞は一見にしかず」と言われたが,テレビ時代となり大画像の繊細な画質によって,このことわざの多くが塗り替えられているのではないかと思うのである。名所,古跡を幾らか尋ねたならば,あとはその感触のイマジネーションを生かして,世界の遺跡を画像で尋ねることで相当堪能することが出来ると思う。画像がリアリティを持つのは,私達の感性の成熟度によって違うが,現風景を眺める事も,その鮮明な画像を眺めることも,脳味噌をたくましくすれば,人生の豊かさにおいてそれほどの相関はないと思うのである。
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成熟は相関にある(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/30 9:10
† 強い光に濃い影。
 科学的合理的な真理が,霊的にも適用されていることがある。光と陰の関係もそうであるように「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ロマ5:20)と言う関係が聖書で述べられている。多くの罪を赦された者が,より主を愛した。(ルカ7:47)という,イエスの言葉も記されている。全く違和感なく受け入れられている相関のコントラストである。さて,私達はよい人間であろうと振る舞う者である。クリスチャンとして多くの目を意識したり,あるいは特定の人の目を気にする場合には反応的になってしまう。そこに生まれるものは,抑圧された精神性の不自然である。人間は自分にプレッシャーとなる者に偏(かたよ)る。悲しいことに、その人に気に入れられることに集中する。それによって仕事が出来るかもしれない。しかし,そういう育てられ方をした人は,人にも同じ事を求めてしまうのである。しかも,特定の人以外には霊的な品位のある尊敬も払えず,そういう言動を平気でするようになってしまうのである。教会は何よりも神を畏れるように訓練,教育される場所である。それによって自分の罪深さに敬虔になり,より神を愛するためである。人を恐れる影は「恵みの影」とはならないのである。

† 2007年の終わり。
 昭和が終わって20年を経た。先週の金曜日は25名の祈り手がそれぞれ1年間の恵みの証詞をしてくれた。限られた幾つかを語ることしかできなかったに違いない。何にもまして一人一人の恵みとなったものは「自ら気づいたこと」である。自主性とか成長は,本人の気づきに基づく,多くを勉強しても,礼拝を守っても,気づかされ驚くのでなければ真理がものになならない。私達の教会のように信徒を、神の国の影響力を持つリーダーに育てようとしている場合,気をつけなければならないことは「出来る様になる」事である。知識的なこと,技術的なことは,学んだり,真似たりすればいい。そこにだけに赴いてしまうことが問題である。聖書の学びも,礼拝することも情報収集に偏っては悲しい。しかし,「出来るものになる」こと事態は称賛に値することは言うまでもない。ただ,そこにだけに自分を置いては成長はない,霊的な成長は,さらなる真理に「気づかされ」新鮮な驚きを与えられる事である。それがない人は成長が止まったままである。2008年は「出来る者になる」事と「真理に気づく者になる」この相関に生きる事だ。
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成熟は相関にある(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/23 9:10
† 主は卑賤の下に生まれる。
 卑賤(ヒセン)とは,地位や身分が低く、いやしいことの意。クリスマスは神の御子が「卑しくお生まれになった」日である。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました」ガラ4:4) 神とは御威光そのものであられるが,女から生まれるとは,全く神が卑下された事なのである。律法の下に置かれることも,神としてはあり得ない事である。あり得ないことがクリスマスである。処女マリヤから生まれたという超自然性が聖さを物語るのが普通だが,神の聖さは「卑賤となられた」事にある。聖書を知り尽くすユダヤ人が「卑賤をまとわれるメシヤ」を読み取ることが出来ない。イザヤ53章のメシヤをイエス様とすることが出来ない。それほどに神様の聖さは計り知れないと言うことである。私達は何となく知っているクリスマスではなく,聖書を考える,神を考える,罪の恐ろしさを考える,クリスマスを迎えるべきである。神のご威光と神の卑賤という驚くべき神の相関を,自分の信仰にあわせなければならない。

