トップ  > 牧師の想い > 最新エントリー

牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「神の国を生きる」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/15 1:00
† 愛のいずる所。
  私達人間は「愛と自由」が大好きだ。ところがサタンも大好きなのである。サタンは「あなたの思い通りを欲し、愛せよ。それこそがまことの人間の自由である。」と言う。律法も戒めも関係なしなのだ。クリスチャン作家(曽野綾子)が書いていたが、こういった奔放破廉恥な、人間が小説の主人公にふさわしいそうだ。書き進む材料に事欠かないわけである。要するに人間は「それを望んでいる」のである。人間の愛と自由はサタンの思いと繋がっていると見るべきである。しかしまことの愛は「愛は神から出ているのです」1ヨハネ4・7)その特徴は「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」1ヨハネ5・2)神の愛は命令(戒め)を守ることで、神をも同胞(隣人)をも愛する。サタンの推奨する「愛と自由」とは本質が違う。神の愛は「神の潔さと神の義を伴う」ものである。あなたの愛と自由は、どういうものか?

† 神から生まれた国。
  神の国とは地形上の国ではない。キリストの再臨があるまでは実体は隠されている。 しかし、神の国は現実的に、勢力として現れている。神の国は初め、人間をとおして神との平和の中で築かれるものであったが、暗闇の王(サタン)の惑わしに依って人間は罪をおかし、神との平和を失い暗闇の王国の支配下に移された。主なる神はサタンと共に人間を永遠に滅ぼし尽くすことが出来たが、人間を憐れまれた。人間を含め、どんな被造物も「罪」を贖う事が出来ないゆえに、神ご自信が、聖さにも義にも完璧な方法として人間に成られて世に来られた。サタンのそしりを何一つ受ける事のない、神の愛の現れ、神の聖と義の現れが御子イエスなのである。神の国は今や主なる神によって生まれ、十字架と復活をとおして私達の所にきている。神の国は主なる神の聖と義を貫いている愛が生みだすものである。その故に「私たちが神を愛してその命令を守る」 ことが喜びとして伴うのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3)

「神の国を生きる」(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/8 1:00
† 豹の斑点。
   「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか」エレミヤ13・23) もし、できれば、悪行に慣れた人間でも、善を行うことができるだろう。豹は豹の習性を生きるように、私達クリスチャンにも、神が植え付ける習性がある。それは良い業・善い生活である。聖霊と力が私達のうちに創り出される幸いな生活「神の国」である。キリストを受け入れた人々に新しい習性を創りだし、持たせて下さるのは聖霊なる神である。人間の強い信仰によると言わない。聖書では、全てを完成させるのは神のお働きである。私達に聖霊が臨まれて力を受け、私達は誰もが「主イエスは救い主である」と証言し、生活をする者になる。私達に大切なことは「私がそうしたのではなく」主なる神が私を選んで、そうされるのである。良い業と善い生活の増大のために必要な事はただ一つ「信仰の創始者であり完成車であるイエスから目を話さない」ヘブル12・2)ことのみである。主イエスから目が離れると、祝福の神の国を見失ってしまうのだ。

† 相手がわかる事。
  絶対に勝てる相手ではないと言われていたコロンビアに、日本のサッカーは勝った。徹底的に敵の長所と短所を調べ上げ、対策(作戦)を練られたからだと思う。私達の教会もクリスチャン生活も同じことである。例えば「生あるものは死す」という日本人のみならず世界中の人が感覚的に受け入れている言葉だが、大きな間違いである。これは敵の言葉である。サタンは知っているのだ。「罪の支払う報酬は死である」ロマ6・23) 死は生ある者の自然ではない。不自然な罪の報酬(審きと刑罰)地獄である。このように人を騙し、世を操る敵(サタン)を調べて知るならば、サタンの策略を破って私達の良い業の働きを広めて行く事が出来る。ただ、言える事は敵であるサタンは、年を経た蛇であり、私達の抱える弱点を知り尽くしている。このままでは太刀打ちできない。しかし、主イエスを王として崇め、主なる神の戒めに従うなら、巨大な敵に勝ち得るのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (5)

「神の国を生きる」(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/1 1:00
† 神の国のヒーロー。
   いかにして、私の様な者が「神の国」を現せるのか? きっと、多くの真面目なクリスチャンが思っている事に違いない。私がそういう一人だからである。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」1テモ4・12)教会には「模範者(ヒーロー)」が居る事が望ましい。ところが開拓途上の教会で、そのような人が見当たらない事もある。ならばヒーローを捜すことだ。それは有名牧師のことではない。あなたの最も身近に感じるテモテのような模範者である。私は時々言うのだが、青年期に「アリョーシャ」を模範にしてクリスチャンを生きる事を求めた。彼はドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」に出てくる青年だが、私の信仰を支えるヒーローであった。ひどい環境の中でも、汚れた人間関係の中でも信仰を腐らせず歩み続け、神の国を離れなかったことは、アリョーシャを模範にし倣ったからだと思う。

