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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「人の立つ位置」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/9 2:00
† 守られる花嫁。
  人間の在り方としてもっとも麗しく美しいのは、花婿と花嫁である。その完全形が聖書にある。キリストが花婿でキリストを信じた者が花嫁とされることである。花嫁は選ばれる立場にあるのが大方ではないだろうか?キリストの花嫁は次のように言われている。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。・・・・」ヨハネ15・16)任命の中には、世の光りとしての務めを果たすことが含まれているが、もっと偉大なのは「キリストの花嫁」に選ばれた事である。この地上にある限りキリストの花嫁として生きることが最大最高の位置であり続ける。この立位置を守る者は幸いである。なぜならば花婿キリストは花嫁をこよなく愛し、いかなる時にも守り通される。花嫁に不足があっても補い、花嫁に弱さや貧しさがあっても揺るぎない慈しみを注いで、寂しい思いを何一つさせられない。キリストの花嫁は永久に守り通されるのである。

† 私自身を克服する。
  人間の憂いとは、自分自身を克服できないことにある。生まれ持って身についてしまっている性格や気質が自分の煩いなのである。「艱難汝を玉とす」と言うような修行の場が、今や若者から取り去られている「人間は苦労・困難を乗り越えることによってりっぱな人物になる」と言われても、わざわざ患難の中に飛び込む人もいない。世の中の頭脳明晰な賢い人が立派とも言えない。頭の良い人が悪賢い犯罪を行っているからである。いずれにしても、全ての人が罪人なのである。「罪人とは道義的な本当の在るべき自分に到達できず絶えず挫折している常態」である。そのために日々苦悶するのが正常な人間(罪人)である。十字架の真の意味に触れたとき「私はそのようなお前のために十字架につけられた」という声が響いた。洗礼を受けて5年も経った頃である。これが、私自身を克服する立位置となり、今もその真理の自由を喜び、金銀に勝る宝となったのである。
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「人の立つ位置」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/12/2 1:00
† 変化に動ぜず。
  この頃の気象の変化に気づかない人はいない。平成の終わりの年だが、関東では11月中に冬一番がなかった。通年だと11月には必ず寒波が来た。また、危機的な世界に気づかない人もいない。世の中が悪くなり、国際関係が複雑怪奇になっている。聖書が終わりの時代の世界について預言している通りだと気がつく。問題なのは気づかれることなく大きな変化を遂げている霊的な世界である。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」マタイ11・12)特に「私達の今」天の御国を奪っているのは、神に敵対する闇の力(サタンの勢力である。クリスチャンは自分の救いに安住し神の国を奪う使命を忘れている。クリスチャンの立ち位置は、神の御国(神の統治と力)を「切に」求め、祈り証詞する所にある。自己本位な終わりの時代の風潮に動ぜず、神の国を奪い取る祈りと行動の信仰を熱心に求めよう。

† 理に適うために。
  「流水腐らす、戸枢(コスウ)むしばざるは、動けばなり。形も気もまた然り」 (呂氏[リョウシ]春秋)B.C.200頃。「水は流れていれば腐らず、滞れば虫が湧いて腐る。扉は良く動いているからこそ錆びたりがたついたりすることはない。形あるものはもちろん、形のない気も同じである」これが東洋医学の基本理念である。人間の身体の血液の循環の不均衡(フキンコウ)が病気の原因であると言うわけだ。60兆個の細胞に酵素と栄養を送り届けるのが血液であり、血流が不均衡ならば、弱りが始まり病(不具合)が生まれる。私達の身体には地球を二回り半に及ぶ毛細血管があり血流をよくしてあげることが大切だ。人間の霊(気)も同じである。神の恵みを受け入れ、神の恵みを人に与えて行くならば、霊性が維持され霊的な腐敗から守られる。しかし、与えられることのみ求め、与える活動をしなければ死海のように霊的死を招く。霊的不活性は生活習慣病であり動脈硬化と同じく危険である。
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「人の立つ位置」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/25 1:00
† 頼るべきか頼らざるべきか?
  先日フランス映画を見た。実在した女性の尊厳死を扱ったもので、とても良く撮られていた。息子と娘のそれぞれの葛藤が中心になっている。人間は老衰するという事と自分で自分を見切れなくなると言う事が現実なのである。いつしか紙おむつをしなければならない時が来て、一人で風呂に浸かることが出来なくなる。日本人も百才まで生きる時代が到来している事を考えると老後は真面目な問題である。聖書をみるとアブラハム、イサク、ヤコブは苦労は多いものの長寿をまっとうし平安の中に天に召されている。しかし、その背後には家族や一族が支えている。イサクは目がかすんで見えない状態であった。現代では認知症やさまざまな病が伴う事が多い。しかし、どんな事があってもクリスチャンは尊厳死(自殺)を求めてはいけない。主なる神に感謝しキリストを喜びとし聖霊によって御言葉の中に生きる事である。私達の頼るべきは、主なる神を信頼する生き方だと確信する。

