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牧師の想い

牧師の想い - 201712のエントリ

「信頼する勇気」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/31 1:00
 † 今の姿に捕らわれない。
   キリスト教会にあって注目を集める教会がある。その主任牧師の子供時代は悲惨を極めた。両親は伝道者であり、赤貧に甘んじながらも熱心に福音を宣べ伝えた。しかし、子供として育つには辛いことだらけであった。学校の給食費を払えない。通学服はお古の継ぎはぎだらけだった。神の福音に生きる家族とはいえ、子供には惨めすぎた。彼は教会の神様と家族に恨みを持ったと言われる。そして少年は家庭で暴力を振るい、ある時は母親の髪の毛を掴んで部屋を引き釣り回したそうである。その時、母親は叫んだ「今のお前は本当のお前ではない。お前は大きな働きをする伝道者に成る」と、少年は怒りと憎しみに燃えていたが、母親の想定外な言葉が脳裏に残ったと言われる。母親の眼力とも言うべきか、主なる神の預言的な言葉だったのかもしれない。この傷ついた暴力少年は後に見事に大成され、日本における福音宣教の壁を打ち破る模範的な教会形成をされたのである。荒くれた原石のままに見るのではなく、その中に光り輝くダイヤモンドを見る。それこそが信頼する原点なのかと思う。

 † 新年の歩みを信頼する。
   明日は新年を迎えるが、私はこの12月喜寿をむかえ祝福を受けた。11月23日「ビンヤード・ミッション・センター」の奉献開所式が施行され、宗教施設として認可された。日本でも類を見ない多目的施設で、宣教、信徒の交わり、訓練のためのものである。年の終わりをこのような恵みのプレゼントで終えられるのは幸いだ。しかし、新しい年は主の恵みに答えて、私達が感謝を現す年である。私達の習性は恩義を忘れ、感謝に対する成すべき事をしない事である。「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」ルカ12・48)私達は、持つ事、与えられることの多いことを求めるが、それならば必ず、主なる神は多くを求められる。私達が忠実を示して神に返すならば、さらに多くを与えられ、多くを任されるのである。主なる神の前にごまかしは利かない。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」マラキ3・10)主なる神の祝福は、神を信頼して与えられる。忠実に献げ物(恩義)を忘れない新年にしょう。
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「信頼する勇気」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/24 1:00
 † 神の働きを見つめる。
   私達人間はいろいろな時を迎え、大きな節目を迎える。人間性にたいして長い目を持って見つめる必要がある。ある著名な牧師が話されたことだが「突然にして友人の息子が大変身をした」と言うものであった。鳴かず飛ばずのアテにできない、信仰があるのか、ないのかもわからないような生活をしていた男性が一変したのである。これを聞いて、むやみに人を判断してはならないと教えられた。人間のことをギリシャ語で「サルクス」というが、弱い人間性を言い表す。あるいは肉体を纏うため理性では制御できない欲情に支配された動物でもある。人間を信頼する事が牧師の務めであるに違いないが、その人のバックボーンとなる信念・信仰をみて信頼する。クリスチャンの場合その人の信仰の質に信頼の多くを依存しているのである。主なる神が、その人に働いておられるからである。同時に、その人が主なる神にどのようなスタンスを持って、神と交わりをしているかである。クリスチャンはその事によって信頼を勝ち取るのだ。人間性としては、それほどではなくても、主なる神が力強く御言葉を持って臨まれる時に、その人の魂が砕かれ主なる神を全面的に受け入れる時には、生まれつきの人性ではない、キリストの品性を纏うのである。その人が神の愛を信頼し生かされる結果である。

