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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「信頼する勇気」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/17 1:00
 † 不服従を服従させる。
   結婚している人なら、良く理解してもらえると思う。年月が経ち子供達も家庭を持ち孫が与えられるようなころには、初々しい結婚生活とはかけ離れる。互いの考え方も、理解の仕方も、やり方も違ってくるからだ。日常生活の事柄では、とても私の常識ではあり得ないが、不承不承ながら妻の云う事に従うことにしている。例えば、今朝などは冷え込んで外の水おけには氷が張っているのだが,ベランダのさまざまな草木にたっぷり風呂の残り水をあげる。実は妻の確信に満ちた決定であって、私は不服従の心を隠して服従していたのである。この半信半疑を何年もつづけてわかってきたことがある。それによって草木は駄目にならないこと。プランターに植えられいる薔薇だが毎年見事な花を咲かせる。鉢植えのぶどうの木に今年は見事なぶどうの房が7個もついた。要するに、私の理解しがたい冬の水やりは、我が家においては正解なのである。諺に「馬には乗ってみよ」「人には添うて見よ」に通じるものがある。自分を従わせる勇気が、自分の理解を超えた祝福に繋がっているのである。

 † その人とその言葉。
   人との出合いが人生を決する。とよく言われる。私達は自分の置かれた環境によって出会う人々が定まる。さまざまな人との出合いのためには、環境の違う人々との交わりが必要になってくる。教会に集う事は最も幸いな出合いを与えてくれる場所である。誠実な人々が清らかな心を持って、神を力とし人生を積極的に生きている。その人やその言葉には真実に魂を動かす力がある。私は教会を知らなかったが書物を通して「その人とその言葉」に驚かされ、自分を恥じる心を与えられた。その一冊に「アンネの日記」がある。15才のアンネとその言葉には、私の知らない世界(神との関係)が色濃く感じられた。そうゆう出合いを通して、キリストにたどりついたように思う。当時、私と同じキリスト信徒だった友人が、私に内村鑑三の「ロマ書の研究(上下)」の単行本をくれた。そして「君は伝道者になれ」と云った。思いも及ばない事だったが潜在意識に矢が刺さったような痛みを感じた。もう一人の友人は高校生だったが献身し牧師になる事を決めていた。彼はどういうわけか「君も献身者の列に僕と一緒にいた」と言い張った。不思議だった。しかし後に、友人二人と私は伝道者になっていたのである。
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「信頼する勇気」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/10 1:00
 † 馬鹿の一つ覚え。
   愚かな者は一つの事だけを覚え、それをどんな場合にも得意になって持ち出す。という意味が馬鹿の一つ覚えだとある。よくよく考えてみると、私の事ではないかと気がついた。賢い人とは、どんなことにも多面的な考え方が出来て的確な判断をすることが出来るのだろう。ところが私の場合、とどのつまり「一つ覚え」に戻ってくる。「…どんなことでも、神にはできるのです」マルコ10・27)と、この御言葉がいつも私と共にあるので馬鹿の一つ覚えに違いないのである。このたび「ビンヤード・ミッション・センター」が出来上がったので、アドベント礼拝を行った。礼拝者一同がぐるりと堂内に環を描いてキャンドルを灯した時、思わぬことに気がついた。33年前の週報に掲げたビジョンの言葉であった「500人礼拝を目指し本年50人受洗」50人にも満たない礼拝者なのに、500人礼拝が目標だった。しばらくして、ある親しい牧師先生から「500人礼拝」とは、どういうものか知っていますか?と問われた。えっ、知りません。と答えた。私には「どんなことでも、神にはできるのです」が鳴り響いているだけであったのだ。しかし、このたび500人以上が集える会場の講壇に立ったことに気づいて、おののいた。主なる神は愚かな一つ覚えに、答えられたのではないかと。

 † 怒りの中には生きられない。
   怒り心頭に達する。ということに遭遇したことがある。クリスチャンになって5年も経った24才ごろだと思う。昭和の30年代の半ばでは、小規模の会社では休日が第一と第三日曜日で、それ以外の日曜日は午後からの礼拝を守るには会社に願い出て、午後から強引に休みをとらなければならなかった。集っていた教会は、若い姉妹たちが多く兄弟が少ないことから、宣教師から期待されていたこともあった。そのような一年を通して4月を迎えたとき、思わぬしっぺい返しをもらった。給料が1年前に減給となった。誰も味方になってくれる人もおらず「鬱憤(ウップン)やるかたなし」そのとき「絶対にこの恨みは忘れない」と心に誓った。悔しさと怒りは、まさに心頭に達したことは事実であった。全部の日曜日が休みとなる迄、日曜日は午後からの礼拝を守り通した。しかし、主を信頼する者が「怒り続けること」「恨み続けること」は、とても難しいことだと気がついた。怒らなければならない、恨まなければならないことを忘れてしまうのだ。悟ったことは、主イエス様の霊は、怒りや憎しみと同居できない霊であるということだ。この事件は思い出に留まり、貴重な私の霊的財産になったのである。
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「信頼する勇気」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/3 1:00
 † 真実な思いやりを。
   現代は自己申請の時代である。手続きを怠っていれば受けるべきものも受けられない。年金など間違ったまま受給していてもわからないままになりやすい。要するに誰かの申請が引き金になって、真実が明らかになってくるようなことが多い。そういう意味ではこの時代は間違いを認め、訂正され真実が行われる良い時代でもあると思う。聖書には「思いやり」ヘブル13・3)の重要性を勧める。人の気持ち、人の必要に対して順応し対応する所までを勧めている。される側とする側があるわけだが、それは人間だからそうすべきだと云うことが成り立てば一番良い。しかし、私達人間は利害関係に縛られているので上手く行かない。思いやりを他の人に申請するのもおこがましいが、切羽詰まれば、それもおかしくはないと思う。私達は自由の中にあるが、神の内にある者である。主なる神に促され、信頼して思いやるのである。特に神の家族に対して、身近な人々に対して信頼して、思いやりを現して行くならば、大きな信頼の環が生まれるだろう。

