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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「教会イノベーション」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/14 1:00
 † 現状の見直しから。
    innovationとは、物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい 捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)とある。プロテスタント150年の教会をかえりみて、一番大切なことは「日本の宣教」である。海外に宣教師を送り出すことによって、日本の宣教が増大するならば、それを進めよう。宣教師を送り出した教会と団体が宣教に燃える限りそれは正解である。日本にもそのような教会があると思う。ただ教会とは、もともと地域に置かれたものであり、その地域の滅びにある人々を福音に導くためにある。当然今までの宣教が続けられることだが、今までにない切り口を見いだしたい。今ある交わりに増し加えてゆくものを持ちたい。2018年こそ霊的なイノベーションが起こされる必要がある。私達の教会は「一人の救いのためになんでもする」という所から新しい発想が生みだされてきた。この理念は変わらないが同じ在り方、やり方を刷新して行こう。世も人も変化を続けているからだ。私達ビンヤードの群れは「宣教のかたち」を限定しない。どんな変わったアイデアでも魂の救いのためならば認められる。今までの良かったことに安住せず、絶えず新しさを増し加えて行かなければならないのだ。

 † 絶えず進行形。
   私達の生活はいつも前に向かって進められている。子供の成長に伴うように家族が形成される。親たちも子供を成長させながら自らも成長している。子供達が自立し、それぞれ家庭を持つに至っても、なお進行形で人生は完成に向かって進み続ける。例えば、海から産卵のため川を遡(サカノボ)る鮭のように最後までの進行形がある。人間の場合は動物的な死を持って終わるのではない。私達の創造者であり愛の父である神の懐に帰り憩うことである。このように進行形の人生には何一つ無駄となるものがない。私達の進行の途上には良いことばかりではない、肉体的試練、精神的試練、天災的試練、経済的試練、人間関係的試練もある。今、生かされているならば、これからの進行形の人生のためなのだ。幸いな進行形の人生を願い求めるのであるならば、詩編第1篇を深く吟味して受け止めよう。そこでは「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」そして、その人は「何をしても栄える」と、信仰による進行形の勝利と繁栄を約束されている。
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「信頼する勇気」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/1/7 1:00
 † 空虚を埋める御言葉。
   長年牧師をしていれば、多くを学び、信仰に精通してるように見られても仕方がない。信仰は「所与」( 与えられること。与えられるもの)ではあるが、元々、私達のうちにあるものではない。言葉を代えて言うならば、常に日々100%の信仰が充満しているのではない。わたしの場合、毎日神のメッセージが必要である。わたしは受け取る器であって、毎日霊的励ましを必要としている。聖書に「土の器」について書いてある。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)古代には素焼の土の器に、高価な宝石が載せられたという。土の器には所与としての宝石は与えられてはいないように、私達クリスチャンも、その都度、日々に恵みを与えられて存在するのである。私達は日々に、空の器であり、土の器なのである。霊的高慢とは自分が空ぽである事、壊れやすい土の器であることを思わず、十全な者のように振る舞うことである。「幸いな人」は、一日中、神の言葉を喜びとし、口ずさんでいる。詩1・2)これは、演技としてのパフォーマンスでは決してない。空っぽでしかない私達が御言葉を思い巡らし、宇宙創造の神の偉大な恵みに感謝し、喜び、心満たされる大切な務めなのである。しかも生命が増大し、その人は繁栄するのだ。

