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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「努力のしがい」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/12 1:00
† 徳には知識を。
   「信仰には徳を」2ペテ1・5)信仰には徳を行うことを一番目の努力として記している。このわけは、行いが伴わない信仰は、内容がないものになり、その人は救いを失う可能性が大であるからである。信仰に徳を行うことで「神をよりよく知り」神の生命に、その人が生かされるからである。さて第二の努力は「徳には知識を」と記される。ある父親が息子に次のように、この5節を教えた「信仰には、ダビデの美徳を、あるいは勇気を加えて下さい。また、ダビデの勇気にソロモン知識を加えて下さい」と、徳と知識の繋がりが具体的でわかりやすい。徳に増し加えられる二番目の「知識」は、特に精神的な真実の知識のことである。これは神の言葉を真摯に学び、その得られた知識が、神聖な指針に従う重要性を強調するのである。使徒ペテロは信仰に七つの徳性を増し加えているが、これは私達にとって苦痛ではない。「力の限りを尽くして」(口語訳)キリストの身丈にまで達する「努力」(新改訳)の継続なのである。

† 反対側の道。
   聖書には、いかにも心を刺される出来事が書かれている。良きサマリヤ人の記事(ルカ10章)は、その一つである。隣人とは誰か?の、質問に答えて言われたイエス様の話である。一人の旅人が強盗に襲われ身ぐるみ奪われ、半殺しにされ路上に倒れていた。ここからが問題である。この旅人に三人が遭遇した、先の二人は身分の高い人だったが、関わりを避けて反対側を通り過ぎていった。あとの一人はサマリヤ人で、この半殺しにされた旅人に「近寄って」必要な全てを与えた。さて、ここでの「努力」は、まず「彼を見てかわいそうに思い」 から始まる。しかし、先の二人も、大変だ、かわいそうだ、と思ったに違いないが、次の瞬間、自分の払うべき負担が頭をよぎると「関わりをやめ,努力」を放棄したのである。一方、サマリヤ人は「努力゠力の限りを尽くす」ことをしたので「真の隣人」となった。現代の私達は、よほど自分に厳しくしないと「見て、見ぬふりをする」人間に成り下がる。その習慣が、努力すべきを避け、自分の賢さを自負するようになるのである。
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「努力のしがい」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/5 2:00
† あらゆる努力。
私達人間の特質は、目的のためには努力できることである。夏の高校野球出場校は、地方大会優勝を目指して努力をした結果である。球児の熾烈(シレツ)な努力には頭が下がる。心技体を鍛えられた球児は、人生の新たな目的のために努力を惜しまないと思う。聖書は人類共通の不偏(フヘン)の目的を掲げて、誰もが努力できるようにしている。第一に「信仰には徳を」増し加える努力を挙げる。この目的は「神をよりよく知る」事に置かれている。「信仰」とは、人生の基礎である。「あなたは、生ける神の御子キリストです」マタイ16・16)は、神があなたに与えた人生の基礎(信仰)なのである。「・・・・だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」ヤコブ2・14)この「行い」が「徳」と言われる道徳的卓越性(長所・美点・貞節・高潔)である。この行いによって、神をより良く知る事になる。結果として、私達は信仰の主体性を強く持ち、世に打ち勝つ者となるのである。

† 心地よい広い道。
  「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」マタイ7・13)「狭い門から入れる人」とは、どういう人だろう? 大方は、広い門、広い道が心地よいはずである。なぜなら自分の人間性と戦う必要が無い道だからである。聖書が求める「努力」は、人間の肉的性質とは対極にあるからである。日本人は皆なと同じ事を求める。集団の和を重んじて「赤信号皆んなで渡れば怖くない」に繋がる。私達クリスチャンは、日本人の和の文化に抗う(アラガウ)のではない。世から贖われ「イエスを神の子キリスト」と告白する信仰を神から与えられたのである。結果として、人生を生きる基準が「神の国と神の義を」努力して、第一にすることに代わったのである。その生き方が、より主体性のある「和を重んじ」集団の中で光りを放つ存在にもなるのである。この一連の客観的、理性的、論理的な理解と決断によって「狭い門から入り」救いの道に立って歩み続けるのである。
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「努力のしがい」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/29 1:00
† やり甲斐がある。
  「しがい」とは、やり甲斐がある。ことで、信仰的な努力には「しがい」がある。このシリーズを、Ⅱペテロ1・5-7の「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」から、聖霊の思いを探り求めてみたい。第一の事は何が人間の障害なのか?と言う事である。悲しいかな、私達は評価されない努力はやりたくないのだ。評価とは直接的・間接的な反応が、すぐ得られることである。すると、すぐ評価を得られる事柄に私達は赴くのである。これは人間同士、あるいは集団の中、地域の中で、身近では家族内でも、価値観の有り様(低俗)によっては、深みのない評価をする家族になってしまうのである。しかし、真実は「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ」ヨブ34・21)にある。評価をされる神がおられるのだから、この神に向かう「努力のしがい」は大きな評価を得、その努力は確かな実を結び、成長するのである。

