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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「成長する人の痛み」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/12 1:00
 † 引き受けるか拒絶するか。
   人生を二分する事柄として、このどちら側をも私達は選ぶ事が出来る。今日では「否応なしに」強制されて生きる事を拒める時代である。しかしながら電通(広告代理店)に入社した大卒の女性が、過酷な残業を強いられ自死に追いやられた。希望を抱いて入った会社が理不尽を当然として押しつけた過度な勤務だった。会社の体質の中で拒絶する術と力を奪われてしまったのだろう。職務とか責任の名の下に自己の自由を見失ってしまうのである。過度な負担を負わせ死に至らせることは日本の法律に違反している。しかし社会というものは利益が中心で人間がその次になっている。人間が中心であるには、人間を保証する法律を知っていなければならない。また、自分の限界を超える過度な要求に対しては「否」と言える勇気(痛み)を必要とする。能なしと言われるかも知れないが、自己は自己自身を守るべきなのである。人々や会社が苦情を言い批難する「痛み」を引き受けるなら、自身の破滅から守られるのである。人間として、わきまえの中心は「神にある私の認識」だ。神が支えられる中で私が生きている。神のために引き受け、また神のために拒絶できるのである。

 †  二つの評価がある。
   よく言われることだが「幸せ」と言うものは、幸せになろうとしてあるのではなく、一生懸命生きて、そこにある結果が幸せなのだ。ということ、そこに顕されるのだ。裕福か貧しいかの問題ではなく、幸せは「心の満足と喜び」なのである。極貧も極貧のゴミ山に住むパラグアイの方々の生活を知らされた。そこで生まれ、そこで育つ子供達が一人の音楽教師によって、ゴミ山から見つかった、ドラム缶や一斗缶で造られたチェロやバイオリンで音楽を奏でる授業を受ける。見事なクラッシック音楽を奏でるほどに成長する。やがて、ゴミ山の奇跡として、この子供達が知られ、見事な演奏に世界のメディヤが紹介するようになった。彼らは大きな関心を集め大きな評価を受けた。しかし、住むところはゴミ山の町である。何よりも神への信仰が彼らの内にはある事に関心を持った。この地域に未曾有の大洪水が押し寄せ、ゴミ山も彼らの家も洪水に浸かってしまった。しかし、この人々は前に向かって希望を捨てる事はしない。この事にこそ大きな評価があると思う。
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「成長する人の痛み」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/5 1:00
 † 挫折のまことの意味。
   宣伝販売員(デパートなどで実演販売する人)の実力に驚いた。商品はフライパンや包丁など、商品は限りないが一日に10万円を売り上げるという。人にもよるが、年収一千万円以上の人もいるという。そういった人を育て束ねる会社があるのだが、その社長の言った言葉に驚いた。販売人を募集するのだが「挫折」を味わった人を求めるという。なぜならばと言う理由は言われなかったが、皆様にはその理由がわかるだろうか? 聖書には深い挫折を味わった者を、主なる神はご自分のしもべとされている。新訳聖書では筆頭に使徒ペテロをあげることができる。次に、使徒パウロだ。旧約聖書ではモーセも挫折の淵に落ちた人である。ヤコブにしてもそうである。その子ヨセフはエジプトでパロに次ぐ大臣になったが、兄弟に奴隷に売られる挫折の中を長く生きての結果である。挫折という痛みを真摯に受け止められた人は幸いである。なぜならば神の思いのままなる手の中で自暴自棄にならなかった事で、主なる神の御業にふさわしい者と認められるからである。誠実に生きて不遇や挫折を味わうなら「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた」詩40・1)と、なる様に心掛けることである。

