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牧師の想い

牧師の想い - 201807のエントリ

「努力のしがい」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/29 1:00
† やり甲斐がある。
  「しがい」とは、やり甲斐がある。ことで、信仰的な努力には「しがい」がある。このシリーズを、Ⅱペテロ1・5-7の「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」から、聖霊の思いを探り求めてみたい。第一の事は何が人間の障害なのか?と言う事である。悲しいかな、私達は評価されない努力はやりたくないのだ。評価とは直接的・間接的な反応が、すぐ得られることである。すると、すぐ評価を得られる事柄に私達は赴くのである。これは人間同士、あるいは集団の中、地域の中で、身近では家族内でも、価値観の有り様(低俗)によっては、深みのない評価をする家族になってしまうのである。しかし、真実は「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ」ヨブ34・21)にある。評価をされる神がおられるのだから、この神に向かう「努力のしがい」は大きな評価を得、その努力は確かな実を結び、成長するのである。

† 結果が約束されている。
  「努力のしがい」の、最たる原因は「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)にある。これは、神の御霊によって信仰告白したクリスチャンには確かなことである。「主イエスの、神としての御力」が、働いている事が原因となって「いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」 からである。そのために、私達は努力を促されているのである。言うなれば「与えられるので、努力のしがい」があるのである。もし、このことに食指(ショクシ)が動くならば、限りない可能性が生まれるのである。理に適い、わたしの利益に適っているのである。そういう訳で、努力のしがいのある旅(信仰生活)をしっかりと続けて行こうではないか。
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「神の国を生きる」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/22 1:00
† 神の助けが起こる。
  神の国を生きる私達のために、主イエスはなんと言われたか「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」ヨハネ16・33)私達が「世にあっては」と言う意味は、単に生きていくこと以上の、神の福音(神の国)を生きる上で、ということである。第一に、神の平安は神の国を生きるために選ばれた私達に注がれる。第二は、信仰を勇敢に生きる私達に、キリストが世に勝たれた恵みと聖霊の力(勝利)を私達に伴なわせ患難に立ち向かわせる。いま患難にある兄姉は、神の祝福から見放されているのではない。より強く主イエスがご自身に引きよせておられるのである。福音の霊的思考で、人間的思考を克服し、勇気を出して交わりをすれば、神の助けは真実に起こる。

† 重心のある所。
  重心とは,私達が生きる上での重心である。主イエスは次のように言われた「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」ルカ12・34)私達は宝とするものに心を置く生き物で、そこに「重心」が置かれている。人間の頭(理性)は非常に都合よくできているので、論理的で説明的である。例えば「神の国とその義」が信仰生活の第一です。そして、それがクリスチャンの重心です。と回答できる。しかし理解と実際は異なるのである。人間は信仰(聖霊の励まし)がないと霊的に理解した事を生活上に移すことは難しい。頭脳明晰な公務員が不正に手を染めてしまうように、曖昧に生きてしまうのである。宝(私達クリスチャンの特権)が、いかに理解されていても、心が伴わない場合は、重心とはならず、人生の重力とはならないわけである。心が世の中の快楽に在っては、頭でわかっている神の国に心あらずとなり、神の国を生きる事は難しくなる。今、一番に成されるべきは、礼拝において、真面目に神の言葉に応答して行く事である。
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「神の国を生きる」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/15 1:00
† 愛のいずる所。
  私達人間は「愛と自由」が大好きだ。ところがサタンも大好きなのである。サタンは「あなたの思い通りを欲し、愛せよ。それこそがまことの人間の自由である。」と言う。律法も戒めも関係なしなのだ。クリスチャン作家(曽野綾子)が書いていたが、こういった奔放破廉恥な、人間が小説の主人公にふさわしいそうだ。書き進む材料に事欠かないわけである。要するに人間は「それを望んでいる」のである。人間の愛と自由はサタンの思いと繋がっていると見るべきである。しかしまことの愛は「愛は神から出ているのです」1ヨハネ4・7)その特徴は「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」1ヨハネ5・2)神の愛は命令(戒め)を守ることで、神をも同胞(隣人)をも愛する。サタンの推奨する「愛と自由」とは本質が違う。神の愛は「神の潔さと神の義を伴う」ものである。あなたの愛と自由は、どういうものか?