 †  まごころを持ち続ける。
   「まごころは通じる」と、ずーと信じ続けている。長い人生にあっては不評を買い、誤解をされ不本意のまま生き続けなければならないことがある。そういう時は凜として自分の真実を心に秘め、なお真実に生きることである。あえて釈明すると野暮なことに成りかねないことが多いからである。特に、主なる神に仕える者は心を主なる神に置いて沈黙を守るが良い。それが私のやって来たことである。真実は明らかになるし、真心は通じている事がわかってくる。十年も経つと真贋がわかってきて評価は一変してくる。時の趨勢(スウセイ)によって評価が変わるからだ。まごころを尽くしてやったことならば、たとえそれが批判されたり、排斥されたにしても自分のまごころ「主なる神への誠実」であったなら仕方のないことなのだ。自分を信頼して居るしかないのである。「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。・・・・」2コリ6・8)さまざまな人々の評価の中で、生抜く力は、信仰のまごころだと思う。
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「信頼する勇気」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/26 1:00
 † 良心の問題。
   私はそれほど騙されやすい人間ではないと思っている。しかし、結構騙されている。ある日系外国人が母国に家族を残して日本で二人の息子と共に働いているが、まともな稼ぎができず家族のもとに送金もできないと大勢の家族写真を見せる。必ずお返しするので、少しでも助けて欲しいてと言う。借用証書を書いてもらって、なけなしのポケットマネーを今回だけだと言って渡す。一ヵ月の間に2,3度顔を見せて息子達に自転車がいるというので中古の自転車をあげるなどする。しかし、一ヵ月後に顔を見せない。住んでいたところにはもう居ない。私は彼らを信頼したのだが、信頼に足る彼らではなかった。彼らは騙すつもりはなかったが、旨く行かず移動したのかもしれない。彼らを捕らえるため追跡捜査することはしなかった。見事に騙されたのだろう、しかし私は信頼したのだから、私の信頼した事に悔いはなかった。主イエスも愛弟子(ユダ)に信頼を裏切られるが、主イエスの信頼は完全であられた。その信頼は無益でもなく古びることもないのである。

 †  信仰は信頼が内容です。
   信仰とは、私にとって神が居るのか居ないのか、という探求から始まった。宣教師のメッセージを聞き、ますます疑問に思い確証を得たいと思った。自分の納得に重点をおいていたのが初期の信仰姿勢であった。青空を仰いで不思議に思った、どこまでも突き当たりがない事が理解できない。同じほどに神が重なってわからない。科学的、物理的な理解がなくして聖書の神が信じられるのか? しかし、こんな私に、こんな日本人に、また世界の人々に、主なる神は方法を持たれていることに導かれた(気付いた)。上記の様に私は人本的に神に迫っていたけれども、主なる神は、私の実存が何であるかを示された「あなたは人間として在るべき目標を求めているが、常に破綻し到達しない」この現実が「罪人」なのだ。と、そして「私は、そのようなあなたの欠け(罪)のために十字架に架けられた」と。私が欠け(罪)のない人間であるためには、絶えず主イエスの十字架が必要ということ。それは、常にいつも救い主イエスを信頼していること。それが私の永遠に生きる実存であることなのだ。信じるとは一回的なことではなく、信頼し続ける事である。
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「成長する人の痛み」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/19 1:00
 † 自分の痛みから学ぶ。
   私の人生は与えられた痛みから学んだことが多い。また受けるべきものを受けないことによっても学ぶべき事が多くあった。痛みという概念はマイナーに分類されやすいが決してそうではない。痛みには悲しみが伴うがとても重要である。本来人間は楽しみや喜びの中で重要な真理を学ぶ事が少ないようである。「知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く」伝7・4)「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」哀3・27)若い時(思春期・青年期)に辛い修行をさせられる事や、自分の思い通りではない世界にあって進んで生きる事でもある。キリストにあって経験する深い痛みや悲しみ、理不尽に耐えて神を愛せるならば、根のある人となり思想の深い豊かな人となる。主イエスの憐れみと慈しみが反映される人ともなる。人の痛みや悲しみを人ごととは思わない人となり、とりなしの祈りをする人となる。私の歩みの中で誇れるものはないが、主なる神に愛される者として、懲らしめの中を通らされ、痛みや悲しみを味わったことが、後に100倍の「実を結ぶ種」になったことは事実である。

 †  神の栄光に帰すること。
   これは決して痛みではないが、この世に自分をあらしめたいと思う時には痛みになる。私達はこの世に生きているので、人々の評価の中にもある。聖書は私達の人生の健全さを教えている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタ6・3)人間のなしえる最高の善を右手で行った、しかし、左手には知らせない。言葉を代えて言うならば「施し」という最高の善は、神の栄光のためであって、自分自身の栄誉のためではない。自己満足や世の中(人々)の評価から遠ざかる事を求めている。企業や大きな機構は大々的に寄付金や援助額を公表する。これは世の中に立って利益を得ているために貢献度を明確にする義務でもある。しかし、クリスチャンは一人一人が神に生かされているので、自分の内に起こる人々の評価を得ようとする功名心や欲求に、戸を閉じるのだ。聖書は言う「自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」マタ6・2)しかし、私達は天の報いが伴う神の栄光のために注意深く「左の手」に知らせることはしない。
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