トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「神の思い通りに」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/8/6 1:00
 † 風は思いのままに吹く。
   「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。・・・・」ヨハネ3・8)思いのままとは、勝手気ままと言う事でもある。ここでは、主なる神は思いのままに来たり、去ったりされるとは言われていない。自然現象的な風について語られているのだが、聖書では「吹く」ものが風のみとは言って居ない。「・・・・息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」エゼ37・3)吹いてくる神の霊が、殺された者たちを生き返らせるのだ。思いのままに主なる神は「吹かせられる」方でもある。今から100年も前のことだ、当時の社会には神は死んだも同然で、力も、聖霊の働きも使徒時代の過去のものとして受け取られていた。しかし、カンザス州トピカで一人のホーリネスの牧師バラムはり聖霊の働きを信じていた。彼は神学生に宿題を与えた。「聖霊が今も働いている証拠を見出せ」すると「聖書を読めば聖霊の賜物は現代のものである」と決論が出された。バラムは答の明快さに打たれ、1900年12月31日徹夜祈祷を行ったのである。すると、異言で語る者が起こり、数日後にはバラムを初め大勢の人が異言を語っていた。聖霊の賜物の歴史的な回復が成されたのである。・・・・風[息]は思いのままに備えられた好ましいところに吹く事を覚えたい。

 † まことの自由を生みだす。
   前稿から引く継ぐ。1905年にバラムの説教を聞いた一人にアフリカ系アメリカ人説教者ウイリアム・J・シーモアがいた。彼は南部の人種差別政策のため会堂内に入れずバラムの説教を半開きのドアの外で聞くしかなかった。シーモアは霊感を受けて1906年4月ロスアンジェルスのアズサストリート312番地に「使徒的信仰宣教会」を設立、建物は荒れ果てた倉庫であった。ここに2年間にわたって大規模なリバイバルが起こったのである。完全に人種差別は無視され、牧師チームのトップには黒人が立っていた。この聖霊復興(リバイバル)は世界の各地に広められた。さて、神の思い通りは、聖霊の働きによるものである。理論や教理や組織で神の思い通りは、実現するものではないのである。教会には「教え」という重要な霊的な訓練が求められているが、各人の霊的な受容力がなければ成熟したり実を結ぶに至ることは難しい。聖霊による直接的な働きが感覚となり生命となる時には、大きな受容力と自由を生むのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (253)

「神の思い通りに」(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/7/30 1:00
 † 思い込んでいる自分。
   私達の生活では「最低でも○○」という基準を設けている。果たして主イエスが私達に求めている最低基準というものがあるのだろうか? 人間が人間のことを思う事はうなずける「最低でもこれだけはやっておけ」と愛の譲歩をする事などだ。クリスチャンである私達も自分は標準だとか,最低基準は超えているとか,とにかくクリヤーしておれば問題はないと言う「最低限○○」を思い込んでいる。なぜか? 信仰が律法遵守や行為ではないと教えられることから生まれてきたものだと感じる。信仰の境界線がわからず曖昧な信仰生活が送られているからだと思う。使徒パウロの書簡は、前半は教え、後半は実践を勧めている。聖書を誠実に読む人には問題なく「信仰の基準」は入ってくる。しかし聖書を系統だって読まないで、1~3節をディポーションで読む人は聖書全体がわからなくなるのではないかと心配だ。聖書を通読した結果「最低でも○○」という基準を持って欲しい。

 † 基礎だけの信仰。
   2017年7月30日迄の一週間「ビンヤード・ミッション・ンセンター」の建物が組合されてゆく様子を見ている。基礎工事も大変な労苦がされて頑丈に作られるのを見たのであるが、主イエスの言葉を思い出す。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」 ルカ14・28)ここでは費用の計算の重要性が語られる。このところからクリスチャンは金融・経済に無頓着ではいけないと教えられている。・・・・ここでは霊的な基礎と建物を考える。ヘブル6・1では「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」と勧められる。クリスチャン生活は霊的基礎を築くことと「義の教え」を建て上げる両方を求められているのである。神の思い通りと私の思いとが食い違ってはいけないと思う。私が霊的基礎さえしっかり築けば問題ないと思い込んでいても、神の思いはその基礎の上に成熟が建物のように見える事なのである。神の思い通りに私達がなりますように。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (239)

「神の思い通りに」(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/7/23 1:00
 † 燃やされること。
   私達に大切なことは、主なる神に燃やされることである。そうでなければ、とても神の思い通りを願うようにはできないからだ。では、どのように燃やされるのだろうか?もし、それがわかっているのであるなら、あなたは幸いな神の人と言える。私を振り返ってみるならば、絶えず燃えていたとか、燃やされていたとは言えない。しかし、それはどうやら全ての聖徒が体験している事実でもあることに気がつく。要するに、燃やされる必要をおぼえて神の前に在ることが健全とも言えるだろう。「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない」レビ6・13)これは個人的な密室の祈りの祭壇の火であることに間違いない。教会の祭壇の火は、個人の祈りの祭壇の火が火種となる事を知れば、個人の祈りの祭壇の火を燃やされることが、いかほどに重要であるかわかるのである。この密室の祈りの火が、親族、地域、隣人、国家へと燃え広がるのである。覚えるべきことは「祈りの火」は主なる神が燃やして下さると言うことだ。御言葉が燃える薪となり、聖霊が風となって燃やし続けられるのである。

