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牧師の想い

牧師の想い - 20180805のエントリ

「努力のしがい」(2)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/8/5 2:00
† あらゆる努力。
私達人間の特質は、目的のためには努力できることである。夏の高校野球出場校は、地方大会優勝を目指して努力をした結果である。球児の熾烈(シレツ)な努力には頭が下がる。心技体を鍛えられた球児は、人生の新たな目的のために努力を惜しまないと思う。聖書は人類共通の不偏(フヘン)の目的を掲げて、誰もが努力できるようにしている。第一に「信仰には徳を」増し加える努力を挙げる。この目的は「神をよりよく知る」事に置かれている。「信仰」とは、人生の基礎である。「あなたは、生ける神の御子キリストです」マタイ16・16)は、神があなたに与えた人生の基礎(信仰)なのである。「・・・・だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」ヤコブ2・14)この「行い」が「徳」と言われる道徳的卓越性(長所・美点・貞節・高潔)である。この行いによって、神をより良く知る事になる。結果として、私達は信仰の主体性を強く持ち、世に打ち勝つ者となるのである。

† 心地よい広い道。
  「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです」マタイ7・13)「狭い門から入れる人」とは、どういう人だろう? 大方は、広い門、広い道が心地よいはずである。なぜなら自分の人間性と戦う必要が無い道だからである。聖書が求める「努力」は、人間の肉的性質とは対極にあるからである。日本人は皆なと同じ事を求める。集団の和を重んじて「赤信号皆んなで渡れば怖くない」に繋がる。私達クリスチャンは、日本人の和の文化に抗う(アラガウ)のではない。世から贖われ「イエスを神の子キリスト」と告白する信仰を神から与えられたのである。結果として、人生を生きる基準が「神の国と神の義を」努力して、第一にすることに代わったのである。その生き方が、より主体性のある「和を重んじ」集団の中で光りを放つ存在にもなるのである。この一連の客観的、理性的、論理的な理解と決断によって「狭い門から入り」救いの道に立って歩み続けるのである。
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