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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「生命の流れる道」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/9/10 1:00
 † 私が道となる。
   忠実なクリスチャンが心から願って祈る言葉がある「我を通り良き管と成したまえ」聖歌の中にも歌われている。言うまでも無く、生命の流れる管(道)に成りたいという信仰である。しかし、今時は祈りの中で用いられる祈りの言葉ではないのではないか?この危惧が間違っていれば幸いである。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」ヨハネ14・6)と明確に語られた。主イエスは私達と同じ肉体を持たれながら、天と繋がっている道(管)と言われたのだが、私達クリスチャンは世の人々に対して、私は天に繋がれた者(道)と認識したり、告白しているのだろうか?聖霊による福音理解を通して告白できることではないのか?神に生かされている信仰があるならば、私は天に繋がれた管(道)でもある。高慢になる事を求めているのではない。神の御業を心から崇める中で、私達に与えられた偉大な身分に驚くからである。それは同時に主によって大胆な信仰告白への道に導かれるのである。

 †  道を示すために。
   生命の道を示すために教会がある。教会堂は地上の箱物にすぎないが、その地域の生命のシンポルとして十字架を掲げる。宣教こそが霊的な生命の道である。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」2テモ4・2)教会の礼拝がまことの礼拝ならば、礼拝の生命は福音宣教へと赴き実を結ぶはずである。日本の宣教が進まないのは、全て礼拝に問題があるからではない。福音に生きる勇気が足りないのだと思う。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」 2テモ1・7)私達は聖霊の圧倒的な力の注ぎを求め「奮い立つ」必要がある。私達一人一人が聖霊の「力と愛と慎み」を流して行くためである。神の僕である私達が、同じ思い、同じ祈りで一つになれば、聖霊が四方がら吹いてくる。私達の立つ場所はゆれ動くのである。今の時が(良くても悪くても)関係なく、神には現実だけがあるのである。主なる神の生命が流れるために、福音宣教の霊の火に燃やされよう。
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「生命の流れる道」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/9/3 1:00
 † 生命は道を作る。
   水を流すと自然に流れやすい低い所を水は流れる。水が道を作ると言う訳だ。これは世界的な規模においても見られることである。アフリカに福音宣教がもたらされた当時、西欧の宣教師達は、言葉中心の説教に重きを置く知的なキリスト教であり、教会の成長を期待しない静的な自己の教派観念に捕らわれていた。しかし、アフリカの人達の生活には聖書は現実そのもので、キリストの悪霊追放や病の癒やしは、そのまま受け入れられるものであった。しかし、教会では悪霊については語られず、癒やしは薬を飲み病院に行く事であった。キリスト教は西欧から入ってきて、キリスト教文化も西欧的と思われていたが、そうではなかった。やがて植民地化が終わり、宣教師達が引き上げると、全く新しいアフリカの文化に馴染んだ、キリスト教がその国に土着したのであった。聖霊の力強い働きと現実的でわかりやすい、親しみやすい話し言葉を通しての霊的な活動によって、アフリカ各地に広がり続けたのである。生命とは神ご自身であるし、それは聖霊の今日的現れである。その生命は低い場所を求めて流れようとする。高度な学問や知的なことばの説教で足れりとするならば、もしかすると生命の流れを邪魔する高嶺かも知れない。

 †  神に追いやる道。
   私達の幸せは多くの友に囲まれ、何不自由のない暮らしがあるからである。しかし、突然大嵐が私の人生に襲いかかり沈没寸前の傾いた船のようになると、たちまち人の助けがおよばない切迫した困難に追いやられる。こうなって私達人間は初めて、神に追いやられるのである。神に行く道しかないからである。苦難が私達の不幸ではないと聖書は言う。とてつもない試練が最悪だと聖書は言わない。神に依り頼む幸いな道があなたに作られるからである。教会の認める、主なる神の幸いは目で見える地上的な平安や豊かさではない。まことに自分の貧しさを知る事は幸いである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5・3) 恐らく地上で満ち足りている人では、貧しい心を理解できず、天の御国を生きる事が出来ないかもしれないのだ。天に心が開かれた人の特長に、様々な出来事、不条理な世界に置かれ、遂に神のもとに追いやられて目から鱗が落とされ、主なる神の創造世界を見、主イエスの偉大な御業に引き入れられ、神の安息に入り、まことの憩いを体験する。霊の目が開かれれば、心は天に開かれる。今のままでも低くなり謙れば主イエスは目の鱗を取り除いて下さる。  
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「生命の流れる道」(2)

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執筆 : 
細江 和弥 2017/8/27 1:00
 † 流れは上から下に。
  「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである」詩133・1-3) 主なる神の祝福は大祭司の聖別の時に注がれる油のように、胸につけられた12部族を聖別した。今日的に言うならば、一致した信仰のクリスチャンの交わりに、主なる神は恒久的な祝福を天から惜しみなく流される。と言うことだろう。私達は何かと個人的な祝福を求めている。競争社会では個人主義が生まれる。しかし、教会はキリストを頭としているので、クリスチャンは礼拝を中心に「和合して」(一つになって)共に住む事が神の祝福を引きよせるのである。一人でもアウトサイダーのような態度が交わりに見られれば、祝福の流れは屈折し留められてしまう。一つになる交わりとは、一人一人が認め合い、受け入れ合う事である。このような条件を満たしている教会には「シオンの山々におりるヘルモンの露」のように、とこしえの生命の祝福が流れ下ってくる事を心に留めて信仰生活を励もう。

