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牧師の想い

牧師の想い - 最新エントリー

「良識の好奇心」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/5/20 1:00
 † 偏執した好奇心。
   偏執とは、片寄った考えを頑(かたく)なに守って他の意見に耳をかさないということである。いかにも病的と思える考えに捕らわれている人がいる。また色濃く世の中の影響に染まった考えに固執して耳をかさない人もいる。私が神学生の頃、関西に住む従兄弟(イトコ)から議論を仕掛けられたことがある。彼は大学生で「ニーチェ」の「ツァラトゥストラはかく語りき~神は死んだ~」を引いて挑んできたのだ。ニーチェの「超人思想」こそ真理であり現実的であると信じていた。それでユダヤ宗教とキリスト教の偽善性を突いて、信仰を「二束三文」に片付けてきた。当時の青年に浸透していた「ニヒリズム(虚無主義)」の答えとしてニーチェが存在していたと思う。私から見れば従兄弟(イトコ)こそ偏執した考えに染まっていると思えたし、彼は私を憐れな信仰に生きる偏執した男と見たのである。私はニーチェこそ時代の科学偏執に好奇心を持った唯物論者ではないかと思う。彼が「神は死んだ」と言う背景には、1900年代の科学の発展が神の無能を証明すると思われた時代だったからだ。ニーチェの「超人」とは、自分にとって「良い悪い」という価値観を生きることである。神の「善悪」を否定することである。さて、あなたの好奇心はどちらにある?

 † 心に留める良識。
   私の成長に欠かせないことは何か?と問われれば、「心に留める内容」と答えたい。聞く事、読むことにおいて「心に留めた」ことが、聖霊に導かれ、私を形成してきたからである。心に留めるものが、よろしくないものならば、私もそのような内容の人物となるだろう。 「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる」 箴20・12-13)また、そのとき理解できないフレーズが重要である。多くの人はその時に解らないと意に留めず棄て去ってしまう。言われて解らない事や、読んで解らない事は大切である。12歳になったイエスが行方不明となったが、神殿で学者達と論じておられた。マリヤは我が子イエスの不可解な行動とその言葉を「・・・・母(マリヤ)はこれらのことをみな、心に留めておいた」ルカ2・51)とある。乳房を持って育てたイエスが、神の独り子であると認識し信じるには、解らない事を「心に留めておく」事なくしては悟ることは不可能である。聖霊は「心に留められた」真理を理解させ、悟らせて下さるからである。私達は好奇心を持ち心に多くを留めるならば、聖霊のお働きは増大するだろう。
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「良識の好奇心」(4)

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執筆 : 
細江 和弥 2018/5/13 1:00
 † 使えるようにしたい。
   主イエスは私達を神の栄光のために「間に合う」(使える者)にしょうと働き続けておられる。「・・・・神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」 エペソ1・4)使える、間に合うのは技量(賜物)能力だと思いやすいが、主イエスは「聖く傷のない者」こそ、使い物になる者とされている。同27節「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」 と言われている。教会の見誤る原因は「使える者」を機能的に選ぶところに生まれる。そうではなく最大の好奇心を「聖いか?傷がないか?」に置くべきである。そこそこの能力や賜物があっても、聖くない結果から大きな痛みと損失が生まれる。教会は世のマネジメントとは根本において違うわけである。先日、廃棄されていたフラットスキャン機を「使える」物にした。15年ほど前のもので現在のOSでは機能しない代物である。WIN 10で機能させるには、あり得ない方法(神業)もどきが必要だが、それで見事「使える」ように変わった。機器や物は反抗しないので「使える」ものになる訳だ。私達への主なる神の好奇心は「誰が素直で従順か」にあるのである。

