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牧師の想い

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「教会イノベーション」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/2/4 1:00
「教会イノベーション」(4)

 † 信仰を楽しむ。
   人生が楽しいこと、それが生きる醍醐味となる。もし、クリスチャンであることが楽しくないならば、一体何が生まれるのだろう?また、どんな新しいことが生まれるのだろう?キリスト信仰が、その人にとって楽しいならば、それこそが神の御心の成就である。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)喜びと楽しみは一心同体と思える。しかしながら私達クリスチャンは、信仰は楽しいという表現を余りしない。むしろ失っているのではないか?そのためのイノベーションが必要だと思われる。かってインドに赴いてマザー・テレサを訪問した牧師の話を聞いた。テレサは貧しく路上で死に行く人々を神の子として引受け、あらん限りの愛を注ぎ、そのような多くの人々を看取ったのである。牧師が見て驚いたのは、テレサと多くのボランテアの働きの中に、笑いが絶えず、和やかな楽しさが覆っていた事であった。恐らく、このような働きが神からのものであるが故に、人間の悲愴感や強制力とは全く違う、神への奉仕の喜びが満ちていたのだと思う。私が思う事は、今、一人のキリスト者が信仰の喜びを現し、信仰を楽しんで教会に集ってくれるならば、その人が教会にイノベーションを興す人なのである。

 † なる様になる。
   ケ・セラ・セラ、なる様になる。と、ドリスディ・デイが歌い、一斉を風靡した事を思いだした。スペイン語「ケ・セラ・セラ」は、なるようになる。と言う意味。とかく私達は、良いことを予測しないで悪いことが起こることを思う。物事を悲観的に考え、失敗したらどうなるのか?と、常に暗い地下に繋がる下だり階段を見つめているのである。これこそが罪に汚染されている思いであり、感覚なのである。主イエスは「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6・27)と言い「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」33)と約束された。主なる神に任せれば「ケ・セラ・セラ」なのである。なるようになるのである。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5/7)とある。私に起こるべきイノベーションは、自分の感覚的な恐れに縛られず、主なる神と約束に自らをゆだね「ケ・セラ・セラ」なる様になると、歌うが如く、主なる神の導きを期待しつつ、楽しみつつ生きることだと思う。
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「教会イノベーション」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/28 1:00
 † 歴史を顧みて生まれる。
   最近の教養的テレビ番組で人気なのは歴史に登場した人物と時代の検証ではないかと思っている。似たような番組が幾つかある事が、それを物語る。現代という視点から、何百年も前の人物が、取り上げた事柄、実行した事柄が、イノベーションとなり大きく歴史を動かした事が浮かび上がってくるのである。生きた教会を持続して行くにも同じ事が言える、プロテスタント500年の歴史を無駄にしてはならない訳だ。現代がものすごい勢いで様変わりしているように伝えられるとき、教会はあわてふためいて揺り動かされてはならない、まず第1に、聖書の揺るぎない真理を堅く握ることである。そのためには聖書学者によって日夜研究が進められ、教会に提供される成果を受け取り、福音の圧倒的真実を共有することだと思う。第2に、教会は昔(使徒時代)に帰ることである。企業ならば、創設者と創業時代の精神を偲ぶことだが、私達は、神の生命が溢れ満ちている使徒時代の信仰の、本質と内容を見るのである。第3に、教会のイノベーションとして、まず、失なわれている信仰の生命力を、歴史から取り戻すことである。ビンヤード教会はこの現代に「しるしと不思議の宣教」をもたらしたが、さらに、これから、使徒時代のように、しるしと不思議の伴う福音宣教を進めて行くべきだと思う。