† 誰のために働く?
  多くの現代人は、働くのは家族のため、会社のためであると言うに違いない。ある人は自分のため、稼ぐためと言うかもしれない。このことに間違いがあるはずがない。聖書は勤労に対して「・・・・「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた」2テサロニケ3・10)クリスチャンは能動的に働く者である。神の国が現れるのは、私達が主なる神の命令に聞き従うからだ。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)自分の勤労がクリスチャンであるがゆえに、神の国の枠内に置かれているということである。そういう信仰意識を持った勤務には神の栄光があり、神の国が現されているのだ。クリスチャンの勤労が、神への働きとなるところに、神の国があり栄光が現れる。主なる神のために喜んで仕事をする者となりたいものだ。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (35)

「神の国を生きる」(3)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/6/24 1:00
† 鳥瞰(チョウカン)的生き方。
  「鳥が上空から見下ろして見るように」全体を見渡す。こういう生き方が「神の国」を生きると言うことである。今時は人工衛星から、さらに広範囲に、さらに綿密に見ることが可能になっている。その見方で世界の出来事を見、歴史の中に普遍的に働く真理を見極めるなら、慌ただしい情報の波に流されないように生きる事が出来る。ある人々は情報にいち早く反応することが新しい生き方のように考える。しかし聖書は言う「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道者の書1・2)だからこそ、人生を揺るぎない真実の上に立たせるべきなのである。神の国とは、神が創設された永遠不変の真理に基づいた平和(秩序)であり、神の義と愛が生命の国である。人間(私達)が鳥のようになって高い空から、この世を見るならば、普遍の神の国が世界中に息づいていることが見られるのである。

† 人が変われば日本も変える。
   「塵も積もれば山となる」一人の人間を決して軽んじてはならない。聖書は断言する「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」マルコ8・36)その尊い一人の人が、神の国を生きる事によって、大きな影響力が流される。ネズミ一組みのカップルによって一年間に1,5000匹に増える。と言うのがねずみ算だが、まさに世界ではクリスチャンがそのように増えているところがある。福音そのもの、聖書の生命そのものを見続け、受け止められるところではリバイバルは起こる。その様なクリスチャンの一人の誕生が日本を変えて行くのである。都会であろうと、地方であろうと関係なく、そこに住むクリスチャンが、主なる神を崇め、心から感謝し、喜んで生きる。そして、全力を尽くして人々のために福音を学び、益々輝いて説得力を持つようになる。すると年月と共に日本は変えられて行く「細石(さざれいし)の巌となりて」神の国はまさに影響力である。 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (72)

「神の国を生きる」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/6/17 1:00
† ピンからキリまで。
 「初めから終わりまで」の幅広さが人間の持つ信仰ではなかろうか?「ピン」は一番を意味して最上という事らしい。「キリ」はポルトガル語のクロス(十字架)から来ていて、最後のもの、最低を意味するようになったそうだ。そういうわけだから信仰生活を最上の「ピン」にまで持って行きたいと思うわけである。神の国と言う概念は特別なことではなく、具体的なクリスチャンの生活として位置づけたい。信仰生活がピンからキリまであるように、同じく神の国の内容はピンからキリまである。聖書は「ピン(最上)」を目的として書かれている。そのメッセージを教会を通して聞いて受け入れているのが私達である。その実践の場が、日常の生活であり、世の中に生きることである。福音の内容が私達によって実践されるか、されないか、あるいは、その気があるのか、無いのかによって「ピンが生まれ、キリが生まれる」自分を最低のクリスチャンと思う事があっても、自らに目を留めず、主なる神の御業をたたえ、喜び感謝できるならば、上等の神の国が現されているのである。

† 日本の文化を切り崩す?
 日本人として、神の国を現す上で大切なことは何か、先日、講師が語ったことが面白かった。文化とは空気のように共通しているもので、日本人ならば常識的に同じようにしている事となる。さて、日本人の文化として受け入れている宗教行事(お盆や祭り法事など)の根底には、守り行わないと呪われる。祟(たた)りがある。という「恐れ」の縛りによって守られている事実を教えられた。また、世間体という日本人の「行わないと何か言われる」という文化も手伝う。こういう日本人文化の中でクリスチャンが共通生をどこに見つけるかが大事になる。一つは「教え」の科学的客観性にあると思う。無意識的に継承し受け入れている信仰が「小説(作り話)」 であるならば、教えがいかに優れていても真理ではない。聖書は自然科学を生み出し、科学と共存しているのが聖書の真理である。日本の若い世代に伝え、教えるべきは、科学性を伴っている真理の教えであると思う。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (112)
牧師の想いカレンダー
« « 2018 7月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 1 2 3 4
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top