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牧師の想い

牧師の想い - 201810のエントリ

「人生の技法」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/28 1:00
† 信じる如くなる人生。
  「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」マルコ11・24)これほどの技法はどこにもないはずだ。しかし、直ぐに反論の声が聞こえてくる。そんな甘い世界があるはずがない。この世界を見渡せば一目瞭然である。と、しかし聖書は堂々と「信じる」事は、その通りになる。と、勧めるのである。主なる神は私達の真実の幸いを知り尽くしておられる上で、語られているのである。「宝くじ5億円が当たると信じればそうなる」と言う類いが言われているわけではない。誰でも幸せになるのは、神の御業である愛(主イエスの贖い)の中に生きることであり、その幸せになる真実は計り知れない。私達が祈り求められるのは絶大な主なる神の愛の真実があるからである。御心にかなう祈りは信じる如くなるのである。忘れて成らないことは、主なる神があなたに与える幸せに関して、不誠実な事は何一つないのである。

† 騙されない人生。
  あなたの人生が終局において「騙されていた」と知るほど悲惨なものはない。長い人生の梯子を登り切ったその頂上に何もない。褒美もなければ、得られるものもない。単なる無でもない、厳かな主なる神の声が響く「なぜ、私の与えた梯子を昇らなかったのか?」そして愕然とするのである。頂上から下る道は永遠の滅びに直行しているからである。世の中には、あまたの道(梯子)が用意されている。そして多くの人が自分好みの登りやすい梯子を喜喜として登って行くのである。聖書はその様を「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3・19)主イエスも「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」マタイ7・13)と警告された。人間の知恵は上(神)からの知恵とは違い、自分が本位にあるので罪深く的外れの道を行く。しかし主イエスを信じるなら天に繋がる梯子を昇ることである。大きな報いと永遠の生命が待ち構えている。
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「人生の技法」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/21 1:00
† 人の褌(ふんどし)で相撲を取る。
  いかにも痛快なのが「自分の」ではなく「人の」ふんどしなのである。相撲でいう「三ゆいの回し」である。今盛んにになった将棋だが、桂馬が同時に二つを取りゆく手が盤上で丁の字形になることから、ふんどしとも言う。さて、主イエスを信じて神の中に生かされることが、とても痛快なのである。世の中では持っている者と持たない者、苦労の無い者と苦労している者、強い者と弱い者がそれぞれ存在する。あたかも目に見える様に実感するのではないか?しかし、キリストにあるならば、私達はたとえどのようであろうとも不幸にならず不満に生きる事が無いのだ。それは主なる神が力強く戦って下さるので、向かう敵無しの横綱のふんどしの中にいるようなものなのだ。私達への尊い契約が私達の保証である。また、主の十字架の御業は私達を神の財産の相続人として輝かせる。私達は朽ちない偉大な財産を受け継いでいる。私達は小さな者だが、最も偉大な神の人と同じように愛されているのである。これが本当なので、このような喜び方(相撲)が出来る。私の力(ふんどし)によるのではない。主イエスの愛の帯(゠ふんどし)コロサイ3・14)の力なのである。