 † 論理的知性的に考える。
   私達日本人を始めおよそ人間は、信仰を一種の情念(パトス)だと思い込んでいる。また、信仰は「心の問題」として片隅のものとされる。これは大きな間違いであり、キリスト信仰とは相入れないものである。これまでの私の若者伝道で結果があったのは、論理的で知的な説得力によるものであった。私に伴なったしるしや不思議によって、未信者が救われた例はほとんどない。しかし、神の経綸(ケイリン)について、 宇宙の主人(神)が管理人として、私達に関わって下さっている事。その内容である天地創造の神と人間について、主イエスの降臨と十字架についてを知的な物理学や科学に準じて論理的に聖書を説明する。そして私達の存在が罪の中にある事を理解させる。その罪の告白に導くと、多くの若者がキリストを信じた。霊的イノベーションは、聖書を語れる能力ではない。自分自身が論理的、理性的に信仰を受け入れ、そこに生きている事なのである。信仰が論理的・知性的な決断として自分の生活そのものである事が当然求められている。しかし、信仰を一種のパトス(情念)にしている限り、信仰と私の間には、埋まらない隙間があり続けるのである。
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「教会イノベーション」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/21 1:00
 † 人の持つ力を。
   昨年は「ビンヤード・ミッション・センター」建設であった。後半に入って宗教施設として認可を受けるための岐阜県との折衝に、大きな霊的な戦いを感じて祈らされた。古い概念が息づく宗教法人法の枠に合うようにするには、幾度となく大変な事があった。主なる神は、背後で奇跡的な準備をされ、人々に働きかけて下さり、認可される道を開かれた。昔、主なる神はペルシャの異邦人クロス王に神の霊を注ぎ、奮い立たせられたことが記されている。エルサレムに神殿を立てさせるためであった。Ⅱ歴代36・22、23)また、主イエスは「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です」マルコ9・40)とも言われている。ここでは洗礼を受けているか、いないかは問われていない。「私達に反対しない者」ならば、主イエスも共におられる「私達」の味方なのである。教会の周りには多くの味方がおられる。この方々は教会のために、福音のために大きな力を持っておられる。主なる神は、教会のために、そういった人々の力を用いられることがあるのだ。宣教は福音を持って世に討ち入ることである。市の中枢に、県の中枢にも福音が必要なのである。教会の味方である異邦人(未信者)が豊かな戦力として世の門を開いたり、神のみこころのために道を設ける務めも与えられているということだ。

 † 原始的戦略の力。
   私と妻は、新年礼拝を終えて、すぐペトナム旅行に赴いた。一番安く、日程が良い時と言うことだった。今、ベトナムではキリスト教が急伸していると添乗員が語っていた。なるほど田舎にも十字架が見えた。社会主義国家なのに人々のニーズが福音にあるのだろうし、宣教がされているということである。世界遺産を五つ巡る旅でもあったが、何よりも印象に残ったことは「クチの地下トンネル」だった。アメリカとの戦争にベトナム軍が勝利した実体がわかった。戦車も飛行機もないベトナム民兵がジャングルに地下道を距離にして250㎞を掘り、神出鬼没(シンシュッキボツ) さながらに米軍を攻撃したという。科学兵器で勝てるはずのアメリカは、泥沼にはまり甚大な人命の損失に道を塞がれたのである。ベトコン(ベトナム兵)は、十代の女性から老人まで、一致団結して支え合い、手作りの武器、落とし穴や罠で戦った。これは私達の宣教に通じるものがあると思わせられた。宣教は誠に原始的な方法である。第1、宣教の志を一つに団結する。第2、証詞と伝道(福音を伝える)第3、交わりに招待する。原始的戦略の力は「初めの愛」默2・4)に回帰することである。
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「教会イノベーション」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/14 1:00
 † 現状の見直しから。
    innovationとは、物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい 捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)とある。プロテスタント150年の教会をかえりみて、一番大切なことは「日本の宣教」である。海外に宣教師を送り出すことによって、日本の宣教が増大するならば、それを進めよう。宣教師を送り出した教会と団体が宣教に燃える限りそれは正解である。日本にもそのような教会があると思う。ただ教会とは、もともと地域に置かれたものであり、その地域の滅びにある人々を福音に導くためにある。当然今までの宣教が続けられることだが、今までにない切り口を見いだしたい。今ある交わりに増し加えてゆくものを持ちたい。2018年こそ霊的なイノベーションが起こされる必要がある。私達の教会は「一人の救いのためになんでもする」という所から新しい発想が生みだされてきた。この理念は変わらないが同じ在り方、やり方を刷新して行こう。世も人も変化を続けているからだ。私達ビンヤードの群れは「宣教のかたち」を限定しない。どんな変わったアイデアでも魂の救いのためならば認められる。今までの良かったことに安住せず、絶えず新しさを増し加えて行かなければならないのだ。

