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牧師の想い

牧師の想い - 201705のエントリ

「平安を生きる」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/5/30 0:00
 † 平安は目的。
   70億の一人一人に主なる神が望まれることは「平安があるように」ヨハネ20・19)と言うことであると私は思う。なぜなら「神の平安」は人間では作り出せない天来の文字通り神のもの(平安)だからである。中東やアフリカの数え切れない難民の方々は、私達の持つ安全、安心を奪われ、地上での未来の希望を打ち砕かれてしまっている。このような明日の保証も無い人生にあっても、キリストは言われる「我に来たれ我汝を休ません」マタイ11/28)とても私には語る資格も無い。いや誰も、この悲惨な難民の方々に語り得ることは出来ない。しかし,私達の主イエスは、平安を与えるために難民一人一人のために血を流し、悩みを負い極限まで苦しみを負われた。それは主イエスご自身の平安を与えるためである。全てを奪われ、いま死に行く人にも勝ち取られた平安を与えようとされるのだ。「全き愛は恐れを閉め出します」1ヨハネ4・18)と記される。愛は光り輝く御顔のようであり、平安は愛の中身である。全ての恐れを追い出し閉め出してしまう平安の力である。

 † 日常で築かれる平安。
  ダニエル・コレンダ著「神の声を聞く五つの秘訣」~神の計画に目ざめるために~を読んで感銘を受けた。その中に「神の計画を歩んでいれば、問題や逆境から上手く逃れられるとは保証してはいません。しかし、直面する全ての試練が、最終的には私達への益へと大きく変えられて行く、神の愛のエージェントとなる事は保証されています」と、ゴジック文字で書かれていた。私達は強固な信仰や揺るぎない平安を、具体的にはどのように築いて行くのかを言い表したものである。モーセがエジプトの文明の中から荒野に追い出されたように、キリストが聖霊によって荒野に導かれ、ついには悪魔と対決されたように、試練の中で鍛えられて獲得できて行く事を聖書は前面に明らかにしている。平安の深さも信頼し耐え抜いた、その結果として確かさを得るのである。私達は「エィレーネ・トゥ・イエソス(キリストの平安)」を祈る。その祈りの意義の確かさに応じて「平安」が霊の内容となって行くのである。試練に立ち向かうように、祈りにおいても、キリストの平安を全ての中に求めて祈ろう。
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「平安を生きる」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/5/21 0:00
 † 平安は人間の努力によらず。
   「よらず」と言う聖句では有名なのは「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる(ゼカリヤ4・6)である。平安も全く同じく「私(神)の霊(贈り物)」によるものだと言うことを忘れてはならない。神の平安は私達の霊に結びつくものである。純粋にこの世のものではない神の平安である。実際にあった話だ。一人のおばあさんが外の要事から帰ってくると、なんと自分の家が火事となっていた、するとおばあさんは、腰が抜けたのではなく、石垣に腰を据えて「えらいこっちゃなー。イエス様これからどうします?」と、上を仰いで言ったというのである。信仰のあるおばあさんと、人々は言う、しかし本当は神の平安がある人なのである。神の霊(平安)がその人の霊と一つになっているからである。この領域にまで引き上げられたら、本物も本物である。言葉を代えて言えることは、天で生きる事も地上で生きる事も、さしたる問題ではないという所に到達されたのである。使徒パウロの「死ぬるも生きるも益」ロマ14・8)と言う事である。この世でいかに生きるべきかに捕らわれやすい私達には、この高嶺はまだまだ先の事かもしれない。しかし、聖書はそれはすでにあなたに与えられていると言っているのだが・・・・。