 † 迂路曲折こそ信頼を育てる。
   順境とは、多くの人が求める幸せの条件である。反対に逆境は願わしいことが巡ってこないことである。聖書は云う「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道者の書7・14)私が77才になって、わかることは、順風満帆の道にあった人々が、今は凋落してしまった現実を見。それとは違い羽振りの良くない人が、いつしか世の中で成功的な生活に変わっているの見る。世の中にあっては逆境に阻まれながら、苦労し努力し挫けないで歩み続けた人が信頼を積み上げたことを見るのである。霊的にも同じ事が言える。真実に神と対話を始めると良い。そうすれば、主なる神は成すべき事を示される。初めは易しそうだが、徐々に難しい局面に導かれる。それを克服するには自分との戦い、迂路曲折の中に追いやられる。表面的な歩みが取り払われ、キリストに従う事によってしか合格しない道に立たせられる。この戦いこそ重要である「わたしは・・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16・7)このようにして、神の評価の道を選んで信頼を得るのである。
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「信頼する勇気」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/17 1:00
 † 不服従を服従させる。
   結婚している人なら、良く理解してもらえると思う。年月が経ち子供達も家庭を持ち孫が与えられるようなころには、初々しい結婚生活とはかけ離れる。互いの考え方も、理解の仕方も、やり方も違ってくるからだ。日常生活の事柄では、とても私の常識ではあり得ないが、不承不承ながら妻の云う事に従うことにしている。例えば、今朝などは冷え込んで外の水おけには氷が張っているのだが,ベランダのさまざまな草木にたっぷり風呂の残り水をあげる。実は妻の確信に満ちた決定であって、私は不服従の心を隠して服従していたのである。この半信半疑を何年もつづけてわかってきたことがある。それによって草木は駄目にならないこと。プランターに植えられいる薔薇だが毎年見事な花を咲かせる。鉢植えのぶどうの木に今年は見事なぶどうの房が7個もついた。要するに、私の理解しがたい冬の水やりは、我が家においては正解なのである。諺に「馬には乗ってみよ」「人には添うて見よ」に通じるものがある。自分を従わせる勇気が、自分の理解を超えた祝福に繋がっているのである。

 † その人とその言葉。
   人との出合いが人生を決する。とよく言われる。私達は自分の置かれた環境によって出会う人々が定まる。さまざまな人との出合いのためには、環境の違う人々との交わりが必要になってくる。教会に集う事は最も幸いな出合いを与えてくれる場所である。誠実な人々が清らかな心を持って、神を力とし人生を積極的に生きている。その人やその言葉には真実に魂を動かす力がある。私は教会を知らなかったが書物を通して「その人とその言葉」に驚かされ、自分を恥じる心を与えられた。その一冊に「アンネの日記」がある。15才のアンネとその言葉には、私の知らない世界(神との関係)が色濃く感じられた。そうゆう出合いを通して、キリストにたどりついたように思う。当時、私と同じキリスト信徒だった友人が、私に内村鑑三の「ロマ書の研究(上下)」の単行本をくれた。そして「君は伝道者になれ」と云った。思いも及ばない事だったが潜在意識に矢が刺さったような痛みを感じた。もう一人の友人は高校生だったが献身し牧師になる事を決めていた。彼はどういうわけか「君も献身者の列に僕と一緒にいた」と言い張った。不思議だった。しかし後に、友人二人と私は伝道者になっていたのである。
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「信頼する勇気」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/10 1:00
 † 馬鹿の一つ覚え。
   愚かな者は一つの事だけを覚え、それをどんな場合にも得意になって持ち出す。という意味が馬鹿の一つ覚えだとある。よくよく考えてみると、私の事ではないかと気がついた。賢い人とは、どんなことにも多面的な考え方が出来て的確な判断をすることが出来るのだろう。ところが私の場合、とどのつまり「一つ覚え」に戻ってくる。「…どんなことでも、神にはできるのです」マルコ10・27)と、この御言葉がいつも私と共にあるので馬鹿の一つ覚えに違いないのである。このたび「ビンヤード・ミッション・センター」が出来上がったので、アドベント礼拝を行った。礼拝者一同がぐるりと堂内に環を描いてキャンドルを灯した時、思わぬことに気がついた。33年前の週報に掲げたビジョンの言葉であった「500人礼拝を目指し本年50人受洗」50人にも満たない礼拝者なのに、500人礼拝が目標だった。しばらくして、ある親しい牧師先生から「500人礼拝」とは、どういうものか知っていますか?と問われた。えっ、知りません。と答えた。私には「どんなことでも、神にはできるのです」が鳴り響いているだけであったのだ。しかし、このたび500人以上が集える会場の講壇に立ったことに気づいて、おののいた。主なる神は愚かな一つ覚えに、答えられたのではないかと。