 †  痛まない薬。
   肉体的な激しい痛みを緩和するのにモルヒネ(ケシを原料とする、アヘンから抽出される強力な鎮痛剤)を用いる。重篤な痛みのある方々に、痛みのない日常を過ごすことができるようにする。私達は健常者を任じて生きていると思うが、クリスチャンとしては痛むべき所で痛みを感じないような者に変質しているのではないかと思う。自己催眠ではなく自己麻酔をかけて「心の痛み」を感じないようにできるのである。主イエスだったら立ち止まるところで、私達は素通りする。主イエスだったら手を差し延べ助けられるところを、私達は何もしない。私達は人に教えることが得意だが、教えられる事を求めない。自分にして欲しいことは祈れるが、主イエスのして欲しいことについては祈らない。非常に都合の良い麻酔が私にかかっているので、これらの事についてトント痛みを感じないのだ。こういう私達のミニストリーとか奉仕とかが、どれ程のものなのか考えものである。私の座右の聖句に「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」ヨハネ12・43)がある。要するに人の栄誉を愛する人には、聖い痛みを感じる感性も霊性も失われてしまうのである。
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「成長する人の痛み」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/29 1:00
 † 全人的であること。
   アフリカのナイジェリヤの子供サッカーチームが、スペイン代表チームを模範として練習にいそしむドキュメントを見た。極度の貧しさで食事もままならない環境の下で子供達は夢に向かって指導を受ける。勝てば奨学金を受けて中学に行ける、大学の道も開けると小学生が言うのである。サッカーにかけて生きる真剣さに心打たれた。実は、その事を知ったスペインのサッカー代表チームは「誇りに思うと共に責任を感じる」ようになったという。代表監督のフレン・ロペテギ氏は「スペイン代表選手は、サッカーが上手く技術があるだけで合格ではない。人間としてあらゆる面で模範となる者でなければなれないのだ」スペイン代表チームは優れたチームワークがある事で有名である。ナイジェリヤの少年チームもチームワークのよさによって、前回11対0で負けたチームに勝ち優勝した。全人的な成長を教会は目標としているが、ずいぶんと甘いと思う。「これができる」事に安住し、残りの大半の成長に取り組まない傾向だ。技術と賜物の奉仕があっても、それで全人的成長とは言えないことは、誰でも理解できるはずである。

 †  見られ調べられている。
   刑事物のドラマの話ではなく、私達自身のことである。先日、著名な牧師先生の話があった。「某国の教会はかっては人口の30%を超えるキリスト教国にまでなったが、現在では16%にまで後退している」その原因としての要因に、富による世俗化でクリスチャンから祈りが失われた事。次に、近年の有名牧師や大物クリスチャンのスキャンダルで教会の威信を失った事を挙げられた。私は56年前(昭和36年)に洗礼を受けたが、その当時「四面楚歌」の世界であった。19才の私がクリスチャンであることが地域に知れ渡って揶揄(ヤユ。ひやかし)や、馬鹿にされることが多かった。今の時代は大きく変わり、クリスチャンであろうとなかろうと区別をされない。しかしサタンの策略の場である事に変わりはない。世の中の道徳的堕落の空気を区別せずにクリスチャンが自分の得になる思い受け入れると破綻と滅びを招く。神に見られ良心の痛みを感じるなら、まだ救いはある。
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「成長する人の痛み」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/22 1:00
 † 自然の成長をする。
   田んぼはイネを刈り取られ切り株だけが整列している。6月に田植えがあり、その成長の様を毎日眺められる環境にいると実を結ぶまでがよくわかる。「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります」マルコ4・28)自然が持つ見事な過程である。私達の人間としての成長にも言えることではないか?しかし、私達は自然のまま(ありのまま)で成長し実を実らせるまでに成るのだろうか?霊的世界においてはどうだろうか?言えることは人間が実を結ぶほどに成長するには、自然に任せてはできないということである。私達の自然(ありのまま)という意味は、努力し修練してきた「今」をさして「ありのまま」といえるのである。私達の平安は、煩わしさもなく気分も良い、今に安住することである。しかし、聖書は神のみこころを勧める「・・・・成熟を目ざして進もうではありませんか。」ヘブル6・1)苗は成長し実を結ぶように、私達も「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」エペ4・15)ことが期待されている。成長し実を結ぶためには痛みを伴う。成長して実を成熟させる努力が必要である。十字架に肉性を架ける痛みでもある。