 † 今、世界の好奇心。
   ピョンチャン冬季オリンピックを契機として、にわかに朝鮮半島の非核化と和平が持ち上がってきた。米国の大統領が北朝鮮の主席代表とシンガポールで対談の用意があると報道している。世界が最も好奇心を焚きつけられている出来事である。当のアメリカ大統領は「自国第一主義」を掲げて、世界を向こうに回しても貫く構(カマエ)である。しかし、某国が毒ガス爆弾で民間人を殺傷するに及んでは、巡航ミサイルを使って二度にわたり攻撃を仕掛けた。人道的に断じて許し得ないと、世界にも君臨する姿勢も表明している。世界の保守主義傾向の流れは、二つの要因を持って生まれたと思っている。一つは9・11である。それまでアメリカは世界の警察官として民主々義と自由のために君臨していた。しかし、瞬時にして、自国優先主義となり、保守的な感情に染まった。もう一つはヨーロッパに押し寄せる難民のために犠牲を拒む、ポピュリズム(一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存の政治体制と対決する政治思想)が勝利している。私達の世界への好奇心は、その「流れの結果」何が起こるかである。
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「良識の好奇心」(3)

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執筆 : 
細江 和弥 2018/5/6 1:00
 † 世界の空を救った男。
   藤田哲也博士がその人で,アメリカ合衆国の気象学者。出身地は現在の北九州市小倉南区である。ダウンバースト(下降噴流)とトルネード(竜巻)の研究における世界的権威として知られ、その優れた業績から Mr. Tornado(ミスター・トルネード)、Dr. Tornado(竜巻博士)とも称される。学生のころに父と母を相次いで失い、弟と妹を見なければならない非常に貧しい境遇にあった。しかし、余りにも優秀な彼を支えようと現在の九州工業大学に学費援助で物理学に進ませた。彼は子弟のために、地理学教授の助手として働き、生活の糧を得た。彼は原爆直後の長崎の現状を克明に調査した。彼の気象学は独学であり奇抜な発想は専門家を驚かせた。彼は日本では注目されなかった自身の論文をアメリカ気象学会会長に送りつけたところ、大きな評価を得、ついには会長のいるシカゴ大学に渡る事になる。竜巻大国アメリカで彼は熱烈な好奇心を持って研究した。航空機事故多発の原因であったダウンバーストの実体を証明した。藤田スケール(トルネード階級表)は国際的な基準となり、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備されるようになった。彼が長崎の原爆に見た爆風による破壊の調査が彼にひらめきを与えた。と、彼の弁である。

 † 見て識る豊かさ。
   先月のことだが、ゴージャスなパスで、行き先がわからない「ミステリー・ツアー」に参加した。結局、和歌山の串本での一泊となった。子供の頃、口ずさんでいた「ここはは串本向かいは大島、仲を取り持つ巡航船・・・・」ここのことか、と感動した。今、紀伊大島には橋がかかっていて、そこにも行った。そこには、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難したトルコの軍艦エルトゥールル(500名以上の犠牲者を出した事件)の記念碑が建っていた。串本の人々が嵐の中必死に救援活動をした事が、トルコの国民に感動を与え、今日も友好関係が築かれている。実に、行って見るまでは私には記憶の外にあるような知識であった。しかし、見て識る事によって非常に興味深いものとなった。小さな日本だが景勝地が多く、民話や物語が満載している。この旅でもう一つの物語の現場に行った。「安珍清姫」で知られる道成寺である。子供の頃には村に立派な歌舞伎小屋があり毎年二度は歌舞伎が演じられた。その中に娘道成寺として演じられ、怨念により清姫が蛇に変身して釣り鐘に絡んで終演となる。歌舞伎は「手ぶり説教」で人間を諭す目的がある。旅によって違った場所に行けば、好奇心がかき立てられて豊かになる事は事実である。
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「良識の好奇心」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/29 1:00
 † 毎日を活かされる力。
   一日という単位が毎日になる。その毎日が一生となることを思えば毎日を、一日を  重んじなければならない事になってくる。ビクター・フランクル(精神科医)の心理学が一番福音的だと私には思えるが、その著作「夜と霧」に圧倒されない人はいないと思う。その中で「意味」と「人間の尊厳性」が、死の強制収容所の中で、過酷なその環境の中で実存し生きる力であった。ということを精神科医として発見した。強制収容所でのユダヤ人600万人の虐殺という現実の中でも、誇りを持ち、意味を見いだして生き続けた人たちが大勢いたのである。フランクルもその一人であった。いつガス室に送られるかわからない一日一日というものは、考えれば人生の縮図でもある。私達は死に向かって生きていることはまちがいのない事である。そこまで突き詰めなくても良いと思うが、毎日をいかに迎えるかを、信仰がありながら答を得ていないならば残念極まりないと思う。キリストはあなたの「意味」ではないのか?福音はあなたの「尊厳性」ではないのか?・・・・神の啓示と光りは、私達の好奇心を増し加え、活かされて行く力となるのである。

