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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「努力のしがい」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/9 1:00
† 生きる力。
  わたしの身体のことを考えても不思議になる。わたしの意識とは関係なく、体内では60兆個の細胞によって活動が行われている。彼らは不眠不休の努力をしているのではないだろうか?わたしは眠りを必要とするが、なぜ人間(哺乳類)は眠りを必要とするか科学的な解明はまだないそうである。たぶん、脳に休息が必要なのではないか?という答である。私達は努力に疲れる。努力の要求には嫌気がさす。人間は「のべつ幕無し」(幕の下りない芝居)の努力には耐えられないのではないか?発明王エジソンは、万を超す失敗にもめげないで、努力した。と聞くが、万人に共通する事例とはならない。努力に挫けやすい私を励ますには役に立つ。さて、努力を継続するためには息抜きも必要なのである。自分の仕事から離れて完全休暇を取ることは欧米では当たり前になっている。2ヶ月以上も職場を離れても、必ずポストに戻れるようになっている。キリスト教的背景のある国々では、人間の休暇を重要視する。新しいエネルギーを回復し、さらに努力するためだ。

† 兄弟愛に愛を。
「 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」Ⅱペテロ1・7)家族の中の兄弟とは、どんなものか?二十代の頃、仕事上で知った家族の兄弟愛だが、1960年代は多くの人が家を建てた。その一家には4人の兄弟がいて、その家族では兄弟が協力し合って、次々と4人とも住居を建設された。この方々の家を建てた会社の中でも、この一家の兄弟愛は語り継がれることになった。一般的な世の中では「兄弟は他人の始まり」 という。親子の縁は切れないが、兄弟は利害関係や結婚などによって、互いの情愛も薄れて他人のようになる、というわけである。聖書の兄弟愛とは、キリストの血による血縁関係である。互いに信仰があり、その理解があっての兄弟姉妹なのである。神を畏れる者同士が兄弟であり、神の愛が主導している兄弟の仲となる。神に造られた人間が、兄弟愛に結ばれるので平和が生まれる。それに、なお愛を加えよと、これが最終の勧めである。損得無き神の愛を持って愛せる者になるべきなのだ。「・・・・あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」 Ⅱペテロ1・8)
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「努力のしがい」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/2 1:00
† 万事を益とされる目的。
  私達は結局全てについて、努力なしでは生きられないのではないかと思う。ご高齢者の病室を訪れてわかるのは、介護の方によって食事を摂るのだが、口を開ける事もご本人においては、努力を要することなのだ。また、身を任せきることも、精神的に努力なしには出来なかったことである。長い人生を、あらゆる努力を求められて人間は生きている。では、最終的には何に集約されるのか、と言う事である。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」イザヤ61・10)このような御言葉が明らかに示すのは「主イエスの花嫁として、主イエスを喜ぶ」事だと思う。喜びが尽きない愛こそ、わたしの今と、終りの時にも伴う唯一のものである。そのために、全てをゆだね、努力をする。クリスチャンの人生は、キリストの恵みにより、万事を益とされるが、その究極の目的は、信仰により「主を喜び、楽しむ」ことに尽きるのである。そのゆえに、前向きな努力が生まれるのである。

† 忍耐には敬虔を。
  敬虔とは「信心深さ」のことでもある。敬虔なクリスチャンと言われることは、最高の称号を与えられた人々と同じである。「敬虔」が強調されることは、とても重要である。
真心から神を畏れる(神への畏敬がある)ことは、聖書が、キリストが、最も求めていることである。これには理由がある。人間は、神への畏敬を必然(所与)として持っていたが、悪魔の介入によって、人間は自ら、神のようになれると錯覚し、悪の思想を流し込まれてしまった。現在の人間は全て、恐らく、神のみを畏れる霊と精神を持ち合わせてはいない。主を信じた人に求められているのは、敬虔である。主なる神のみを畏れることである。信仰とは、神の賜物で、神を畏れに導き、神を信頼させるのである。信仰があると思うクリスチャンは、神を真心から崇め、神を畏れる「徳」を増し加えられることを祈り求めることである。敬虔なき信仰は、重みのない自らの内容を露呈してしまう事になる。
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「努力のしがい」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/26 1:00
† 健康は積み重ね。
  友人の近況報告の中に、すごいなと思わされた事が書いてあった。彼は大の野球好き人間で、岐阜県還暦野球古希部の美濃加茂市で監督をしている。彼も驚いたのは「他のチームに90歳で投手をやる怪物がいる」との事。正直すごいと思う。走ったり、歩いたりする運動には高齢者も多いと思う。野球では、走る、投げる、撃つ、捕る、という瞬時に判断する要素が要求される。それらを満たしておられることに感動する。多分、友人のように元旦からキャッチボールをして野球を楽しみ、一年間を野球三昧に過ごしておられる方だと思う。しかし、その努力の積み重ねで、健康である事は喜ばしい限りである。退職後を、健康に過ごすために、継続して出来るスポーツを始めたりする事は、後の健康を刈り取る事に繋がるだろう。肉体の健康と霊的健康は同じで、基礎練習を怠らないことと、向上を目指して学び、実践することだ。モーセは120歳でも「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」申命記4・7)積み重ねられた努力は、実として現れる。