† 隠し通せる?
  「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8・17)人間の世界では隠しとおせるものが多く在るに違いない。自分の代わりに誰かが間違って犯人にされ刑務所に行く事も、自分のごまかしが誰にも気づかれずに葬られたことも、怠けたことも、手抜きしたことも誰にも気付かれることもなく終わってきた。そうゆう生き方を賢い生き方だと言う人もいる。しかしこの世の正義も働いている、冤罪の再審、構造計算の偽装、企業の粉飾決算、品質の偽装計算、税制上のごまかし等に摘発が起こっている。このような闇の世界にキリストが世の光りとして来られたのである。光りは暗闇の業を明るみに引き出す。まず私達の品性を照らされる、次に金銭(持ち物)の管理を照らされる。キリストの花嫁としての基準があるからだ。主なる神に隠しとおせるものなどない。光りの子は光りの中にいることを喜ぶ、主なる神に知られることを喜ぶ、これが私達である。光りの子どもとしての位置となる。
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「人の立つ位置」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/18 8:40
† 驚き感動する。
  生きて行くという事は、驚きを発見し感動することである。私達人間はさまざまな事柄に驚かされて目が開かれて行く動物である。驚くこともなくなったら成長は終わったのである。感動することもなくなったら生気を失っているのである。「真理とは驚きである」と、偉大な神学者や神の人達は一様にことばに出している。それほどに聖書の神は真理を掲示して私達を驚かせる。それは人生の感動となり失われることがない。偉大な学位がある神学者、牧師であっても、その人生に真理の驚きが希薄で感動も少ないなら、その言葉も溢れでる生命も漲(ミナギ)る力を持たないのである。この感動や驚きが与えられるのは、私達の誠実な探究に対して、祈り求める事に対しての神の啓示であり答なのである。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)主なる神は、この後も私達を驚かせてくださり感動を与え続けられるのである。

† 生きる道と生命を選ぶ?
  生命は幾つあるのか? 言うまでも無く一つである。しかし、人の生きる道はさまざまで幾万幾億とあるわけである。そうなると生命もそれに伴っている様な錯覚をする。自然の成り行きで生きるにしても、自分で望んで生きるにしても、生きて行く道は人間が造り出して行けるのである。しかし生命(魂)は別物である。私達の生命(魂)は神の創造物であり神に帰するのだ。人間の生命は神の指示に伴って在るのだ。「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」 エペソ1・4-5)これは聖書の独善ではない。主イエスがこの世に来られ十字架に死なれ墓から復活をされたことによって、私達の生命が神の子たる身分を授かるのである。それが人間万民の生命の立ち位置なのである。
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「人の立つ位置」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/11/11 1:00
† 清さの道に立つ。
  清い心を持って立つとはどう言うことか? ある時まではとても清らかな心を持って過ごしていた。しかし、ある時からそうではなくなった。そういう経過を持っている人は少なくない。清い心で立ち続けると多くの悲しみを耐えなくてはならない。何故ならば、悪辣横柄な手段を用いる者達に先んじられ、馬鹿にされ、奪われたりするからである。その苦しみと、堪え難き悔しさは、純真である事を止める引き金にもなる。「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」詩73・13-14)3節には「これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」とある。神を恐れて純粋であろうとする心は揺さぶられるのだ。損くじを引いている「愚か者」とさえ思われる。しかし、次のようになる。「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる」詩73・17-18)神を恐れる清い心が勝利者の立位置なのである。

† 何をしても栄える人。
  そうなりたいならば、至極簡単である。二つのことを行えば良い。一つは「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」詩1・1)二つ目は「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 詩1・2)である。重要な事は、これは掌(テノヒラ)の両面の関係である事だ。一方だけでは、あくまでも半分でしかない。「・・・・に歩まず。・・・・に立たず。・・・・に着かない。」を徹底することである。その決意を実行する事である。これが曖昧なら、二つ目の「・・・・主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 を実行しても、「何をしても栄える人」とはならない。いかに聖書を知り尽くしても、主への奉仕が出来ていても、心と口唇をしっかり引き締めて管理しないと潤いのない木のように実を結べない。ならば何をしても栄える人の道に立とう。
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