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牧師の想い

牧師の想い - 201710のエントリ

「成長する人の痛み」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/15 1:00
 † 自己尊大さがない。
   人間の本質には「自己尊厳性」という自分を自分あらしめる本能がある。どのような立場の人にも、どのような環境にある人にも、認められ尊重されるべきものである。人を軽しめる事の無い主キリストのうちには、常にその人の尊厳を受け入れ愛しておられる事がわかる。あのイスカリオテ・ユダにさえ最後まで彼の尊厳を愛し、悔い改めることを求めておられた。しかし、ユダは主キリストの愛のうちに育まれる尊厳性を棄てたのである。自己尊厳の強い人はモーセのように柔和である「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」民12・3)その優しさは「有りて有る」唯一の神を知り、その中に存在し、主なる神のみこころを行うしもべであると自認したからである。その究極の完全な自己尊厳は主キリストに認められる。主なる神の、独り子としての尊厳をお持ちであったので「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ピリ2・8)のである。尊厳性の故に痛みをも引き受けられたのだ。尊大とは「威張る・人を見下げる・自分を上位に置く」と言う意味である。しかしまことの自己尊厳を持つ人には卑しい尊大さは見られない。

 †  神の恵みに留まる秘訣。
   「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ロマ5・20)この逆説(パラドクス)は、個人の信仰にとって重要な真理を言い表している。罪の悔い改めを問うことによって、神の恵みの現実性を知るようになる。神の赦しを受けると言うことは、真摯に罪を告白することである。それで、罪の支配から神の恵みの支配を受ける事になる。過去を赦されたという恵みは真実であり、キリストの血潮の故に完全な潔めを頂いている。以上の告白は重要な真実である。しかし、私達は一度悔い改めると、これで終わりにしてしまいやすい。まことの恵み深い人生は、恵みが絶えざる悔い改めの必要を私達に求めているのだ。その霊的なメカニズム(仕組み)は次のようになる。恵みに生かされているならば、恵みは罪を嫌い、罪から遠ざかるように働く。くちびるの罪を恐れ言葉に注意する。自分の足りないことも、一日罪を犯さないように聖霊の導きを求めて祈る。このように悔い改めは継続的に続くものなのである。使徒パウロは「罪人の頭」という毎日の中で、絶大な主なる神の恵みの中に生きた。罪を憎むという実存的な生き方によって、罪を嫌い、悔い改め続けたからである。主なる神の恵みが聖霊を通して、そのように働かれるのだ。 今、悔い改める必要を感じない?・・・・それは恵みから遠のいているのでは?
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「成長する人の痛み」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/8 1:00
 † 蛇の聡さと鳩の素直さ。
   「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」マタイ10・16)私達は教会の中では平安に守られている。あるいは信仰が機能しているところでは神の国があり安全である。それがないところ、職場や学校や地域、あるいは家庭であるならば蛇のように聡く、鳩のような素直さがいると言われているようである。狼の中というのは神を神と認めない人々の中に送られている事であったり、悪を悪と思わないような人々もいる中に送られていると言うことだ。先日も見事にハッカーに操られクレジットカードを悪用された。Appleそのもののホームだったが詐欺の手口だった。カード会社が気付いて実質的な損害にはならなかったが5万円を引き出されていた。その驚きは痛みをもたらしたが、蛇の賢さで防御する術を学んだ。このような金銭の問題だけではなく、今の時代ほど人間は滅びやすい環境におかれている。科学技術の進歩が人間を幸せにするかのごとく大手を振り、錯覚の世界へ導いている。この世を楽しみ横臥(オウガ)する事を第一に求めると、待ち構える狼の餌食になる。

 †  痛みは成長の糧となる。
   「艱難汝を玉とす」の言葉のごとく、多くの困難(痛み)を通して立派な人格になる。そういう人は賢い成功者に成長する。聖書のすばらしい事は、神は全能者で助け主であるのに、ご自分の選んだ民(イスラエル)や先祖アブラハムやイサク,ヤコブに患難の中、試練の中を通らせる。ダビデなどを見ると「神に愛された人」と言われているのに、ありとあらゆる患難が降りかかっている。まさにライオンが生まれたばかりの子を谷底に落とすように、与えている自力を用いよと言わんばかりである。勘違いしていけないことは、神は患難試練の時、痛みに苦しむ時に「私を呼べ。そうすれば私はあなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう」エレミヤ33・3)と、待ち構えておられるのである。実に、これが現今に生きる私達への慰めであり、励ましである。多くの聖徒が、今や「主の御名を呼ぶ」ことをしなくなった。患難を回避し、痛みを回避して、神に向かうべき時を持たないのだ。主なる神の期待する「玉」となる成長はあるのだろうか?
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「生命の流れる道」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/10/1 1:00
 † 人間の罪に向かって流れる。
   神の生命は愛に満ち、慈しみに満ち、潔さに満ちた永遠の生命である。そんな生命とは関係なく、自己愛と欺瞞に満ちた罪の中を生きると大変なことになる「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」ロマ6・23)とある通り、私達は悪魔に操られないよう気概をもって生きたい。罪とは「故意的に犯すもの」である故に、誰でも罪を思い出す。しかし「義人はいない。ひとりもいない」ロマ3・10)とある。言葉上からは今生きる人間は、全員が深刻な罪人なのである。なぜ深刻な罪人と言うか、罪を深刻な問題と認めた人(罪人)が、キリストの罪の赦し、完全な自由を確信できる。自分を深刻な罪人と認めない人に、深い生命の流れは生まれない。罪を深刻に認めない罪人の特長は「頑(カタク)なさ」である。自分を何ものかだと思う傾向に生きているので、深刻な罪人だと思いたくないのである。これこそが神に敵対してしまうのだ。自己実現の自由を求め、他からの評価を求める自分のこだわりに捕らわれているのである。神の恵みは私達(あなた)の欠けたる部分を修繕するためにあるのではない。私達の深刻な罪に向かって、神は恵みを注ぎ「新しい被造物」に造られる。生命の流れる器にされるのである。

 †  道に道を作り続ける。
   初めキリストが「道となって」世に来られた。そして弟子達がキリストを継ぐ「道」となって「・・・・地の果てまで」使徒1・8)証人となって、世界に「道」を造った。キリストの教会が生まれて2000年の歴史を経てきた。また今年は「宗教改革500年」を迎えている。神学者A・マクグラス「プロテスタント思想文化史」によれば、20世紀に起こり21世紀にも発展している、カリスマ・ペンテコステ信仰による拡大が「教会・信仰改革」を最も著しく、世界規模の運動として広がり続けている。とし、聖霊の生命の流れを重視している。ルターの「信仰のみ」が、まことの「キリスト者の自由」をもたらしたように、ルターの切り開いた信仰の道をプロテスタント教会は継承して行く。また、信仰に生きた神の人を通して、この日本にも、生命を継承する献身者が起こされたし、現在も神の生命に燃やされている器を通して、神の生命を流す新しい弟子が生みだされる。私達ビンヤードも、聖霊のしるしと不思議の伝道(力の伝道)を引き継いでいる。さらに復興したいならば、神の前に進み出て「ここに私がおります」イザヤ6・8)と、跪(ヒザマズ)いて主の訪れを待ち望めばよい。
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