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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「良識の好奇心」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/5/6 1:00
 † 世界の空を救った男。
   藤田哲也博士がその人で,アメリカ合衆国の気象学者。出身地は現在の北九州市小倉南区である。ダウンバースト(下降噴流)とトルネード(竜巻)の研究における世界的権威として知られ、その優れた業績から Mr. Tornado(ミスター・トルネード)、Dr. Tornado(竜巻博士)とも称される。学生のころに父と母を相次いで失い、弟と妹を見なければならない非常に貧しい境遇にあった。しかし、余りにも優秀な彼を支えようと現在の九州工業大学に学費援助で物理学に進ませた。彼は子弟のために、地理学教授の助手として働き、生活の糧を得た。彼は原爆直後の長崎の現状を克明に調査した。彼の気象学は独学であり奇抜な発想は専門家を驚かせた。彼は日本では注目されなかった自身の論文をアメリカ気象学会会長に送りつけたところ、大きな評価を得、ついには会長のいるシカゴ大学に渡る事になる。竜巻大国アメリカで彼は熱烈な好奇心を持って研究した。航空機事故多発の原因であったダウンバーストの実体を証明した。藤田スケール(トルネード階級表)は国際的な基準となり、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備されるようになった。彼が長崎の原爆に見た爆風による破壊の調査が彼にひらめきを与えた。と、彼の弁である。

 † 見て識る豊かさ。
   先月のことだが、ゴージャスなパスで、行き先がわからない「ミステリー・ツアー」に参加した。結局、和歌山の串本での一泊となった。子供の頃、口ずさんでいた「ここはは串本向かいは大島、仲を取り持つ巡航船・・・・」ここのことか、と感動した。今、紀伊大島には橋がかかっていて、そこにも行った。そこには、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難したトルコの軍艦エルトゥールル(500名以上の犠牲者を出した事件)の記念碑が建っていた。串本の人々が嵐の中必死に救援活動をした事が、トルコの国民に感動を与え、今日も友好関係が築かれている。実に、行って見るまでは私には記憶の外にあるような知識であった。しかし、見て識る事によって非常に興味深いものとなった。小さな日本だが景勝地が多く、民話や物語が満載している。この旅でもう一つの物語の現場に行った。「安珍清姫」で知られる道成寺である。子供の頃には村に立派な歌舞伎小屋があり毎年二度は歌舞伎が演じられた。その中に娘道成寺として演じられ、怨念により清姫が蛇に変身して釣り鐘に絡んで終演となる。歌舞伎は「手ぶり説教」で人間を諭す目的がある。旅によって違った場所に行けば、好奇心がかき立てられて豊かになる事は事実である。
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「良識の好奇心」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/29 1:00
 † 毎日を活かされる力。
   一日という単位が毎日になる。その毎日が一生となることを思えば毎日を、一日を  重んじなければならない事になってくる。ビクター・フランクル(精神科医)の心理学が一番福音的だと私には思えるが、その著作「夜と霧」に圧倒されない人はいないと思う。その中で「意味」と「人間の尊厳性」が、死の強制収容所の中で、過酷なその環境の中で実存し生きる力であった。ということを精神科医として発見した。強制収容所でのユダヤ人600万人の虐殺という現実の中でも、誇りを持ち、意味を見いだして生き続けた人たちが大勢いたのである。フランクルもその一人であった。いつガス室に送られるかわからない一日一日というものは、考えれば人生の縮図でもある。私達は死に向かって生きていることはまちがいのない事である。そこまで突き詰めなくても良いと思うが、毎日をいかに迎えるかを、信仰がありながら答を得ていないならば残念極まりないと思う。キリストはあなたの「意味」ではないのか?福音はあなたの「尊厳性」ではないのか?・・・・神の啓示と光りは、私達の好奇心を増し加え、活かされて行く力となるのである。