† 緋の罪が雪の様に白く。
 雪の白さを誰もが想像することが出来る。詩51:7「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」とある。罪をのぞくと言うことは外科手術のように切り取られる,と言うことではない。もし,そうならば人間は罪が無くなり,神を必要としなくなる。私達は,このことを深く考え,知っていこう。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」詩103:12とあるように,遠く離されても罪はある,と言うことがわかる。かくも,遠くへ罪を退けているものが「キリストの血潮である」すなわち神様の憐れみなのである。雪は一面を純白にする,しかし下には汚い地面があるのだ。このように,キリストの血潮が,神に反逆する汚辱の罪を,雪のように純白に変えているのである。しかし,クリスチャンは,すぐに十字架の血潮から離れ,元の汚さを現してくる。罪の汚さと,潔め(雪の白さ)の相関は,キリストの血潮に支配されている。イエスの血潮の潔さと力を求めない信仰や教会の姿勢は,サタンの思うままになるのである。
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成熟は相関にある(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/16 9:10
† 生は死によって。
「生と死」これほど相反する言葉はないけれども,人間には最も密接な相関関係にある。人間は生だけでは成熟しないと言ったらどうだろう。ある人は敬遠するか,あり得ないというだろう。しかし,聖書を識る人間には,ごく当然で深く心しなければならない真理なのである。私は本日,友人牧師の葬儀に出て,故人を忍ぶ言葉を依頼された。そこで遺族や参列者に故人に成り代わって申し上げた言葉がある。「私は皆様よりも早く天国に来ました。それは家族,と親族と一人一人の皆様の天国の場所を用意するためです。主イエス・キリストを信じ,永遠の生命の確信を持って勝利者となって天国に来てください。私は信仰を持って勝利者として天国にいます。」伝道者としての彼の叫びを代弁したつもりである。友人である彼は今,真実の生の中にいるのであり,私達は仮りの生命の中にいるのである。死者こそ本物の中におり,生者は偽物(変幻するもの)の中にいる。聖霊の助けにより,十字架の奥義が働き,さらに生と死の淵源を私達に悟らせるであろう。

† 悲しみの家に真実がある。
 「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」ヤコブ4:9)聖書は,一見矛盾に思える。生きる私達が最も退けたい有り様を「求めよ」と言うからである。伝道7:4「賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」というように,悲しみに属する事柄と,楽しみに属する事柄の相関にある真理に私達は深い認識へと導かれる。私達の愚かさは「本当にそうだ」と,生きていないことである。世に足を染めて歩む私達は,楽しみに属することしか考えていない。・・・・・著明な牧師が,話してくださったことを思い出す。神様の祝福が多い教会であることから,多くの者が証しする。恵まれました。こんないいことが起こりました。祈りが聞かれ感謝です。と,喜びに関することが多い。しかし,先生はそういう人々には「そう」と言って深く関わることはしない。と言われ,かえって深刻に罪を示された者や,悲しみを与えられた者,苦しみを持つ者に「主が豊かにお導きですよ。」と生き生きと関わる,と言われた。成熟という事柄は,闇の中に光が輝くように,人間の好ましく求める所には生まれない。私達は自分の生と人生を,聖書の教えに焦点を合わせ,賢く揺るぎない者になってゆきたいものである。
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成熟は相関にある(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2007/12/9 9:10
† 常に二つのもの。
 相関とは「二つ以上の事物の、一方が変われば他方もそれに連れて変わるとか、あるものの影響を受けてかかわり合っているとかいうように、互いに関係を持つこと。また、そういう関係。」とある。物事が一面的でないように,「一にして関係している二がある」と言ったら,どうだろう。霊的成熟をしてゆく喜びには常に重要な2つの事柄が伴う,与えられる神の恵みと,それに感謝しあふれて与える恵み,が伴って「本当の恵み」になる。赦された者が,自ら赦しを与えて「本当の赦しの祝福」に預かる。ここで見られるように,完成(成熟)のためには相関関係が見られるのである。・・・・・私達は神の栄光を現すプログラム(人格)として,イエス様にふさわしければ,イエス様の香りのする行いが栄光として現れる。ここですぐに気がつくことは,同じ救われた者同士でも,イエス様にふさわしくあろうとしなければ,その人格からは,良い香りを嗅ぐことは難しいのである。主なる神は与え主として,揺るぎないお方であり,私達は救いを与えられているが,主により頼まなければ,揺らぎ倒れる者である。このように,霊的成熟は人格的相関関係に置かれている事を,まず始めに覚えよう。

† 樹は根を張っている。
 当たり前のことだが,樹は地上に見栄えの良い形をして威風堂々としている。地上という言葉は「現れている」という事を現すし,根とは,見えない,隠れていることを表す言葉である。私達はクリスチャンとして聖書の教えを,声たからかに告白する。「私は生まれ変わった。私は完全に変えられたのだ。新しく造られた者である。一切のふるい過去は消え去った。」まさに教理的に正しいのである。ここには「一度救われるならば,永遠に救われる」という,すばらしいキリストの勝利と私達の完成が込められているわけである。このような宣言はキリスト教会の「樹」に当たるものだ。では「根」は宣言されたとおり,洗い清められたか。・・・・・私達が気がつくように,現実的には「根」には,依然として古き人が息づいており,営々と横たわっている。・・・・・表面の現れでは完全な救いが実現しているが,隠れたる根(内なる人)はふるい罪の性質(習慣)として,一介的な宣言で死んではいないことがわかる。現実的な成熟には,この相関(関係)にあるものを,私達が明るみに引き出して,主の御手による取り扱いを受けなければならないであろう。
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