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牧師の想い

牧師の想い - 201711のエントリ

「信頼する勇気」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/26 1:00
 † 良心の問題。
   私はそれほど騙されやすい人間ではないと思っている。しかし、結構騙されている。ある日系外国人が母国に家族を残して日本で二人の息子と共に働いているが、まともな稼ぎができず家族のもとに送金もできないと大勢の家族写真を見せる。必ずお返しするので、少しでも助けて欲しいてと言う。借用証書を書いてもらって、なけなしのポケットマネーを今回だけだと言って渡す。一ヵ月の間に2,3度顔を見せて息子達に自転車がいるというので中古の自転車をあげるなどする。しかし、一ヵ月後に顔を見せない。住んでいたところにはもう居ない。私は彼らを信頼したのだが、信頼に足る彼らではなかった。彼らは騙すつもりはなかったが、旨く行かず移動したのかもしれない。彼らを捕らえるため追跡捜査することはしなかった。見事に騙されたのだろう、しかし私は信頼したのだから、私の信頼した事に悔いはなかった。主イエスも愛弟子(ユダ)に信頼を裏切られるが、主イエスの信頼は完全であられた。その信頼は無益でもなく古びることもないのである。

 †  信仰は信頼が内容です。
   信仰とは、私にとって神が居るのか居ないのか、という探求から始まった。宣教師のメッセージを聞き、ますます疑問に思い確証を得たいと思った。自分の納得に重点をおいていたのが初期の信仰姿勢であった。青空を仰いで不思議に思った、どこまでも突き当たりがない事が理解できない。同じほどに神が重なってわからない。科学的、物理的な理解がなくして聖書の神が信じられるのか? しかし、こんな私に、こんな日本人に、また世界の人々に、主なる神は方法を持たれていることに導かれた(気付いた)。上記の様に私は人本的に神に迫っていたけれども、主なる神は、私の実存が何であるかを示された「あなたは人間として在るべき目標を求めているが、常に破綻し到達しない」この現実が「罪人」なのだ。と、そして「私は、そのようなあなたの欠け(罪)のために十字架に架けられた」と。私が欠け(罪)のない人間であるためには、絶えず主イエスの十字架が必要ということ。それは、常にいつも救い主イエスを信頼していること。それが私の永遠に生きる実存であることなのだ。信じるとは一回的なことではなく、信頼し続ける事である。
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「成長する人の痛み」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/19 1:00
 † 自分の痛みから学ぶ。
   私の人生は与えられた痛みから学んだことが多い。また受けるべきものを受けないことによっても学ぶべき事が多くあった。痛みという概念はマイナーに分類されやすいが決してそうではない。痛みには悲しみが伴うがとても重要である。本来人間は楽しみや喜びの中で重要な真理を学ぶ事が少ないようである。「知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く」伝7・4)「人が、若い時に、くびきを負うのは良い」哀3・27)若い時(思春期・青年期)に辛い修行をさせられる事や、自分の思い通りではない世界にあって進んで生きる事でもある。キリストにあって経験する深い痛みや悲しみ、理不尽に耐えて神を愛せるならば、根のある人となり思想の深い豊かな人となる。主イエスの憐れみと慈しみが反映される人ともなる。人の痛みや悲しみを人ごととは思わない人となり、とりなしの祈りをする人となる。私の歩みの中で誇れるものはないが、主なる神に愛される者として、懲らしめの中を通らされ、痛みや悲しみを味わったことが、後に100倍の「実を結ぶ種」になったことは事実である。

 †  神の栄光に帰すること。
   これは決して痛みではないが、この世に自分をあらしめたいと思う時には痛みになる。私達はこの世に生きているので、人々の評価の中にもある。聖書は私達の人生の健全さを教えている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタ6・3)人間のなしえる最高の善を右手で行った、しかし、左手には知らせない。言葉を代えて言うならば「施し」という最高の善は、神の栄光のためであって、自分自身の栄誉のためではない。自己満足や世の中(人々)の評価から遠ざかる事を求めている。企業や大きな機構は大々的に寄付金や援助額を公表する。これは世の中に立って利益を得ているために貢献度を明確にする義務でもある。しかし、クリスチャンは一人一人が神に生かされているので、自分の内に起こる人々の評価を得ようとする功名心や欲求に、戸を閉じるのだ。聖書は言う「自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」マタ6・2)しかし、私達は天の報いが伴う神の栄光のために注意深く「左の手」に知らせることはしない。
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「成長する人の痛み」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/12 1:00
 † 引き受けるか拒絶するか。
   人生を二分する事柄として、このどちら側をも私達は選ぶ事が出来る。今日では「否応なしに」強制されて生きる事を拒める時代である。しかしながら電通(広告代理店)に入社した大卒の女性が、過酷な残業を強いられ自死に追いやられた。希望を抱いて入った会社が理不尽を当然として押しつけた過度な勤務だった。会社の体質の中で拒絶する術と力を奪われてしまったのだろう。職務とか責任の名の下に自己の自由を見失ってしまうのである。過度な負担を負わせ死に至らせることは日本の法律に違反している。しかし社会というものは利益が中心で人間がその次になっている。人間が中心であるには、人間を保証する法律を知っていなければならない。また、自分の限界を超える過度な要求に対しては「否」と言える勇気(痛み)を必要とする。能なしと言われるかも知れないが、自己は自己自身を守るべきなのである。人々や会社が苦情を言い批難する「痛み」を引き受けるなら、自身の破滅から守られるのである。人間として、わきまえの中心は「神にある私の認識」だ。神が支えられる中で私が生きている。神のために引き受け、また神のために拒絶できるのである。