 † 普通の人生でも有効。
   「そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」使徒10・35)選民意識のあるユダヤ人にとって、神の御心は意外だった。このことは歴史上の転換点であるが、注目したいのは「神は人を偏りみない」と言う事である。誰でも、神の思い通りに導かれ、神の計画された道を生き生きと生きられるということである。その第一は、神の言葉に聞いて「人間を」識る事である。神の創造と完成される御心の中に自分を捕らえる事が、神の中に大きく息づく事になる。第二は、自らを虚しくすることである。これは時代と逆行するように思えるかも知れないが、完全な正道である。偉大な神を讃える者ならば、その偉大さにどれ程に虚しい人間であるか、気がつくはずである。主なる神は旧新両聖書をとおして愛情深く教えておられることは、私達がへりくだることである。そうするならば「神の思い通りに」従える霊性と内容が築かれるからである。あえて言うならば霊的な成長の近道は謙虚である。即ち、へりくだりである。自己を虚しくして神を仰ぐ者が「神の思い通り」を喜べるからである。
     
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (183)

「神の思い通りに」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/7/16 1:00
 † 神の愛と克己心。
  主なる神の愛とは、劣った人間(罪を犯した被造物)のために、最愛最善の独り子を犠牲にお出来になると言うことだ。罪人である私達は理屈は頭でわかっていても、自分と同じ人間にたいして頑なになり、無関心を装い無視してしまう。この事を通してその人間の容量や、人としての器の内容を自ずと明らかにしてしまうのである。主なる神は、自ら以上の者は誰も居らず、絶えずよこしまな人間に対して正義を現し、愛と寛容を持って赦し続けられるのである。人間は今「克己心」を持ち、自分に打ち勝って行為し、態度で現せる人は稀ではないだろうか?まさに人の上に立てるリーダーはそういう人で有って欲しいものだ。まして教会は主なる神の愛と赦しの共同体である。自分の思い(面目)に生きるのではなく、神の思いを選ぶ勇気を選んでゆきたい。その人は、主なる神と多くの聖徒の間で称賛される栄誉を刈り取るのである。クリスチャンには信仰による克己心を持てるようにされている。「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」1テモテ6・11

 † 祈りと自己形成。
  人間はどのような自己を形成するに至るか。これは主なる神の最大関心事だと思う。 私達クリスチャンは幸いである、なぜならば自己を形成する模範者である主イエスをいつも仰ぐことができるからだ。しかしある人はこれが気にくわない、私は私、俺は俺であり続けたいからだ。私達がどれ程に主イエスに似る者になったかが、主なる神の評価基準である事を、あえて避けようとしている。そのため別の評価基準を教会に持ち込んでくる。それは総じて、信仰が要らない世的な知恵や賢さ、方法や行動である。第一に、神を畏れる敬虔を持っていない事。第二に、キリストに似るための労苦である祈りが伴っていない事が挙げられる。自分の自己がどのように形成されてきたのか、今を頂点として形成された成長の経緯を喜べるなら幸いだ。祈りの主要な目的は、主なる神の思いに逆らう自己を、主なる神の前に引きづり出して、神の潔めを願うことである。その祈りを続ければ主キリストに似る自己形成に大きな変化を見る。主イエスを誠に慕う者は、神の思い通りになる事を祈る者であるはずだ。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (210)

「神の思い通りに」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/7/9 1:00
 † あらがう性質。
抗う(アラガウ)と言う気持ちが人間の中には生まれつきある。抗う人間の起源は、私達の先祖アダムが罪を犯した直後、素直である事が出来ず、言い訳を持って神に抗ったことから、全ての人間にそのDNAが引き継がれたのである。それ故、私達は生活の中で自分の中に抗おうとする勢力と常に戦わないと、抗争事件を起こしてしまうのである。身近であればあるほと顕著に表れるのが特徴である。夫婦、次に兄弟、家族と順次輪を広げてゆくのである。日本人は礼節を重んじることで「和」を繕う名人であった? 要するに強い自制力があったのである。しかし、今や自制の壁は崩れてしまったかのようになり、何を言っても当たり前のようになった。聖書は現代人に最適な書であると思うのは、人間の潜在的な抗う性質は、至高の存在である神に反抗するという形で書かれている。それは祝福とならず、喜びから切り離される。抗う能力の強い人は要注意である。神に対しても、人に対しても、集団の交わりに対しても、いつしか抗う思いが頭をもたげて、聖書とは裏腹の思いを持ち、抗う道を自ら走ってしまうからである。

 † 見えないし、わからない事。
私達は生きているので、わからない事が多い。ある人は反対に生きているからこそ最先端の出来事や知識をもてるという。生きている方に軍配が上がりそうだが、突き詰めるとそうでもないと思う。ルカ16章の乞食のラザロと金持ちを通しての事だ。ラザロは死ぬとすぐに御使いが父アブラハムの元へ運んだ。金持ちも死んだが、火炎の中に渇き苦しんでいた。金持ちは深淵の向こうに麗しいラザロ見て懇願した。ラザロの指を水につけ私の舌を冷やして欲しいと。しかし、その深淵を渡る事は赦されていないと断られる。この物語は生きている者には、わからない事実で、しかも最も切実な問題である。ご高齢の方にも若い人々にも言い得ることは、本当の私の真実は生きている間は「実感」とはならない。死んで初めてわかることだ。だから生きている間に信仰が必要なのだ。信仰とは知識ではなく「信頼」である。だから信頼のない信仰は力も真実もないと言える。主イエスを信頼するには、その告白を必要とする、まず自分自身に、次に悪魔に、この世に「主イエスは信頼する私の神である」と、大胆に告白する。神への信頼で成功しない者が、この世で本当の成功者であるはずはないのだから。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (201)
牧師の想いカレンダー
« « 2017 10月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 1 2 3 4
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top