 † 進歩に気を馳せる。
男は新しいものに惹かれる性質を女性よりも過分に持っている。要するに新し好きなのである。私も過分にその傾向があり、何事にも新しいことに好奇心がわくのである。そのことによって全般的に物知りともなる良い面として働くこともある。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」ピリピ4・8)6回の「すべて」にたいして、新しい好奇心をもって対応することが、強く勧められている。世の中の機器の著しい進歩への好奇心だけではなく、世の人々の中に見られる幸いな出来事について、好奇心を常に持って「感謝と喜こび」に結びつけて行けといわれている。考えられることは、好奇心がある限り、前向きである。良識のある好奇心は生命力を増進させる力を持っているのだ。広大な宇宙の中に私達は虚しく浮遊しているのではない。福音は明確な生命の希望を与え、今を生きるための集中力と好奇心をいっぱいに与えてくれている。
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「良識の好奇心」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/22 1:00
 † 好奇心は善か?
   好奇心は成長に欠かせない要素である。しかし、永い年月の中で早熟な好奇心のために幸せな人としての道を外れてしまった人々を見た。子供が大人になりたいという願望を持ち、大人の世界に好奇の目を持つ事と同じように、誰にも想像力の働く好奇心は付きものである。そういった好奇心は生まれるものであって、どうしょうもない力を伴っている。それによって突き進んでしまう人がいる訳だ。私達人間の始祖であるアダとエバは非常に優れた精神を持って神に仕え、全てに満ち足りて幸せだった。善悪を知る木の実は、自分たちの良識を証明するシンボルとして誇りにも等しい存在だった。サタン(悪魔)はこの良識ある人間に「好奇心」をたきつけた。目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになれること、決して死ぬ事はない。と安全弁のように植え付けて、善悪を知る木の実を改めて見つめ直させた。すると「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」創3・6)そして、その実を取って食べた。好奇心は肝心な良識をくつがえし、滅びに至らせる力でもあると言うことだ。

 † 好奇の思いを神に。
   モーセは奇遇な生涯を与えられた人物である。彼は良識のためにエジプトの王子の身分から一転さすらい人となり、ミデアンに逃れて羊を飼う境遇へと突き進んだ。それから40年も経った頃、羊を見守ってシナイの荒野にいた。すると不思議な炎が柴の上にあり、柴は燃えていなかった。モーセは知識のある人物であり、それに驚いて近付いて見ようとした。好奇心がモーセを揺り動かしたのである。それこそが神の求めておられたことであった。そして、いまだ聞いたこともない、厳かな神の御声を聞くのである。モーセは震え上がり、見定める勇気も失ったと記されている。主なる神は、これまでのモーセの80年の体験や知識の見解をくつがえし、神主導の世界を体験させるのであった。人から教えられた神でも、理解でも無い、主なる神との直接的なシフト(世界観)が注ぎ込まれる事になった。直接的体験をした者でなくては知り得ない真実な現実を獲得したのである。これは今日でも変わりはなく「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7・7)ということである。好奇心旺盛な神の人は、主なる神の直接的な御業にふれ、御声を聞かされる。好奇心だけではなく、高潔な良識を持っ神に向かうのが良い。
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「一貫性の喜び」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/15 1:00
 † 曖昧な私とつき合う。
   私とは曖昧で一貫性に欠ける人間である。しかしながら、これは全ての人に共通する事かも知れない。曖昧な私なので、心して一貫性を求めるのが実情である。内村鑑三はキリスト者として、戦争に傾く厳しい社会情勢の中、信仰の一貫性を持ち続けた世界に誇れる人物である。激しい迫害の中でも彼の信仰の精神は生き続けた。私にはそれほどの力はないが、彼を思うと勇気を与えられる。曖昧とは、あるべき轍(テツ)「先人のつけた道」を歩まないことであり、、自分の弱さに迷い、混乱した行為をすることである。「君子危うきに近寄らず」はキリスト者にとって重要な事である。誘惑は、自分を曖昧にしてしまうからだ。一貫性を保ち続けるには、このような曖昧さを纏う私と、しっかりつき合って行くこと。行くべき真理の車輪のわだちが見えているのに、そこを歩まず外れ出てしまうからだ。曖昧な私に厳しくつき合って行かないと、右に左に揺さぶられ振幅が大きくなり、一貫性とは何か自分でわからなくなるからである。曖昧な私を見据える事が、一貫性をもたらすことになる。