 † 大胆な信頼。
   島津斉彬(シマズナリアキラ)は、日本の近代史を語る上で欠かせない人物である。下士仕官であった西郷隆盛をひきたて登用したのも斉彬であった。鹿児島にある斉彬の記念館を訪れたことがある。日本最初の製鉄反転炉を造り、鉄製の大砲を鋳造した。蒸気機関で動く艦船建造もペリー来航の2年後には建造していた。何よりも忠臣で才能があれば、身分に拘わらず多くを任せる信頼を与えた。マタイ25章のタラントの例え話にあるように、多くを与えられたしもべは多くを儲けたように、私達も実は多くを与えられている。主イエスの偉大な御業により、誰もが直接的に祝福の契約に結ばれている。そう感じて聖書を読む人は驚くだろう「こんな私で良いですか?」と、思わず口にしたくなる。「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」 ガラテヤ3・9)能力や、才能のあるなしに拘わらず、主なる神はアブラハムの祝福に繋がるようにされた。そして、あまたの人々がアブラハムの祝福を味わい、ますます主の御業を誉め称えている。主イエスは現代のあなたを神の国に登用し、神の栄光のために用いられる。喜んで神の選びに答えて進もう。主なる神に多くを与えるほどに祝福を受けるのである。
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「信頼する勇気」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/31 1:00
 † 今の姿に捕らわれない。
   キリスト教会にあって注目を集める教会がある。その主任牧師の子供時代は悲惨を極めた。両親は伝道者であり、赤貧に甘んじながらも熱心に福音を宣べ伝えた。しかし、子供として育つには辛いことだらけであった。学校の給食費を払えない。通学服はお古の継ぎはぎだらけだった。神の福音に生きる家族とはいえ、子供には惨めすぎた。彼は教会の神様と家族に恨みを持ったと言われる。そして少年は家庭で暴力を振るい、ある時は母親の髪の毛を掴んで部屋を引き釣り回したそうである。その時、母親は叫んだ「今のお前は本当のお前ではない。お前は大きな働きをする伝道者に成る」と、少年は怒りと憎しみに燃えていたが、母親の想定外な言葉が脳裏に残ったと言われる。母親の眼力とも言うべきか、主なる神の預言的な言葉だったのかもしれない。この傷ついた暴力少年は後に見事に大成され、日本における福音宣教の壁を打ち破る模範的な教会形成をされたのである。荒くれた原石のままに見るのではなく、その中に光り輝くダイヤモンドを見る。それこそが信頼する原点なのかと思う。

 † 新年の歩みを信頼する。
   明日は新年を迎えるが、私はこの12月喜寿をむかえ祝福を受けた。11月23日「ビンヤード・ミッション・センター」の奉献開所式が施行され、宗教施設として認可された。日本でも類を見ない多目的施設で、宣教、信徒の交わり、訓練のためのものである。年の終わりをこのような恵みのプレゼントで終えられるのは幸いだ。しかし、新しい年は主の恵みに答えて、私達が感謝を現す年である。私達の習性は恩義を忘れ、感謝に対する成すべき事をしない事である。「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」ルカ12・48)私達は、持つ事、与えられることの多いことを求めるが、それならば必ず、主なる神は多くを求められる。私達が忠実を示して神に返すならば、さらに多くを与えられ、多くを任されるのである。主なる神の前にごまかしは利かない。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」マラキ3・10)主なる神の祝福は、神を信頼して与えられる。忠実に献げ物(恩義)を忘れない新年にしょう。
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「信頼する勇気」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/24 1:00
 † 神の働きを見つめる。
   私達人間はいろいろな時を迎え、大きな節目を迎える。人間性にたいして長い目を持って見つめる必要がある。ある著名な牧師が話されたことだが「突然にして友人の息子が大変身をした」と言うものであった。鳴かず飛ばずのアテにできない、信仰があるのか、ないのかもわからないような生活をしていた男性が一変したのである。これを聞いて、むやみに人を判断してはならないと教えられた。人間のことをギリシャ語で「サルクス」というが、弱い人間性を言い表す。あるいは肉体を纏うため理性では制御できない欲情に支配された動物でもある。人間を信頼する事が牧師の務めであるに違いないが、その人のバックボーンとなる信念・信仰をみて信頼する。クリスチャンの場合その人の信仰の質に信頼の多くを依存しているのである。主なる神が、その人に働いておられるからである。同時に、その人が主なる神にどのようなスタンスを持って、神と交わりをしているかである。クリスチャンはその事によって信頼を勝ち取るのだ。人間性としては、それほどではなくても、主なる神が力強く御言葉を持って臨まれる時に、その人の魂が砕かれ主なる神を全面的に受け入れる時には、生まれつきの人性ではない、キリストの品性を纏うのである。その人が神の愛を信頼し生かされる結果である。