 †  二つの評価がある。
   よく言われることだが「幸せ」と言うものは、幸せになろうとしてあるのではなく、一生懸命生きて、そこにある結果が幸せなのだ。ということ、そこに顕されるのだ。裕福か貧しいかの問題ではなく、幸せは「心の満足と喜び」なのである。極貧も極貧のゴミ山に住むパラグアイの方々の生活を知らされた。そこで生まれ、そこで育つ子供達が一人の音楽教師によって、ゴミ山から見つかった、ドラム缶や一斗缶で造られたチェロやバイオリンで音楽を奏でる授業を受ける。見事なクラッシック音楽を奏でるほどに成長する。やがて、ゴミ山の奇跡として、この子供達が知られ、見事な演奏に世界のメディヤが紹介するようになった。彼らは大きな関心を集め大きな評価を受けた。しかし、住むところはゴミ山の町である。何よりも神への信仰が彼らの内にはある事に関心を持った。この地域に未曾有の大洪水が押し寄せ、ゴミ山も彼らの家も洪水に浸かってしまった。しかし、この人々は前に向かって希望を捨てる事はしない。この事にこそ大きな評価があると思う。
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「成長する人の痛み」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/11/5 1:00
 † 挫折のまことの意味。
   宣伝販売員(デパートなどで実演販売する人)の実力に驚いた。商品はフライパンや包丁など、商品は限りないが一日に10万円を売り上げるという。人にもよるが、年収一千万円以上の人もいるという。そういった人を育て束ねる会社があるのだが、その社長の言った言葉に驚いた。販売人を募集するのだが「挫折」を味わった人を求めるという。なぜならばと言う理由は言われなかったが、皆様にはその理由がわかるだろうか? 聖書には深い挫折を味わった者を、主なる神はご自分のしもべとされている。新訳聖書では筆頭に使徒ペテロをあげることができる。次に、使徒パウロだ。旧約聖書ではモーセも挫折の淵に落ちた人である。ヤコブにしてもそうである。その子ヨセフはエジプトでパロに次ぐ大臣になったが、兄弟に奴隷に売られる挫折の中を長く生きての結果である。挫折という痛みを真摯に受け止められた人は幸いである。なぜならば神の思いのままなる手の中で自暴自棄にならなかった事で、主なる神の御業にふさわしい者と認められるからである。誠実に生きて不遇や挫折を味わうなら「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた」詩40・1)と、なる様に心掛けることである。

 †  痛まない薬。
   肉体的な激しい痛みを緩和するのにモルヒネ(ケシを原料とする、アヘンから抽出される強力な鎮痛剤)を用いる。重篤な痛みのある方々に、痛みのない日常を過ごすことができるようにする。私達は健常者を任じて生きていると思うが、クリスチャンとしては痛むべき所で痛みを感じないような者に変質しているのではないかと思う。自己催眠ではなく自己麻酔をかけて「心の痛み」を感じないようにできるのである。主イエスだったら立ち止まるところで、私達は素通りする。主イエスだったら手を差し延べ助けられるところを、私達は何もしない。私達は人に教えることが得意だが、教えられる事を求めない。自分にして欲しいことは祈れるが、主イエスのして欲しいことについては祈らない。非常に都合の良い麻酔が私にかかっているので、これらの事についてトント痛みを感じないのだ。こういう私達のミニストリーとか奉仕とかが、どれ程のものなのか考えものである。私の座右の聖句に「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」ヨハネ12・43)がある。要するに人の栄誉を愛する人には、聖い痛みを感じる感性も霊性も失われてしまうのである。
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