† 血に逃れる。
  言うまでもなく主イエスの血潮のことである。神の技法の中心は「血」をさしおいて語る事は出来ないであろう。主イエスの血潮は人類が存続する限り、父なる神は一人一人に振り掛ける事を願っておられる。何十億という現在の人間がそれぞれ主イエスの血潮を注がれて潔められ、罪の縄目から解放されるためである。十字架に力があるのではなく、主イエスの血潮に力があるのである。罪自覚し、その滅びから救われたいと願うならば「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」マタイ3・3)そうすれば主イエスの血潮が罪を潔め刑罰から救い出して下るのである。結局、私達人間は死んでゆくものであり、神の公正な裁きの座に出て裁きを受けなければならない。漠然とした信仰生活もあるだろうし、奉仕に明け暮れた信仰生活を送る人もいるだろう。とどのつまり(いきつくところ)キリストの血潮の中を生きたかが問われるのだ。人間の功績など、キリストの血潮と比ぶる事などあり得ない。だとすれば残された人生をキリストの血潮の中に浸して、神の御心に服して生きるのが、最も賢い人とされるのではないだろうか?
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「人生の技法」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/14 1:00
† 何もかも出てくる。
  聖書の中でも興味深い記事の一つは「もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい」レビ13・12,13)である。腫れ物が全身を覆うことと、生肉が白く変わった場合に「きよい」とされた。幸いな人を聖書は定義する「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩32・2)しかし、咎を隠し、罪を告白しない時「・・・・御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩32・4、5)幸いな人となるために必要な事は、罪、咎を何もかも洗いざらい、さらけ出す事に尽きる。あたかも全身に吹き出物が現れるように,そうすれば「きよい者」と、主は宣言されであろう。

† とにかく繋がっている。
   ブドウの木はキリストで私達はその枝である。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15・5)私達の問題は枝に繋がっている確信を何においているかと言う事である。主を信じている、祈っている、御言葉を学んでいる、と言うような感覚であるかも知れない。あるいは礼拝を守り、月々に什一献金を捧げている、と言うことかも知れない。これら全ては大切な繋がりの意味と内容を持っている。さて、主イエスが繋がるという技法をここで宣べておられる。第一、父が私を愛された様に私もあなたがたを愛しました。私の愛の中に留まりなさい。15・9)第二、その愛というのは私の誡めを守る事だ、私が父の誡めを守って父の愛に留まってるのと同じなのだ。15・10)第三、キリストに繋がっている証拠は、私達が「誡めを守って互いに愛し合っていること」 なのである。現在進行形で繋がり続けるために、主の教えを最善とする者でありたい。
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「人生の技法」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/10/7 1:00
† 身を避けて生きる。
   何事にも守られて生きる秘訣は何か? 聖書は「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます」詩編36・7)と言っている。「御翼」とは、具体的な守りの覆いである。主イエスが語られた「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」ルカ13・34)主なる神が「めんどりのように私達をかばわれる」のである。私達に対する主イエスの嘆きは「御翼の陰」に身を避ける事をしないで、自分を健康なクリスチャンだと思い込んでいることだ。人間であるということを世の中の尺度(基準)で計れば、何かに身を避けるべき落ち度など無いと思い込む。しかし、とんでもないことである。あの偉大なダビデが、なぜに神の御翼の陰に身を避けるのか?それは絶大な神の恵みを震えおののくほどに知っていたからだ。神の恵みがわからないなら、神の偉大さもわからない。神の偉大な御翼の陰に身を避けることができれば、最高の技法を身につけていると言えるのである。

† 私が、聖なる者?
   宣教師に導かれ信仰生活が始まった。私が信仰をどの様に感じ取っていたかと言えば罪との決別であり、潔い生活をする事であった。19歳からの私に課せられた信仰の質でもあった。「聖なる」事に対する「汚れ・罪」は実際的な生活の中で具体的であり内面的な戦いで、まさに私自身が「戦場」であった。神の恵みがなければ自滅すると感した。クリスチャンが私以外に見当たらない四面楚歌(シメンソカ)の環境でもあった。必死に信仰を保ち続け、努力を惜しまないでいた。しかし、自分では気がつかないで、自分を追い込んでいたと思う。必死に求めている。しかし、信じる如くになっていない自分に失望した。遂に、その時がきた「私は信仰を守り続け、主に従う能力が無い」事に愕然としたのである。入信5年目くらいの時だった。主イエスの前に打ち砕かれて告白した「もう私は駄目です」と。しかし驚くべき事に、主イエスは、それを待ち構えていたように圧倒的な恵みで覆われた。聖なる者でもない私に、神の愛が押し寄せる波のように注ぎ込ん来たのである。主なる神のなさる事(技法)で信仰の歓喜を与えられたのである。
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