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牧師の想い

牧師の想い - 201706のエントリ

「平安を生きる」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/6/22 14:07
 † 任せること。
任せる。とは委ねるということと同じである。職人の親方が重要な作業を弟子に任せる時が来る。親方から見て、この弟子は仕事をこなす技術(腕)を持つと見込んだからである。家を建てたいなら任せられる信頼できる工務店を探す。何一つ心配する必要がないためである。平安な人生には重要な5人が必要だと聞いたことがある。医者、弁護士、会計士、牧師、建築士なのだそうだ。なるほど、この世の人生の危機に対応してくれる人々である事がわかる。しかし、私達の人生とは皮肉なことに「必ず死ぬ」という前提のもとに生きる事を余儀なくされている。それで私達には「罪の支払う報酬の死」ロマ6・23)を引き受けて、身代わりに死んで下さる救い主イエス・キリストが必要である。その全能の神であるキリストが、平安に生きるために、あなたの全てを私に任せて思い煩うなと言われる。要するにクリスチャンであり、神を知っていても「神に任せない・委ねない」なら平安は無きに等しく、乏しいと言う事である。神に全てを任せる信仰が本物となる。

 † 私達は見せかけが上手。
   見せかけが上手なのは、相手があるからである。それは同時に本音では上手く噛み合わないという事を知ってのことである。ただ言えることは見せかけで平安は生まれてこないと言う事だ。主なる神を相手にしているならば、見せかけは何一つ通用しない。主なる神は私達を丸裸に見ておられる(ヘブル4・13)ので、ごまかしようがないからだ。しかし、主なる神を除いた世界ではどこでも「見せかけ」で上手く出来る。見せかけの最たるものは演技であり、自分とは違う別人を見せる事も出来る。しかし、真の自分とは、主なる神に委ねた結果として生まれる自分である。交わりの中に現れ、態度となり姿勢となる。「見せかけ」は、自分に信仰による神の平安が土台にないため生まれる。そのため、人生が揺らいでおり、あれもこれもと思い当たる事に揺り動かされるのだ。しかし、自分の見せかけを悔い改めると耳が開き、神の言葉が聞ける者になる。そして神の言葉によって、神の平安(安息)に入るのである。そして、自分を見せかける必要のない幸いな世界に生きられる。
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「平安を生きる」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/6/18 1:00
 † 信じる事と平安。
   私と父親の思い出の中で鮮明な出来事がある。就学前の子どもの頃であるが、私は父が乗る自転車の荷台に乗せてもらって楽しかった。しかし、父がスタンドを立てて自転車を降り「じーとしておれ」と言った。私の目の前には今まで父の背中があって何の不安もなかったが、なんだか倒れるという恐怖に襲われた。その恐怖のために泣きわめき、遂に倒れそうになって父が急いで駆けつけ支えてくれた。ずいぶんと父に叱られたわけである。それ以後自分はそういう傾向を持つ男だと思う様になった。あの時の恐怖心は自分が創り出したものである。言われた通り、じっとして居れば何の問題もない事がわかる。私は全てを知り尽くして言ってくれた父の言葉を信じなかったことで、余計に叱られた。信じない事は、恐怖にすり替わり、ひどい有様になる自分の映像が見える。そればかりではない「必ずそうなるという」創り出された嘘の真実が現実になる。悲劇のヒーローは、かく創られる。信じない心は平安に至らず、漠然とした信仰は不安を抱える人生を招くだろう。