 † 今までとこれから。
   今までを生きてきたことは、素晴らしい事である。一人一人には独自の歩みがある。ずいぶん遠回りを強いられた道のりであったかもしれない。ある人は苦労もなく直線的な歩みをしたかもしれない。聖書には、さまざまな人物の生き様が書かれている。世界の富を惜しみなく手に入れたソロモン大王もいれば、金持ちの軒下で食べ残しを待つ、全身おできのラザロもいる。そういった人々の結末を聖書は克明にしている。それは私達が自分の今までを不遇に結びつけるのではなく、感謝に結びつけ、生を与えた神を誉め称えるためである。私は2才にして太平洋戦争に巻き込まれ、激変する環境の中で押し流された。もがき続けたお陰で「真理による自由」ヨハネ8・32)に、たどりついた。苦労をする事、不遇を耐えることがなかったら、このような出合いはなかったのでは、と思う。私の場合、主イエス・キリストに勝るものは他に無い、という世界になった。「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」詩63・7)キリストに出会って、58年に及ぶ今まで、主なる神は真実に支えられた。残された日々は短いかもしれないが、偉大な真理の自由のために、一貫して全力を尽くしたい。
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「一貫性の喜び」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/8 1:00
 † 死と生の一貫性。
   先日、親しかった従兄弟の骨を拾った。彼は78才だった。心に迫られたことは、死こそ人間の現実であり、確実なものであると言うことだ。日本人は、終わり(死)から考えて生きるとか、終わりに向かって生きるという考え方はあまりしない。そういう文化背景がないと思う。死も生も、無情の中にあり「無」であると教えられ、混乱しつつ考えるのが日本人ではないか?キリスト信仰は、死と生のまことの文化を与える。宇宙万物の創造があり、まもなく完成がある。キリストの死からの復活は、私達人間の完成に道を開き、死を人間の新たな誕生日に変えてしまったのである。人間の死は、人間が完成される過程の一部に過ぎない。死は人生の新たなる出発とされたのだから、地上の人生が全てではない。死を契機に、これまでの人生に報いを与える。「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人(私達)にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです」ロマ2・10-11)今の私達の生き様は公正な審判で計られているのである。私達の人生に一番大事なことは、死を人生の要(カナメ)として、健全に、ハッピーに受け入れることである。私の身体は死して塵(チリ)に帰るが、私は地上の人生を引き継いで新たに生きるからである。

 † 平安であり続ける。
   NHK朝の番組「わろてんか」に教えられるところがあった。どんなときにも笑う、と言うことが、どのようにできるのか? 笑えない現実の中ではどうするのか。・・・・私達は復活という真実な根拠があって、死を克服できる人生を持てるように、どんな時にも「笑う」には根拠が必要である。その、キーワーズは「人間は、どんな動物よりも愚かで、戦争をして人を殺し合う」という所。「だから憎しみ合うことより笑いが必要なんや」・・・・笑うということは知的行為であり、険悪な空気を変える積極的な平和思考であるのだ。たとえば夫婦を中心に家族が笑い合えたら円満を象徴していると言える。笑いを失った生き方は、人生の健康を損なっている結果では? 神の平安(シャローム)は、日常の挨拶の言葉とされるが、神の繁栄という意味も含んでいる。主なる神の支配下に生きる私達は、主なる神の祝福の中に過ごしているので、平安なのだ。故に「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください」ピリピ2・18)なのである。お笑い芸人によって「笑う」事も大事だが、私達は神の平安が与える喜びを持っている。私達はその喜びをわかち合う。喜びは、絶えない潔い笑いとして、決して途切れることのない一貫性である。
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