 †  耐えるちからをもつ。
   「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10・36)・・・・必要なのは忍耐です。を考える。今の世界には何百万人という難民がいる。我が国にも破壊的な災害によって仮設の住まいに生きる多くの人もいる。見る度に「忍耐と励ましの神が」ロマ15・5)忍耐と希望の霊を注がれる様に願って祈る。また、私達は多くの場合いろいろな事柄に耐える力が必要である。忍耐は扇子の要でもあり、忍耐を切らしたならば、要の外れた扇子のようにばらけて収集が利かなくなる。忍耐があって人間関係が保たれる。夫婦の一方が耐える力を失ったならば、崩壊の危機がそこにある。忍耐は神にあるもので、私達の忍耐には限りがある。もし、神に赴くことがないならば、私の忍耐はさらに脆弱となり危険極まりない。豊かな神の計り知れない忍耐、ご自分の独り子イエスの受難の苦しみを血を流すほどに耐えられた父なる神を見上げれば、愚かな私の内にも不思議な耐える力が生まれる。神から来る忍耐は心の痛みを耐える力である。今、この力が必要だ。
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「成長する人の痛み」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/15 1:00
 † 自己尊大さがない。
   人間の本質には「自己尊厳性」という自分を自分あらしめる本能がある。どのような立場の人にも、どのような環境にある人にも、認められ尊重されるべきものである。人を軽しめる事の無い主キリストのうちには、常にその人の尊厳を受け入れ愛しておられる事がわかる。あのイスカリオテ・ユダにさえ最後まで彼の尊厳を愛し、悔い改めることを求めておられた。しかし、ユダは主キリストの愛のうちに育まれる尊厳性を棄てたのである。自己尊厳の強い人はモーセのように柔和である「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」民12・3)その優しさは「有りて有る」唯一の神を知り、その中に存在し、主なる神のみこころを行うしもべであると自認したからである。その究極の完全な自己尊厳は主キリストに認められる。主なる神の、独り子としての尊厳をお持ちであったので「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ピリ2・8)のである。尊厳性の故に痛みをも引き受けられたのだ。尊大とは「威張る・人を見下げる・自分を上位に置く」と言う意味である。しかしまことの自己尊厳を持つ人には卑しい尊大さは見られない。

 †  神の恵みに留まる秘訣。
   「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ロマ5・20)この逆説(パラドクス)は、個人の信仰にとって重要な真理を言い表している。罪の悔い改めを問うことによって、神の恵みの現実性を知るようになる。神の赦しを受けると言うことは、真摯に罪を告白することである。それで、罪の支配から神の恵みの支配を受ける事になる。過去を赦されたという恵みは真実であり、キリストの血潮の故に完全な潔めを頂いている。以上の告白は重要な真実である。しかし、私達は一度悔い改めると、これで終わりにしてしまいやすい。まことの恵み深い人生は、恵みが絶えざる悔い改めの必要を私達に求めているのだ。その霊的なメカニズム(仕組み)は次のようになる。恵みに生かされているならば、恵みは罪を嫌い、罪から遠ざかるように働く。くちびるの罪を恐れ言葉に注意する。自分の足りないことも、一日罪を犯さないように聖霊の導きを求めて祈る。このように悔い改めは継続的に続くものなのである。使徒パウロは「罪人の頭」という毎日の中で、絶大な主なる神の恵みの中に生きた。罪を憎むという実存的な生き方によって、罪を嫌い、悔い改め続けたからである。主なる神の恵みが聖霊を通して、そのように働かれるのだ。 今、悔い改める必要を感じない?・・・・それは恵みから遠のいているのでは?
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