† 結果が約束されている。
  「努力のしがい」の、最たる原因は「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)にある。これは、神の御霊によって信仰告白したクリスチャンには確かなことである。「主イエスの、神としての御力」が、働いている事が原因となって「いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」 からである。そのために、私達は努力を促されているのである。言うなれば「与えられるので、努力のしがい」があるのである。もし、このことに食指(ショクシ)が動くならば、限りない可能性が生まれるのである。理に適い、わたしの利益に適っているのである。そういう訳で、努力のしがいのある旅(信仰生活)をしっかりと続けて行こうではないか。
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「神の国を生きる」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/22 1:00
† 神の助けが起こる。
  神の国を生きる私達のために、主イエスはなんと言われたか「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」ヨハネ16・33)私達が「世にあっては」と言う意味は、単に生きていくこと以上の、神の福音(神の国)を生きる上で、ということである。第一に、神の平安は神の国を生きるために選ばれた私達に注がれる。第二は、信仰を勇敢に生きる私達に、キリストが世に勝たれた恵みと聖霊の力(勝利)を私達に伴なわせ患難に立ち向かわせる。いま患難にある兄姉は、神の祝福から見放されているのではない。より強く主イエスがご自身に引きよせておられるのである。福音の霊的思考で、人間的思考を克服し、勇気を出して交わりをすれば、神の助けは真実に起こる。

† 重心のある所。
  重心とは,私達が生きる上での重心である。主イエスは次のように言われた「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」ルカ12・34)私達は宝とするものに心を置く生き物で、そこに「重心」が置かれている。人間の頭(理性)は非常に都合よくできているので、論理的で説明的である。例えば「神の国とその義」が信仰生活の第一です。そして、それがクリスチャンの重心です。と回答できる。しかし理解と実際は異なるのである。人間は信仰(聖霊の励まし)がないと霊的に理解した事を生活上に移すことは難しい。頭脳明晰な公務員が不正に手を染めてしまうように、曖昧に生きてしまうのである。宝(私達クリスチャンの特権)が、いかに理解されていても、心が伴わない場合は、重心とはならず、人生の重力とはならないわけである。心が世の中の快楽に在っては、頭でわかっている神の国に心あらずとなり、神の国を生きる事は難しくなる。今、一番に成されるべきは、礼拝において、真面目に神の言葉に応答して行く事である。
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「神の国を生きる」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/15 1:00
† 愛のいずる所。
  私達人間は「愛と自由」が大好きだ。ところがサタンも大好きなのである。サタンは「あなたの思い通りを欲し、愛せよ。それこそがまことの人間の自由である。」と言う。律法も戒めも関係なしなのだ。クリスチャン作家(曽野綾子)が書いていたが、こういった奔放破廉恥な、人間が小説の主人公にふさわしいそうだ。書き進む材料に事欠かないわけである。要するに人間は「それを望んでいる」のである。人間の愛と自由はサタンの思いと繋がっていると見るべきである。しかしまことの愛は「愛は神から出ているのです」1ヨハネ4・7)その特徴は「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」1ヨハネ5・2)神の愛は命令(戒め)を守ることで、神をも同胞(隣人)をも愛する。サタンの推奨する「愛と自由」とは本質が違う。神の愛は「神の潔さと神の義を伴う」ものである。あなたの愛と自由は、どういうものか?

† 神から生まれた国。
  神の国とは地形上の国ではない。キリストの再臨があるまでは実体は隠されている。 しかし、神の国は現実的に、勢力として現れている。神の国は初め、人間をとおして神との平和の中で築かれるものであったが、暗闇の王(サタン)の惑わしに依って人間は罪をおかし、神との平和を失い暗闇の王国の支配下に移された。主なる神はサタンと共に人間を永遠に滅ぼし尽くすことが出来たが、人間を憐れまれた。人間を含め、どんな被造物も「罪」を贖う事が出来ないゆえに、神ご自信が、聖さにも義にも完璧な方法として人間に成られて世に来られた。サタンのそしりを何一つ受ける事のない、神の愛の現れ、神の聖と義の現れが御子イエスなのである。神の国は今や主なる神によって生まれ、十字架と復活をとおして私達の所にきている。神の国は主なる神の聖と義を貫いている愛が生みだすものである。その故に「私たちが神を愛してその命令を守る」 ことが喜びとして伴うのである。
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