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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「努力のしがい」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/26 1:00
† 健康は積み重ね。
  友人の近況報告の中に、すごいなと思わされた事が書いてあった。彼は大の野球好き人間で、岐阜県還暦野球古希部の美濃加茂市で監督をしている。彼も驚いたのは「他のチームに90歳で投手をやる怪物がいる」との事。正直すごいと思う。走ったり、歩いたりする運動には高齢者も多いと思う。野球では、走る、投げる、撃つ、捕る、という瞬時に判断する要素が要求される。それらを満たしておられることに感動する。多分、友人のように元旦からキャッチボールをして野球を楽しみ、一年間を野球三昧に過ごしておられる方だと思う。しかし、その努力の積み重ねで、健康である事は喜ばしい限りである。退職後を、健康に過ごすために、継続して出来るスポーツを始めたりする事は、後の健康を刈り取る事に繋がるだろう。肉体の健康と霊的健康は同じで、基礎練習を怠らないことと、向上を目指して学び、実践することだ。モーセは120歳でも「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」申命記4・7)積み重ねられた努力は、実として現れる。

† 忍耐という努力。
  神の与えた信仰は、人間の中に在って成熟して行くもので、信仰には勇気や力強さが要るのである。すると、信仰の力強さに加えられる知識をとおして確固たる人生の基盤となってくることは幸いである。主イエスは聖霊の助けを与えて私達に自制力を伴わせ、忍耐力を与えられる。人間の生活には忍耐を必然的に求められるように、信仰を伴って生きる私達には、キリストの持たれた忍耐がキリスト者の徳性として現される。また、私達の忍耐の根源は、主なる神が私達に最善を与えられたので、今後においても忍耐強く主なる神の真実を信頼して待ち望めるのである。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1・4)わたしの真実とは試される事によって、なお忍耐し信頼する所に現れ、その忍耐力は完全な者への道である。  
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「努力のしがい」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/19 1:20
† 知識には自制を。
  「知識には自制を」2ペテ1・6)信仰には徳を、徳には知識をと、私達の信仰内容は充足してくる。知識を増し加えて信仰は論理的、知性的な内容を伴うようになる。この知識に「自制を」伴わせることが今回求められてくる。自制(セルフコントロール)とは、自分自身を制御するの意味。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」1コリ9・25)私達クリスチャンは、人々がやらない自己鍛錬をしている。スポーツ選手が暴飲暴食を自制するように、決まった時間を必ず競技に見合ったトレーニングをするように、クリスチャンも神の国の証人として自制する。祈り、学び、礼拝して自分の弱さに負けない自制力を身につける。何よりも世の光りでありたいという証人の思いがなければ自らトレーニング(自制)する能力は生まれないであろう。果たして、キリストの証人として生きる気概はあるか?

† 真理を知識とする。
   聖書とは真理の言葉である。「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。・・・・』」 ヨハ18・37-38)私達クリスチャンとは主イエスが約束されたように「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32)真理を知る。即ち、真理は聖霊により知性(知識)となるのである。・・・・残念なのは、多くの人々において、真理が心で止まってしまい、知力にまで到達していない事である。この世の事では知識(知力)を用いて力強く生きているのと同じく、真理は力強い知識なのだ。神の真実(真理)が、心で止まっている限り、神の栄光は光りを放つことは難しい。しかし、私達は宣言する。「聖書の真理は聖霊による私達の知識である」
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「努力のしがい」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/12 1:00
† 徳には知識を。
   「信仰には徳を」2ペテ1・5)信仰には徳を行うことを一番目の努力として記している。このわけは、行いが伴わない信仰は、内容がないものになり、その人は救いを失う可能性が大であるからである。信仰に徳を行うことで「神をよりよく知り」神の生命に、その人が生かされるからである。さて第二の努力は「徳には知識を」と記される。ある父親が息子に次のように、この5節を教えた「信仰には、ダビデの美徳を、あるいは勇気を加えて下さい。また、ダビデの勇気にソロモン知識を加えて下さい」と、徳と知識の繋がりが具体的でわかりやすい。徳に増し加えられる二番目の「知識」は、特に精神的な真実の知識のことである。これは神の言葉を真摯に学び、その得られた知識が、神聖な指針に従う重要性を強調するのである。使徒ペテロは信仰に七つの徳性を増し加えているが、これは私達にとって苦痛ではない。「力の限りを尽くして」(口語訳)キリストの身丈にまで達する「努力」(新改訳)の継続なのである。

