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牧師の想い

牧師の想い - 20180902のエントリ

「努力のしがい」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/9/2 1:00
† 万事を益とされる目的。
  私達は結局全てについて、努力なしでは生きられないのではないかと思う。ご高齢者の病室を訪れてわかるのは、介護の方によって食事を摂るのだが、口を開ける事もご本人においては、努力を要することなのだ。また、身を任せきることも、精神的に努力なしには出来なかったことである。長い人生を、あらゆる努力を求められて人間は生きている。では、最終的には何に集約されるのか、と言う事である。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」イザヤ61・10)このような御言葉が明らかに示すのは「主イエスの花嫁として、主イエスを喜ぶ」事だと思う。喜びが尽きない愛こそ、わたしの今と、終りの時にも伴う唯一のものである。そのために、全てをゆだね、努力をする。クリスチャンの人生は、キリストの恵みにより、万事を益とされるが、その究極の目的は、信仰により「主を喜び、楽しむ」ことに尽きるのである。そのゆえに、前向きな努力が生まれるのである。

† 忍耐には敬虔を。
  敬虔とは「信心深さ」のことでもある。敬虔なクリスチャンと言われることは、最高の称号を与えられた人々と同じである。「敬虔」が強調されることは、とても重要である。
真心から神を畏れる(神への畏敬がある)ことは、聖書が、キリストが、最も求めていることである。これには理由がある。人間は、神への畏敬を必然(所与)として持っていたが、悪魔の介入によって、人間は自ら、神のようになれると錯覚し、悪の思想を流し込まれてしまった。現在の人間は全て、恐らく、神のみを畏れる霊と精神を持ち合わせてはいない。主を信じた人に求められているのは、敬虔である。主なる神のみを畏れることである。信仰とは、神の賜物で、神を畏れに導き、神を信頼させるのである。信仰があると思うクリスチャンは、神を真心から崇め、神を畏れる「徳」を増し加えられることを祈り求めることである。敬虔なき信仰は、重みのない自らの内容を露呈してしまう事になる。
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