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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「人生の技法」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/23 1:00
† 私の本当の自立。
  社会人として一人前である。それが私達大人の自負ではないだろうか? それが世の中に生きるための重要な建前である。当然であるという憲法の保証もある。それだから私は自立した人間として振る舞えるのだ。しかし、本当の自立とは何か?を問われる。神を知らない人と知った人では違ってくる。神の戒め(律法)を受け入れて生きるなら、たちまち自らの罪深さや不誠実があらわになる。重荷にあえぎ、自分の良さよりも多くの欠点と愚かさが見えてくる。このように自立していない本当の自分が存在しているのである。どうして、こんな自分を愛せるのだろうか? 白(シラ)を切って傲慢に生きるしかないのか?この人間の難問に答える技法が「神の愛」である。神が言われる「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43・4)と、キリストの十字架の贖いで無条件に「彼ら(私達を)私(神)の喜びとし」エレミヤ32・41)て下さった。私には自立する術がないのに、神の愛の中に完全に私を自立させた。まさに最大の「人生の技法」なのである。

† 別れ出て行くこと。
  別かれる事にも色々ある。小学5年生の時、最も仲良しのM君が県外の遠くに引っ越した。列車が消えゆくまで涙を流して別れを惜しんだ。こういった別かれ、出て行くことはごく普通に起こる。もう一つの特長は意識的な分離である。神に選びだされると、おのずと知らされる。世の中では当たり前の遊びや楽しみが、主イエスを信じて生きる身には罪であり汚れであり悪となる。と言う事だ。罪を罪とも思わない人との付き合いを遠ざけること。金銭や物質に対する考え方に大きな距たりが生まれること。主なる神に什一を捧げる信仰が金銭感覚の第一になる事。愛する事においても神を愛する事が優先される生き方と、世的な快楽や喜びとの違いなどだ。19歳でクリスチャンになって、家族との問題は、私が世捨て人のように見られ、薄情だと見られた事だ。誰でも神がおられ聖書は真実であり、キリストは唯一の救い主だと受け入れる人なら勇敢に分離し、出て行くことは難しくない。分離し出て行くことで、主なる神の真実と祝福が豊かに伴っているからだ。家族はあなたの信仰の生活を見て安心し、尊敬するようになるのである。
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「人生の技法」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/16 1:00
† 生きる技法。
  「技法」とは、技能をある目的を達成するために最適化された手順で活用すること。これこそが私達の信仰の内容ではないかと思う。まず技能が無くては技法には繋がらない事になる。福音は主イエスがもたらしたものであり、神の主体的な働き(技能)なのである。これが聖書の大前提であり、このような神の技法は、主イエスのもたらした福音(最適化された手段)を通して私達を悪と罪の世界から救い出し、新しく生かして下さる事になった。誰でも主イエスに救われた者は、主イエスを救い主(メシヤ)と告白する。人生というテーマを掲げる以上、絶対にナザレ人イエスの福音を抜きにして考える事も、語る事もしてはならないのである。未信者で無神論者であっても「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11)ので、人間はこの世界に人間以上の厳かな存在に引きよせられるのである。しかし神の技法(イエスの福音)を無視する生き方は「愚か者」詩14・1)に墮するので注意。

† 目的にむかって。
「働く」とは「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」 2テサ3・10)働くことは食べる(生きる)ことと結ばれている。クリスチャンは神の栄光のために存在する目的で生きている。聖書は怠惰(働きたくない)を強く戒め、新しくなった人が勤勉で誠実である事を勧めた。働くということには目的を伴っている、生きる(衣食住)を成り立たせる。では目的とは、それだけのためなのか?そうではない、それだけを目的にして働くことは滅びる者と同じである。私達の働くこと自体が神の栄光のためであり、神を讃える礼拝が伴っているのである。自らの技能を最善を尽くして活用する時、神を具体的に讃えているのである。それが勤勉ということである。その働きは居食住のみのためではない、神の恵みに委ね感謝している自らの人生を、身近な人々に証詞して行くこと、隣人に仕えて行く事が、あなたの優れた神からの「技法」である。
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「努力のしがい」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/9 1:00
† 生きる力。
  わたしの身体のことを考えても不思議になる。わたしの意識とは関係なく、体内では60兆個の細胞によって活動が行われている。彼らは不眠不休の努力をしているのではないだろうか?わたしは眠りを必要とするが、なぜ人間(哺乳類)は眠りを必要とするか科学的な解明はまだないそうである。たぶん、脳に休息が必要なのではないか?という答である。私達は努力に疲れる。努力の要求には嫌気がさす。人間は「のべつ幕無し」(幕の下りない芝居)の努力には耐えられないのではないか?発明王エジソンは、万を超す失敗にもめげないで、努力した。と聞くが、万人に共通する事例とはならない。努力に挫けやすい私を励ますには役に立つ。さて、努力を継続するためには息抜きも必要なのである。自分の仕事から離れて完全休暇を取ることは欧米では当たり前になっている。2ヶ月以上も職場を離れても、必ずポストに戻れるようになっている。キリスト教的背景のある国々では、人間の休暇を重要視する。新しいエネルギーを回復し、さらに努力するためだ。