† 反対側の道。
   聖書には、いかにも心を刺される出来事が書かれている。良きサマリヤ人の記事(ルカ10章)は、その一つである。隣人とは誰か?の、質問に答えて言われたイエス様の話である。一人の旅人が強盗に襲われ身ぐるみ奪われ、半殺しにされ路上に倒れていた。ここからが問題である。この旅人に三人が遭遇した、先の二人は身分の高い人だったが、関わりを避けて反対側を通り過ぎていった。あとの一人はサマリヤ人で、この半殺しにされた旅人に「近寄って」必要な全てを与えた。さて、ここでの「努力」は、まず「彼を見てかわいそうに思い」 から始まる。しかし、先の二人も、大変だ、かわいそうだ、と思ったに違いないが、次の瞬間、自分の払うべき負担が頭をよぎると「関わりをやめ,努力」を放棄したのである。一方、サマリヤ人は「努力゠力の限りを尽くす」ことをしたので「真の隣人」となった。現代の私達は、よほど自分に厳しくしないと「見て、見ぬふりをする」人間に成り下がる。その習慣が、努力すべきを避け、自分の賢さを自負するようになるのである。
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「努力のしがい」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/5 2:00
† あらゆる努力。
私達人間の特質は、目的のためには努力できることである。夏の高校野球出場校は、地方大会優勝を目指して努力をした結果である。球児の熾烈(シレツ)な努力には頭が下がる。心技体を鍛えられた球児は、人生の新たな目的のために努力を惜しまないと思う。聖書は人類共通の不偏(フヘン)の目的を掲げて、誰もが努力できるようにしている。第一に「信仰には徳を」増し加える努力を挙げる。この目的は「神をよりよく知る」事に置かれている。「信仰」とは、人生の基礎である。「あなたは、生ける神の御子キリストです」マタイ16・16)は、神があなたに与えた人生の基礎(信仰)なのである。「・・・・だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」ヤコブ2・14)この「行い」が「徳」と言われる道徳的卓越性(長所・美点・貞節・高潔)である。この行いによって、神をより良く知る事になる。結果として、私達は信仰の主体性を強く持ち、世に打ち勝つ者となるのである。

† 心地よい広い道。
  「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」マタイ7・13)「狭い門から入れる人」とは、どういう人だろう? 大方は、広い門、広い道が心地よいはずである。なぜなら自分の人間性と戦う必要が無い道だからである。聖書が求める「努力」は、人間の肉的性質とは対極にあるからである。日本人は皆なと同じ事を求める。集団の和を重んじて「赤信号皆んなで渡れば怖くない」に繋がる。私達クリスチャンは、日本人の和の文化に抗う(アラガウ)のではない。世から贖われ「イエスを神の子キリスト」と告白する信仰を神から与えられたのである。結果として、人生を生きる基準が「神の国と神の義を」努力して、第一にすることに代わったのである。その生き方が、より主体性のある「和を重んじ」集団の中で光りを放つ存在にもなるのである。この一連の客観的、理性的、論理的な理解と決断によって「狭い門から入り」救いの道に立って歩み続けるのである。
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「努力のしがい」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/29 1:00
† やり甲斐がある。
  「しがい」とは、やり甲斐がある。ことで、信仰的な努力には「しがい」がある。このシリーズを、Ⅱペテロ1・5-7の「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」から、聖霊の思いを探り求めてみたい。第一の事は何が人間の障害なのか?と言う事である。悲しいかな、私達は評価されない努力はやりたくないのだ。評価とは直接的・間接的な反応が、すぐ得られることである。すると、すぐ評価を得られる事柄に私達は赴くのである。これは人間同士、あるいは集団の中、地域の中で、身近では家族内でも、価値観の有り様(低俗)によっては、深みのない評価をする家族になってしまうのである。しかし、真実は「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ」ヨブ34・21)にある。評価をされる神がおられるのだから、この神に向かう「努力のしがい」は大きな評価を得、その努力は確かな実を結び、成長するのである。

† 結果が約束されている。
  「努力のしがい」の、最たる原因は「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)にある。これは、神の御霊によって信仰告白したクリスチャンには確かなことである。「主イエスの、神としての御力」が、働いている事が原因となって「いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」 からである。そのために、私達は努力を促されているのである。言うなれば「与えられるので、努力のしがい」があるのである。もし、このことに食指(ショクシ)が動くならば、限りない可能性が生まれるのである。理に適い、わたしの利益に適っているのである。そういう訳で、努力のしがいのある旅(信仰生活)をしっかりと続けて行こうではないか。
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