 † 安心立命と神の平安。
  「安心」は心配がないこと。「立命」は、天から与えられたものを全うすることで、天命に身を任せて心を動かさず、生死や利害に惑わされずに超然としているという 意味。安心とは心配がない事と言うが、それは「生死や利害に惑わされ」ないで超然としてしている人のみにある、となる。安心というものは「有るから安心」ともなる。家族がある、お金がある、職場がある、年金がある、健康がある・・・・この安心は崩壊し、失われるものであるから「一時的」である。「無いから安心」とは、煩悩解脱したので「苦が無い」安心である。当然ながら、難行、苦行の末か、悟りによってしか得られない所にある、超人の境地を想像するしかない。ほとんどの凡人である日本人には、理解しがたい「安心立命」である。この境地には、神の霊が働く十字架も復活も無いので、とかく難しいのだ。私達の神は「善い人間になる事」を最終の目的にしておられない。ここが仏教や儒教と違うところである。主なる神は、失われてしまった主なる神と人間の間にあった至上の関係「平安」を再び私達にもたらす事なのだ。この神の目的を信仰の初めに会得することは重要で偉大なことなのである。
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「平安を生きる」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/5/14 0:00
 † 人間と神の平安。
人間をどう言い表すか?聖書は明確である。神に愛され創られたのに、この神に背いたのが人間である。キリスト教会は限りなくこの論理の中で人間の回復と平安を説く。しかし、この世には別なる人間を定義をする反聖書的路線の心理学者フロイト(その学派)や、それとは違ったユングやフランクルのような心理学者がいる。つたない知識から言えることは、聖書が言明しているように、人間は、神の平安を与えられ「持つ事が出来る」ということである。人間の創り出す平安ではない、人間では絶対に創りだせない平安のことである。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」ヨハネ14・27)明らかに「世の与える」平安とは異なる。質の違いを理解しなければならない。クリスチャンが持つ平安の中身が世的ならば、私達は砂の上に家を建てて平安だと思ひこむ人と同じである。さて、私達は神の平安を与えられ真に憩っているだろうか?

 † 平安(シャローム゠エイレーネ)
平安(平和)のヘブル語は「シャローム」で、挨拶にも使われることばで知られる。旧約の平安は、キリストの十字架と復活によって、より明確な意味を帯びることとなった。新約の平安はギリシャ語の「エイレーネ」として用いられる。神の平安は信仰の本質を形成する。なぜならば、主なる神との契約関係に伴って「平安」が関係づけられているからである。かってイスラエルの民が、我々には神の約束(契約)があるから祝福を受けると言いつつ、戒めを軽んじ、神の言葉への忠誠を怠った。その結果「神の平安」は取り去られた。神と民との契約関係が崩れ去っていたからである。このことは私達と主イエスによる神との関係(契約関係)が、いい加減にされていると、今日の私達からも「神の平安は」遠のいてしまうのである。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタ6・33)これは、神の平安を得るためにも重要な御言葉だと改めて教えられるのである。今、私の中に神の平安があるか?これを第一に吟味したい。
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「主の霊によって」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/5/7 0:00
 † 集約的信仰へ。
私達の教会で、ビンヤード諸教会の教師22人とゲスト8人を招いてカンファレンスを3日間に渡って行った。霊的な「友」としての、この上ない親しい交わりがさらに深まった事を確認した。私達は次いで大阪での大聖会にも参加した。中高生以上と子どもを加えて60人近い参加をした。まさに霊的ゴールデン・ウイークであって、キリストのご馳走に満腹した気分であった。しかし、これがしょっちゅうだったらイヤにもなると感じる。教会とはお祭りをやっていれば良いのではないからだ。お祭り好きで外向き志向の心地よさを求める人もいるだろう。しかし地道な霊的生活は厳しさが伴なった現実である。さて、キリスト信仰は、世界の現状に対応するあまり霊的に拡散して行くけれども、何が最も大切なのか「的」がわからなくなってはいけない。何が大切かを、膨大なキリスト教の持てる財産から抽出し集約して行くのが、現実の教会に必要な事なのである。このシリーズの「主の霊」に焦点を持つことは、信仰と教会の最大の課題となる。と私は宣言(預言)する。

 † いつも持ち続ける事。
可児福音教会の私達の「主の霊」による第一事は、一人の人の救いである。私達は人々の救いに、生かされて交わりをしている教会である。これを重荷(十字架)として可児福音教会は負っている。即ち、人々の救われるために私達は交わるのである。ここに主の霊(聖霊)による健全さがあるのである。例えば、聖書が開かれ、楽しい交わりであっても、十字架のない(重荷を伴わない)交わりは、主の霊から離れてしまうのである。交わりのためには十字架を負って祈ろう。聖霊の支配に導かれるように献身してゆこう。このような姿勢の教会は「・・・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」 ルカ15・7)に伴う。これは主イエスが第一に目ざされた一人を救う御業である。神の霊(聖霊)は人々の救いを第一にして、次にもろもろの祝福を用意し与えられる。偉大な御業だけを求めては罠に陥入るのだ。キリストにある私達は人々の救いのために生きて祝福を受けたのだ。これからも一人の救いのために十字架を負い、聖なる交わりを続ける私達であり続ける。その故に「主の霊によって」驚くべき神の祝福の御業が計画されるのである。
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