† 忍耐という努力。
  神の与えた信仰は、人間の中に在って成熟して行くもので、信仰には勇気や力強さが要るのである。すると、信仰の力強さに加えられる知識をとおして確固たる人生の基盤となってくることは幸いである。主イエスは聖霊の助けを与えて私達に自制力を伴わせ、忍耐力を与えられる。人間の生活には忍耐を必然的に求められるように、信仰を伴って生きる私達には、キリストの持たれた忍耐がキリスト者の徳性として現される。また、私達の忍耐の根源は、主なる神が私達に最善を与えられたので、今後においても忍耐強く主なる神の真実を信頼して待ち望めるのである。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1・4)わたしの真実とは試される事によって、なお忍耐し信頼する所に現れ、その忍耐力は完全な者への道である。  
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「努力のしがい」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/19 1:20
† 知識には自制を。
  「知識には自制を」2ペテ1・6)信仰には徳を、徳には知識をと、私達の信仰内容は充足してくる。知識を増し加えて信仰は論理的、知性的な内容を伴うようになる。この知識に「自制を」伴わせることが今回求められてくる。自制(セルフコントロール)とは、自分自身を制御するの意味。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」1コリ9・25)私達クリスチャンは、人々がやらない自己鍛錬をしている。スポーツ選手が暴飲暴食を自制するように、決まった時間を必ず競技に見合ったトレーニングをするように、クリスチャンも神の国の証人として自制する。祈り、学び、礼拝して自分の弱さに負けない自制力を身につける。何よりも世の光りでありたいという証人の思いがなければ自らトレーニング(自制)する能力は生まれないであろう。果たして、キリストの証人として生きる気概はあるか?

† 真理を知識とする。
   聖書とは真理の言葉である。「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。・・・・』」 ヨハ18・37-38)私達クリスチャンとは主イエスが約束されたように「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32)真理を知る。即ち、真理は聖霊により知性(知識)となるのである。・・・・残念なのは、多くの人々において、真理が心で止まってしまい、知力にまで到達していない事である。この世の事では知識(知力)を用いて力強く生きているのと同じく、真理は力強い知識なのだ。神の真実(真理)が、心で止まっている限り、神の栄光は光りを放つことは難しい。しかし、私達は宣言する。「聖書の真理は聖霊による私達の知識である」
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「努力のしがい」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/12 1:00
† 徳には知識を。
   「信仰には徳を」2ペテ1・5)信仰には徳を行うことを一番目の努力として記している。このわけは、行いが伴わない信仰は、内容がないものになり、その人は救いを失う可能性が大であるからである。信仰に徳を行うことで「神をよりよく知り」神の生命に、その人が生かされるからである。さて第二の努力は「徳には知識を」と記される。ある父親が息子に次のように、この5節を教えた「信仰には、ダビデの美徳を、あるいは勇気を加えて下さい。また、ダビデの勇気にソロモン知識を加えて下さい」と、徳と知識の繋がりが具体的でわかりやすい。徳に増し加えられる二番目の「知識」は、特に精神的な真実の知識のことである。これは神の言葉を真摯に学び、その得られた知識が、神聖な指針に従う重要性を強調するのである。使徒ペテロは信仰に七つの徳性を増し加えているが、これは私達にとって苦痛ではない。「力の限りを尽くして」(口語訳)キリストの身丈にまで達する「努力」(新改訳)の継続なのである。

† 反対側の道。
   聖書には、いかにも心を刺される出来事が書かれている。良きサマリヤ人の記事(ルカ10章)は、その一つである。隣人とは誰か?の、質問に答えて言われたイエス様の話である。一人の旅人が強盗に襲われ身ぐるみ奪われ、半殺しにされ路上に倒れていた。ここからが問題である。この旅人に三人が遭遇した、先の二人は身分の高い人だったが、関わりを避けて反対側を通り過ぎていった。あとの一人はサマリヤ人で、この半殺しにされた旅人に「近寄って」必要な全てを与えた。さて、ここでの「努力」は、まず「彼を見てかわいそうに思い」 から始まる。しかし、先の二人も、大変だ、かわいそうだ、と思ったに違いないが、次の瞬間、自分の払うべき負担が頭をよぎると「関わりをやめ,努力」を放棄したのである。一方、サマリヤ人は「努力゠力の限りを尽くす」ことをしたので「真の隣人」となった。現代の私達は、よほど自分に厳しくしないと「見て、見ぬふりをする」人間に成り下がる。その習慣が、努力すべきを避け、自分の賢さを自負するようになるのである。
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