 † 絶えず進行形。
   私達の生活はいつも前に向かって進められている。子供の成長に伴うように家族が形成される。親たちも子供を成長させながら自らも成長している。子供達が自立し、それぞれ家庭を持つに至っても、なお進行形で人生は完成に向かって進み続ける。例えば、海から産卵のため川を遡(サカノボ)る鮭のように最後までの進行形がある。人間の場合は動物的な死を持って終わるのではない。私達の創造者であり愛の父である神の懐に帰り憩うことである。このように進行形の人生には何一つ無駄となるものがない。私達の進行の途上には良いことばかりではない、肉体的試練、精神的試練、天災的試練、経済的試練、人間関係的試練もある。今、生かされているならば、これからの進行形の人生のためなのだ。幸いな進行形の人生を願い求めるのであるならば、詩編第1篇を深く吟味して受け止めよう。そこでは「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」そして、その人は「何をしても栄える」と、信仰による進行形の勝利と繁栄を約束されている。
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「信頼する勇気」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/7 1:00
 † 空虚を埋める御言葉。
   長年牧師をしていれば、多くを学び、信仰に精通してるように見られても仕方がない。信仰は「所与」( 与えられること。与えられるもの)ではあるが、元々、私達のうちにあるものではない。言葉を代えて言うならば、常に日々100%の信仰が充満しているのではない。わたしの場合、毎日神のメッセージが必要である。わたしは受け取る器であって、毎日霊的励ましを必要としている。聖書に「土の器」について書いてある。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)古代には素焼の土の器に、高価な宝石が載せられたという。土の器には所与としての宝石は与えられてはいないように、私達クリスチャンも、その都度、日々に恵みを与えられて存在するのである。私達は日々に、空の器であり、土の器なのである。霊的高慢とは自分が空ぽである事、壊れやすい土の器であることを思わず、十全な者のように振る舞うことである。「幸いな人」は、一日中、神の言葉を喜びとし、口ずさんでいる。詩1・2)これは、演技としてのパフォーマンスでは決してない。空っぽでしかない私達が御言葉を思い巡らし、宇宙創造の神の偉大な恵みに感謝し、喜び、心満たされる大切な務めなのである。しかも生命が増大し、その人は繁栄するのだ。

 † 大胆な信頼。
   島津斉彬(シマズナリアキラ)は、日本の近代史を語る上で欠かせない人物である。下士仕官であった西郷隆盛をひきたて登用したのも斉彬であった。鹿児島にある斉彬の記念館を訪れたことがある。日本最初の製鉄反転炉を造り、鉄製の大砲を鋳造した。蒸気機関で動く艦船建造もペリー来航の2年後には建造していた。何よりも忠臣で才能があれば、身分に拘わらず多くを任せる信頼を与えた。マタイ25章のタラントの例え話にあるように、多くを与えられたしもべは多くを儲けたように、私達も実は多くを与えられている。主イエスの偉大な御業により、誰もが直接的に祝福の契約に結ばれている。そう感じて聖書を読む人は驚くだろう「こんな私で良いですか?」と、思わず口にしたくなる。「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」 ガラテヤ3・9)能力や、才能のあるなしに拘わらず、主なる神はアブラハムの祝福に繋がるようにされた。そして、あまたの人々がアブラハムの祝福を味わい、ますます主の御業を誉め称えている。主イエスは現代のあなたを神の国に登用し、神の栄光のために用いられる。喜んで神の選びに答えて進もう。主なる神に多くを与えるほどに祝福を受けるのである。
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