 † 進歩に気を馳せる。
男は新しいものに惹かれる性質を女性よりも過分に持っている。要するに新し好きなのである。私も過分にその傾向があり、何事にも新しいことに好奇心がわくのである。そのことによって全般的に物知りともなる良い面として働くこともある。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」ピリピ4・8)6回の「すべて」にたいして、新しい好奇心をもって対応することが、強く勧められている。世の中の機器の著しい進歩への好奇心だけではなく、世の人々の中に見られる幸いな出来事について、好奇心を常に持って「感謝と喜こび」に結びつけて行けといわれている。考えられることは、好奇心がある限り、前向きである。良識のある好奇心は生命力を増進させる力を持っているのだ。広大な宇宙の中に私達は虚しく浮遊しているのではない。福音は明確な生命の希望を与え、今を生きるための集中力と好奇心をいっぱいに与えてくれている。
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「良識の好奇心」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/4/22 1:00
 † 好奇心は善か?
   好奇心は成長に欠かせない要素である。しかし、永い年月の中で早熟な好奇心のために幸せな人としての道を外れてしまった人々を見た。子供が大人になりたいという願望を持ち、大人の世界に好奇の目を持つ事と同じように、誰にも想像力の働く好奇心は付きものである。そういった好奇心は生まれるものであって、どうしょうもない力を伴っている。それによって突き進んでしまう人がいる訳だ。私達人間の始祖であるアダとエバは非常に優れた精神を持って神に仕え、全てに満ち足りて幸せだった。善悪を知る木の実は、自分たちの良識を証明するシンボルとして誇りにも等しい存在だった。サタン(悪魔)はこの良識ある人間に「好奇心」をたきつけた。目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになれること、決して死ぬ事はない。と安全弁のように植え付けて、善悪を知る木の実を改めて見つめ直させた。すると「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」創3・6)そして、その実を取って食べた。好奇心は肝心な良識をくつがえし、滅びに至らせる力でもあると言うことだ。

 † 好奇の思いを神に。
   モーセは奇遇な生涯を与えられた人物である。彼は良識のためにエジプトの王子の身分から一転さすらい人となり、ミデアンに逃れて羊を飼う境遇へと突き進んだ。それから40年も経った頃、羊を見守ってシナイの荒野にいた。すると不思議な炎が柴の上にあり、柴は燃えていなかった。モーセは知識のある人物であり、それに驚いて近付いて見ようとした。好奇心がモーセを揺り動かしたのである。それこそが神の求めておられたことであった。そして、いまだ聞いたこともない、厳かな神の御声を聞くのである。モーセは震え上がり、見定める勇気も失ったと記されている。主なる神は、これまでのモーセの80年の体験や知識の見解をくつがえし、神主導の世界を体験させるのであった。人から教えられた神でも、理解でも無い、主なる神との直接的なシフト(世界観)が注ぎ込まれる事になった。直接的体験をした者でなくては知り得ない真実な現実を獲得したのである。これは今日でも変わりはなく「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7・7)ということである。好奇心旺盛な神の人は、主なる神の直接的な御業にふれ、御声を聞かされる。好奇心だけではなく、高潔な良識を持っ神に向かうのが良い。
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