 † 怒りの中には生きられない。
   怒り心頭に達する。ということに遭遇したことがある。クリスチャンになって5年も経った24才ごろだと思う。昭和の30年代の半ばでは、小規模の会社では休日が第一と第三日曜日で、それ以外の日曜日は午後からの礼拝を守るには会社に願い出て、午後から強引に休みをとらなければならなかった。集っていた教会は、若い姉妹たちが多く兄弟が少ないことから、宣教師から期待されていたこともあった。そのような一年を通して4月を迎えたとき、思わぬしっぺい返しをもらった。給料が1年前に減給となった。誰も味方になってくれる人もおらず「鬱憤(ウップン)やるかたなし」そのとき「絶対にこの恨みは忘れない」と心に誓った。悔しさと怒りは、まさに心頭に達したことは事実であった。全部の日曜日が休みとなる迄、日曜日は午後からの礼拝を守り通した。しかし、主を信頼する者が「怒り続けること」「恨み続けること」は、とても難しいことだと気がついた。怒らなければならない、恨まなければならないことを忘れてしまうのだ。悟ったことは、主イエス様の霊は、怒りや憎しみと同居できない霊であるということだ。この事件は思い出に留まり、貴重な私の霊的財産になったのである。
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「信頼する勇気」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/12/3 1:00
 † 真実な思いやりを。
   現代は自己申請の時代である。手続きを怠っていれば受けるべきものも受けられない。年金など間違ったまま受給していてもわからないままになりやすい。要するに誰かの申請が引き金になって、真実が明らかになってくるようなことが多い。そういう意味ではこの時代は間違いを認め、訂正され真実が行われる良い時代でもあると思う。聖書には「思いやり」ヘブル13・3)の重要性を勧める。人の気持ち、人の必要に対して順応し対応する所までを勧めている。される側とする側があるわけだが、それは人間だからそうすべきだと云うことが成り立てば一番良い。しかし、私達人間は利害関係に縛られているので上手く行かない。思いやりを他の人に申請するのもおこがましいが、切羽詰まれば、それもおかしくはないと思う。私達は自由の中にあるが、神の内にある者である。主なる神に促され、信頼して思いやるのである。特に神の家族に対して、身近な人々に対して信頼して、思いやりを現して行くならば、大きな信頼の環が生まれるだろう。

 †  まごころを持ち続ける。
   「まごころは通じる」と、ずーと信じ続けている。長い人生にあっては不評を買い、誤解をされ不本意のまま生き続けなければならないことがある。そういう時は凜として自分の真実を心に秘め、なお真実に生きることである。あえて釈明すると野暮なことに成りかねないことが多いからである。特に、主なる神に仕える者は心を主なる神に置いて沈黙を守るが良い。それが私のやって来たことである。真実は明らかになるし、真心は通じている事がわかってくる。十年も経つと真贋がわかってきて評価は一変してくる。時の趨勢(スウセイ)によって評価が変わるからだ。まごころを尽くしてやったことならば、たとえそれが批判されたり、排斥されたにしても自分のまごころ「主なる神への誠実」であったなら仕方のないことなのだ。自分を信頼して居るしかないのである。「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。・・・・」2コリ6・8)さまざまな人々の評価の中で、生抜く力は、信仰のまごころだと思う。
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