 † 主イエスと仲良しになる。   
  仲良しの最たるものは、恋人同士ではあるまいか? 生涯を伝道者として死の一ヶ月前まで福音をべ伝えていた滝元明先生は,主イエスは私の恋人と呼んでおられた。恋人の崇高さに恥じることのないように生きる事が、どんなに潔い生き方であるかは知る人ぞ知るである。そんな生き方をした事の無い人は気の毒としか言い様がない。なぜならば信仰とは主イエスとの親密な交わりであり、恋愛関係と言って良い。眉をしかめる人には「雅歌」の神聖な解釈による読み方をお勧めしたい。仲良しというのは、どこにも見られる一般的な関係だが、せめて主イエス様とは「仲良しです」と言える程度の交わりの関係を求めたいからだ。その重要性は、主イエスにふさわしい私であるならば、そこには生命の繋がりがある。主イエスを親しむ仲には強い結びつきもある。要するに仲良しにも、大きな幅がある。主イエスと切り離されたら死を意味する仲(恋人)ならば、完全に主イエスが私の生命なのである。信仰の実感は「神の言葉を信じる」という事と、親密な交わりによる生き生きとした感覚的な愛である。魂の純化によって主イエスを恋人と呼べる境地に至ろう。
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「生命の流れる道」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/8/20 1:00
 † この谷には水が溢れる。
   「彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』Ⅱ列王3・16-17) エリシャはこの預言を「これは主の目には小さなことだ」と締めくくっている。私達の現代の教会において、最重要なことは「神の生命」が流れていることである。ある意味で、生命の継承は、信仰が次世代へ繋げられていると言う形で見られる事でもある。富士山の裾野のように福音が行き届くようなイメージである。そのためには、生命が流されている必要がある。・・・・生命はどのように流れてくるのか? このことがわかっていないと生命の水は枯渇してしまう。リーダーに任せれば良いとか、なる様になるとか言う問題ではない。なぜならばリーダーにこそ、生命の水が流れ込んでいなければならないからだ。答えは、主なる神の望まれる「溝を掘る」事にある。乾いた谷(私達)が、生命の聖霊を求めて祈り続けると「溝が掘られる」使徒を初めとする120人は「屋上の間」で聖霊を待ち望む祈りで「溝を掘り」続け、聖霊降臨を招き入れたのである。使徒1・13)このような労苦をしない人に何かを任せられるか?

 † 「風も見ず、大雨も見ない」
   主なる神のなさることは、常識や人間が見て知ってきたことを凌駕する。と、言うことをエリシャは預言した。しかもその通りであった。私が学習している「プロテスタント思想文化史」556頁)A.E.マクグラス著において見させられるものは、プロテスタントは時代の事件や変化に教会は戦いを挑まれ、迎合主義神学を生んだり、人文主義の影響を受けつつも、聖書の本質を見いだし守ろうとしてきたことである。また、この世の文化に関わることを止めた聖書根本主義も生まれ、今日も一派を成している。しかし1500年から2000年の500年間で、プロテスタントで最も顕著な新しい教派は世界にまたがる聖霊派である。この群れはすでに五億人を超えた最大の新しい教派と見なされている。聖霊の生命は、伝統によらず、教会組織や神学によらない。即ち、風にも、大雨にもよらない「生命の水の流れ」 なのである。結論的には次のようになる。自分が見て、知っている成すべき多くの事を行い、教え導く労苦をしているのだが、それが聖霊の生命の流れとはならない。と言うこと、生命の水は、そのために特別に「掘られた溝」に、主なる神が流し溢れさせるものである。と言う事である。
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「神の思い通りに」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/8/13 1:00
 † 神は現実である。
   私達ビンヤード教会は、どのように前進してゆくのか? それは福音を福音とすると言うことである。どこの教会も同じことであると思う。要するに教会によって福音の現実が異なることなのだ。私達ビンヤードは、生ける神(父なる神)と親密であることを知っている。教えているのではなく、知っている、体験しているので現実となる。同じように福音は神の力であるが、教えているのではなく、見せている事によって現実である。神の現実は「しるしと不思議の伝道」という聖霊の働きによる現れによって現実である。使徒パウロの「・・・・私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」1コリ2・4)と同じである。これが過去の歴史ではなく、現代の福音なのである。ここから離れればビンヤード教会の意味を失うだろう。神の現実とは「御霊と御力の現れ」なのである。これからのキリスト教界は、神が、ご自身の現実を世界に躍進されていることに、心を向け、聖霊のお働きを求める事が肝心である。

 † 主イエスの祈りに感謝。
   「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」ロマ8・34)私の最大の感謝は、主イエスの貫かれた信仰である。主イエスの信仰は、この今の時も末端に位置する私達を執り成して祈られる。また、主イエスの信仰が私達の義であり、保証である。「即ち、神の義はイエス・キリストの信仰によりて、信じる者のうちに、また[信じる]全ての者の上に[顕されたり]そは少しも差別あらざればなり」ロマ3・22[原文] 信仰とは「イエス・キリスト」を信じる。と言うより「主イエスキリストの信仰の内容」を信じることなのである。私が潔い道を求められるのは「キリストの潔さを信じるからである」私が悪霊に勝る信仰を持てるのは「キリストの力が悪魔を打ち負かした」事を信じるからである。私の品性は、主イエスの品性を信じるので、主なる神の支配下に守られるのである。これらのこととは一部に過ぎないが、主イエスの私に対する、執り成しの祈りの中に必ず置かれていることなのである。これからはどうであれ、終局的には「キリストの執り成し」の故に、全てが守られたのだと知らされることだろう。ハレルヤ!    
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