† 兄弟愛に愛を。
「 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」Ⅱペテロ1・7)家族の中の兄弟とは、どんなものか?二十代の頃、仕事上で知った家族の兄弟愛だが、1960年代は多くの人が家を建てた。その一家には4人の兄弟がいて、その家族では兄弟が協力し合って、次々と4人とも住居を建設された。この方々の家を建てた会社の中でも、この一家の兄弟愛は語り継がれることになった。一般的な世の中では「兄弟は他人の始まり」 という。親子の縁は切れないが、兄弟は利害関係や結婚などによって、互いの情愛も薄れて他人のようになる、というわけである。聖書の兄弟愛とは、キリストの血による血縁関係である。互いに信仰があり、その理解があっての兄弟姉妹なのである。神を畏れる者同士が兄弟であり、神の愛が主導している兄弟の仲となる。神に造られた人間が、兄弟愛に結ばれるので平和が生まれる。それに、なお愛を加えよと、これが最終の勧めである。損得無き神の愛を持って愛せる者になるべきなのだ。「・・・・あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」 Ⅱペテロ1・8)
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「努力のしがい」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/2 1:00
† 万事を益とされる目的。
  私達は結局全てについて、努力なしでは生きられないのではないかと思う。ご高齢者の病室を訪れてわかるのは、介護の方によって食事を摂るのだが、口を開ける事もご本人においては、努力を要することなのだ。また、身を任せきることも、精神的に努力なしには出来なかったことである。長い人生を、あらゆる努力を求められて人間は生きている。では、最終的には何に集約されるのか、と言う事である。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」イザヤ61・10)このような御言葉が明らかに示すのは「主イエスの花嫁として、主イエスを喜ぶ」事だと思う。喜びが尽きない愛こそ、わたしの今と、終りの時にも伴う唯一のものである。そのために、全てをゆだね、努力をする。クリスチャンの人生は、キリストの恵みにより、万事を益とされるが、その究極の目的は、信仰により「主を喜び、楽しむ」ことに尽きるのである。そのゆえに、前向きな努力が生まれるのである。

† 忍耐には敬虔を。
  敬虔とは「信心深さ」のことでもある。敬虔なクリスチャンと言われることは、最高の称号を与えられた人々と同じである。「敬虔」が強調されることは、とても重要である。
真心から神を畏れる(神への畏敬がある)ことは、聖書が、キリストが、最も求めていることである。これには理由がある。人間は、神への畏敬を必然(所与)として持っていたが、悪魔の介入によって、人間は自ら、神のようになれると錯覚し、悪の思想を流し込まれてしまった。現在の人間は全て、恐らく、神のみを畏れる霊と精神を持ち合わせてはいない。主を信じた人に求められているのは、敬虔である。主なる神のみを畏れることである。信仰とは、神の賜物で、神を畏れに導き、神を信頼させるのである。信仰があると思うクリスチャンは、神を真心から崇め、神を畏れる「徳」を増し加えられることを祈り求めることである。敬虔なき信仰は、重みのない自らの内容を露呈してしまう事になる。
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「努力のしがい」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/26 1:00
† 健康は積み重ね。
  友人の近況報告の中に、すごいなと思わされた事が書いてあった。彼は大の野球好き人間で、岐阜県還暦野球古希部の美濃加茂市で監督をしている。彼も驚いたのは「他のチームに90歳で投手をやる怪物がいる」との事。正直すごいと思う。走ったり、歩いたりする運動には高齢者も多いと思う。野球では、走る、投げる、撃つ、捕る、という瞬時に判断する要素が要求される。それらを満たしておられることに感動する。多分、友人のように元旦からキャッチボールをして野球を楽しみ、一年間を野球三昧に過ごしておられる方だと思う。しかし、その努力の積み重ねで、健康である事は喜ばしい限りである。退職後を、健康に過ごすために、継続して出来るスポーツを始めたりする事は、後の健康を刈り取る事に繋がるだろう。肉体の健康と霊的健康は同じで、基礎練習を怠らないことと、向上を目指して学び、実践することだ。モーセは120歳でも「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」申命記4・7)積み重ねられた努力は、実として現れる。

† 忍耐という努力。
  神の与えた信仰は、人間の中に在って成熟して行くもので、信仰には勇気や力強さが要るのである。すると、信仰の力強さに加えられる知識をとおして確固たる人生の基盤となってくることは幸いである。主イエスは聖霊の助けを与えて私達に自制力を伴わせ、忍耐力を与えられる。人間の生活には忍耐を必然的に求められるように、信仰を伴って生きる私達には、キリストの持たれた忍耐がキリスト者の徳性として現される。また、私達の忍耐の根源は、主なる神が私達に最善を与えられたので、今後においても忍耐強く主なる神の真実を信頼して待ち望めるのである。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1・4)わたしの真実とは試される事によって、なお忍耐し信頼する所に現れ、その忍耐力は完全な者への道である。  
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