 † 迂路曲折こそ信頼を育てる。
   順境とは、多くの人が求める幸せの条件である。反対に逆境は願わしいことが巡ってこないことである。聖書は云う「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道者の書7・14)私が77才になって、わかることは、順風満帆の道にあった人々が、今は凋落してしまった現実を見。それとは違い羽振りの良くない人が、いつしか世の中で成功的な生活に変わっているの見る。世の中にあっては逆境に阻まれながら、苦労し努力し挫けないで歩み続けた人が信頼を積み上げたことを見るのである。霊的にも同じ事が言える。真実に神と対話を始めると良い。そうすれば、主なる神は成すべき事を示される。初めは易しそうだが、徐々に難しい局面に導かれる。それを克服するには自分との戦い、迂路曲折の中に追いやられる。表面的な歩みが取り払われ、キリストに従う事によってしか合格しない道に立たせられる。この戦いこそ重要である「わたしは・・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16・7)このようにして、神の評価の道を選んで信頼を得るのである。
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「信頼する勇気」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/17 1:00
 † 不服従を服従させる。
   結婚している人なら、良く理解してもらえると思う。年月が経ち子供達も家庭を持ち孫が与えられるようなころには、初々しい結婚生活とはかけ離れる。互いの考え方も、理解の仕方も、やり方も違ってくるからだ。日常生活の事柄では、とても私の常識ではあり得ないが、不承不承ながら妻の云う事に従うことにしている。例えば、今朝などは冷え込んで外の水おけには氷が張っているのだが,ベランダのさまざまな草木にたっぷり風呂の残り水をあげる。実は妻の確信に満ちた決定であって、私は不服従の心を隠して服従していたのである。この半信半疑を何年もつづけてわかってきたことがある。それによって草木は駄目にならないこと。プランターに植えられいる薔薇だが毎年見事な花を咲かせる。鉢植えのぶどうの木に今年は見事なぶどうの房が7個もついた。要するに、私の理解しがたい冬の水やりは、我が家においては正解なのである。諺に「馬には乗ってみよ」「人には添うて見よ」に通じるものがある。自分を従わせる勇気が、自分の理解を超えた祝福に繋がっているのである。

 † その人とその言葉。
   人との出合いが人生を決する。とよく言われる。私達は自分の置かれた環境によって出会う人々が定まる。さまざまな人との出合いのためには、環境の違う人々との交わりが必要になってくる。教会に集う事は最も幸いな出合いを与えてくれる場所である。誠実な人々が清らかな心を持って、神を力とし人生を積極的に生きている。その人やその言葉には真実に魂を動かす力がある。私は教会を知らなかったが書物を通して「その人とその言葉」に驚かされ、自分を恥じる心を与えられた。その一冊に「アンネの日記」がある。15才のアンネとその言葉には、私の知らない世界(神との関係)が色濃く感じられた。そうゆう出合いを通して、キリストにたどりついたように思う。当時、私と同じキリスト信徒だった友人が、私に内村鑑三の「ロマ書の研究(上下)」の単行本をくれた。そして「君は伝道者になれ」と云った。思いも及ばない事だったが潜在意識に矢が刺さったような痛みを感じた。もう一人の友人は高校生だったが献身し牧師になる事を決めていた。彼はどういうわけか「君も献身者の列に僕と一緒にいた」と言い張った。不思議だった。しかし後に、友人二人と私は伝道者になっていたのである。
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