† 神から生まれた国。
  神の国とは地形上の国ではない。キリストの再臨があるまでは実体は隠されている。 しかし、神の国は現実的に、勢力として現れている。神の国は初め、人間をとおして神との平和の中で築かれるものであったが、暗闇の王(サタン)の惑わしに依って人間は罪をおかし、神との平和を失い暗闇の王国の支配下に移された。主なる神はサタンと共に人間を永遠に滅ぼし尽くすことが出来たが、人間を憐れまれた。人間を含め、どんな被造物も「罪」を贖う事が出来ないゆえに、神ご自信が、聖さにも義にも完璧な方法として人間に成られて世に来られた。サタンのそしりを何一つ受ける事のない、神の愛の現れ、神の聖と義の現れが御子イエスなのである。神の国は今や主なる神によって生まれ、十字架と復活をとおして私達の所にきている。神の国は主なる神の聖と義を貫いている愛が生みだすものである。その故に「私たちが神を愛してその命令を守る」 ことが喜びとして伴うのである。
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「神の国を生きる」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/8 1:00
† 豹の斑点。
   「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか」エレミヤ13・23) もし、できれば、悪行に慣れた人間でも、善を行うことができるだろう。豹は豹の習性を生きるように、私達クリスチャンにも、神が植え付ける習性がある。それは良い業・善い生活である。聖霊と力が私達のうちに創り出される幸いな生活「神の国」である。キリストを受け入れた人々に新しい習性を創りだし、持たせて下さるのは聖霊なる神である。人間の強い信仰によると言わない。聖書では、全てを完成させるのは神のお働きである。私達に聖霊が臨まれて力を受け、私達は誰もが「主イエスは救い主である」と証言し、生活をする者になる。私達に大切なことは「私がそうしたのではなく」主なる神が私を選んで、そうされるのである。良い業と善い生活の増大のために必要な事はただ一つ「信仰の創始者であり完成車であるイエスから目を話さない」ヘブル12・2)ことのみである。主イエスから目が離れると、祝福の神の国を見失ってしまうのだ。

† 相手がわかる事。
  絶対に勝てる相手ではないと言われていたコロンビアに、日本のサッカーは勝った。徹底的に敵の長所と短所を調べ上げ、対策(作戦)を練られたからだと思う。私達の教会もクリスチャン生活も同じことである。例えば「生あるものは死す」という日本人のみならず世界中の人が感覚的に受け入れている言葉だが、大きな間違いである。これは敵の言葉である。サタンは知っているのだ。「罪の支払う報酬は死である」ロマ6・23) 死は生ある者の自然ではない。不自然な罪の報酬(審きと刑罰)地獄である。このように人を騙し、世を操る敵(サタン)を調べて知るならば、サタンの策略を破って私達の良い業の働きを広めて行く事が出来る。ただ、言える事は敵であるサタンは、年を経た蛇であり、私達の抱える弱点を知り尽くしている。このままでは太刀打ちできない。しかし、主イエスを王として崇め、主なる神の戒めに従うなら、巨大な敵に勝ち得るのである。
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「神の国を生きる」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2018/7/1 1:00
† 神の国のヒーロー。
   いかにして、私の様な者が「神の国」を現せるのか? きっと、多くの真面目なクリスチャンが思っている事に違いない。私がそういう一人だからである。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」1テモ4・12)教会には「模範者(ヒーロー)」が居る事が望ましい。ところが開拓途上の教会で、そのような人が見当たらない事もある。ならばヒーローを捜すことだ。それは有名牧師のことではない。あなたの最も身近に感じるテモテのような模範者である。私は時々言うのだが、青年期に「アリョーシャ」を模範にしてクリスチャンを生きる事を求めた。彼はドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」に出てくる青年だが、私の信仰を支えるヒーローであった。ひどい環境の中でも、汚れた人間関係の中でも信仰を腐らせず歩み続け、神の国を離れなかったことは、アリョーシャを模範にし倣ったからだと思う。

† 誰のために働く?
  多くの現代人は、働くのは家族のため、会社のためであると言うに違いない。ある人は自分のため、稼ぐためと言うかもしれない。このことに間違いがあるはずがない。聖書は勤労に対して「・・・・「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた」2テサロニケ3・10)クリスチャンは能動的に働く者である。神の国が現れるのは、私達が主なる神の命令に聞き従うからだ。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)自分の勤労がクリスチャンであるがゆえに、神の国の枠内に置かれているということである。そういう信仰意識を持った勤務には神の栄光があり、神の国が現されているのだ。クリスチャンの勤労が、神への働きとなるところに、神の国があり栄光が現れる。主なる神のために喜んで仕事をする者となりたいものだ。
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