 † 思い通りは平安とならない。
私達は思い通りになる人生を幸せとか、平安に結びつける。かって聞いた本当の話だが、家族中がみな仲良く平穏で何も心配材料がない主婦がいた。素晴らしい子供達に囲まれている幸せがうれしかった。しかし問題が起こった「この幸せはいつ失われるのだろう」という恐れであった。この主婦は、失われる幸せを思って苦しみ悩んだ。決断したことは「幸せの絶頂の中に」生き続けるために、悲しみ苦しみを見ない今「死ぬ」事であった。なんと、この婦人は、そのような意味の遺書を残して自死されたのである。川端康成もその様な美学の故に自死している。平安(安息)の一つの定義だが、私は伝道者として或る意味信徒の模範である必要がある。神に仕える態度や節制、嗜好の面での模範である事。特に品性に関して厳しく律して生きる。これが神に仕える肯定性に成る。霊的献身と献金において、誠実な働きを人と比べることなく行う。この信仰の在り方が神の平安(安息)を引きよせるのである。信を生活すれば神の平安が共にあると言い得るのである。
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「平安を生きる」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/6/11 1:00
 † 鼓舞される事と平安。
  テニスの大会で、錦織とマレーの試合を見ていて、解説者の言葉に驚いた。錦織に押されて世界第一位のマレーが苦境に立たされていた。その時、審判がマレーの遅延的なサーブに対して注意を与えた。するとマレーは審判に近づき不信を表明した。その時、解説者が言った「今、錦織はコートからも観衆からも、引き離され、マレーが主役になってしまった」この時からマレーの中の眠れる獅子が目を覚ました。もう一つあった「マレーは大声を上げて自分を鼓舞している。これが大切なのです」と、自分が不調であり、思い通りの環境ではない時には、なおさら声を上げ自分を鼓舞しなければならないのである。私は信徒の方々に「祈りのノート」を作って祈ることの生活を求めている。その第一の目的は「声を上げて祈る」「主に叫ぶ」事にある。霊的に鼓舞されるには、主の正面に立って主に大声で呼ばわる必要がある。私の早天は22年目になる、それは「主に向かって」大声で呼ばわり、鼓舞されるためである。そこで力を得、神からの限りない慰めと平安を得るからだ。勝利というものは理屈ではなく実際に従い行うことなのだと思っている。

 † 神の平安と哲学。
哲学(英: philosoph)は、本質を全ての人が納得出来るような考えに到達する事を目的にしているものである。しかし現代を「ポスト・モダン」(現代という時代を、近代が終わった「後」の時代 として特徴づけようとする言葉)現実的には、各人がそれぞれの趣味を生きるようになり、人々に共通する大きな 価値観が消失してしまった現代的状況になっているのである。要するに本質が見失われ、万民の納得出来る価値の共通性が問題にされなくなっているのである。一人一人が自分の勝手な哲学を持ち、勝手に生きる事が自由であり、権利なのである。「神の平安」が宇宙論的被造物の本質であるにもかかわらず、世(人々)には関心もなく、その意味すらも知らず、尋ねる事すらしないのである。こういう人々に知恵を持って福音(神の言葉)を語り得るのが私達クリスチャンである。だから、神の平安(平和)を心に深く味わい知る者でありたい。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7・33)
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「平安を生きる」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/6/4 0:10
 † 神を信じまた我を信じよ。
   「あなたがたは心を騒がしてはなりません」ヨハネ14・1)の言葉に続いて主は言われた「神を信じまた私を信じなさい」・・・・安全であり,心配がない安心があるのに「平安がない」のは、心に言い知れぬ不安があるからである。キルケゴールは不安の根底に「人間の死に対する不安」を潜在意識の中に持つ。という意味を自著の「不安の概念」に書いている。聖書は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」ヘブル2・15)として,人間の真実を言い表している。しかし、現代人は世の中で生きる事に引き出されて「死の恐怖」を覚えない。これはサタンの策略である。なぜならば人間に死の恐怖がなければ「主の十字架と復活」 なしでも生きられれるからである。しかし潜在的には不安があり、思い煩うのである。人間が霊的な感覚を麻痺させられ、それを精神化されているのが現代人である。教会の宣教の働きが難しくなっているのは、そのためである。人間である認識が狂っているなら福音は理解不可能である。たとえそうであっても「神を信じ、主イエスを信じる」確かさ意外に平安を持ち、平安で居る術はないのである。

 † 神の真実が平安。
  まるで神様からのプレゼントのように一冊の本を頂いた。「神の大使」金夏中(キムハジュ)韓国の元中国大使の書かれたものである。主なる神は現代の国家と世界にたいして、神を恐れ、神に従う僕には「語りかけ」導きを与えられるという実録である。このところで教えられることは多く有るが「平安」という事に焦点を絞るとき次のようになる。主なる神が「語られる」ことは必ず(時間を経過しても)成る。例えば、一般的にクリスチャンは御言葉を信じる。しかし、特別に「この時・この私のため」啓示された御言葉は「レーマ」と呼ばれる。明らかに神が語られた御言葉なのだ。こういう啓示は誰にでも開かれている恵みである。神を求め続ける者には必ずある。キム・ハジュン氏の場合は直接に主なる神が語られるのを聞くのである。するとその事柄を「確信できる」のである。確信の証明は「大いなる平安」が伴うからである。人間が作り出せない「神の平安」が魂(心)に留まるのである。誰にでも実行できることは、主に祈る事。どんなに不可能と思えても願い続けよ。その祈りに神の平安が訪れるまで。平安を得たなら、その祈りは神に聞かれ答えられるのである。
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