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牧師の想い

牧師の想い - 201704のエントリ

「主の霊によって」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/4/30 9:00
 † 神の霊との対立。
私達の周りには良いもので満ちている。人間を不幸に導こうとする悪魔的な策略でない限り、多くは人間に有益になるように企てられている。溢れるばかりの書物もやはりそうである。論争のために相手を間違いだと書き綴られているものもあるが、人間に不利益になる様なものが評判になることはない。しかし、人間に良いものがクリスチャンにも善いという保証はない。主イエスは「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」マタイ19・17(共同訳)即ち、クリスチャンには「善いこと」は、ご人格でいます神のみ、と主は制定された。主なる神に直接的でない善(良)いことは、私達を神の霊から引き離してしまう事にもなるのである。私達の持つべき掟とは何か?これが重要である。主イエスがそれを明らかにされている。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22・42)私の善(願い)ではない、神の御心を優先する事が「神の霊(聖霊)」と対立しないで神の国を来たらす。これが私達の「善いこと」であり、御霊に導かれることなのである。

 † 私が何者かになる?
それは、多くの人が志している。昔の戦時には「手柄をたて錦を飾る」事が日本男子の有りようとして高揚された。このように何らかのモチベーションが志を立てさせ人間を動かすのである。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」 ピリピ2・13)この聖句を啓蒙的に「積極的思考」に置き換えた牧師も出て、一世を風靡した事もある。しかし、人間の先在能力に力点をおいた信仰と言うものは、人間的には魅力だが、聖書的霊的な真実さから逸脱している。現代の風潮に併せた、神人共動節をを説きながら、信仰による人間の力を前面に引き出し、自らも人々の前に優位性を感じようとするならば、主なる神に全面的に従い平伏している姿ではない。キリストの死に併せられたクリスチャンならば「神の国と義とを第一に求める」マタイ6・33)神が第一になるために、神がみこころのままに働きかけられることに従う事を志とする。神の霊は、十字架に死んだ人において神の国は現われる。それで、その人には必要なもの全てが与えられると約束されている。
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「主の霊によって」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/4/23 8:00
 † 霊は主体性である。
人間は社会性や身体性を伴っている人格である。それだけにわかりにくいのが、その人の人間性である。仕事に対して、家庭に対して、人間関係に対して、その人が現れる。複雑なのは、その人の過去の生い立ちがどのようであり、どのような性格が心理学的に形成されてきたのかが加味される。そのような見えないものが人格を成しており、その人の「霊」となるのである。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」ヨハネ4・24)はっきりと「神は霊」であり、人間のような複雑に創られた被造物ではない。神は完全な永遠の主体性なのである。要するに非の打ち所が無いお方なのだ。神とは違う不透明極まりない私達が、神を信じる時なにが起こっているのか、キリストの十字架に合わさられ「私が死ぬ」ことである。その結果、神の霊に生かされる「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラ2・20)それで「御霊に導かれる神の子」となる。ここで明確にされているのは、「神の霊」が私の主体性なのだということである。クリスチャンは当然「キリストの様な人」なのだ。そうでない場合は、死んでいない自分が不自由に有ると言うことである。

 † 声を聞き分ける霊。
  「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」ヨハネ10・27) 多くの羊の中で「選ばれた羊」こそ、主イエスの声を聞くとされている。なぜか親の声を聞き分ける子どもと同じである。聖書は私達が、新しく生まれたものであることを語る。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」ヨハネ3・6)主イエスは肉体を持たれたが、神の霊に完全に従われたので十字架の苦難を経て復活を果たされた。主イエスは完全な霊であり復活されて完全な朽ちない身体なのだ。私達が主イエスを信じた時に、御霊によって神の子として生まれ、朽ちない身体に変えられているのである。確かに神(霊)に依って生まれているので、生みの親なる神の声を聞き分けられるのだ。信仰とは、生みの親なる主なる神との関係を親密にするものである。言葉を聞かなくても、近くにおられる事や、注がれている愛を感じることも出来るようになる。神の子として、多くの人の中に一人きりでも、主イエスに覚えられている。尽きせぬ幸いの中にいるのである。
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「主の霊に依って」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/4/16 8:00
† 主の霊と共にある。
  主にある。ということは聖霊も共にあることである。私達クリスチャンは、空気に包まれているように、主の御霊を離れて存在しない事を確認したい「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」詩編139・7-8)とあるように、主の中に、主の霊の中にある。これほど幸いな事はない。私が感じるか、感じないかが重要なのではなく、主なる神がそのように私達を、ご自分のものとして下さっていることが重要なのである。信仰の平安や落ち着きと言うものは、私の自意識や感性による自覚ではない。神の真実と御言葉の確証にある。一時期のことだが、異言を語れる人が、語らない人より優位性を持つ。と言うような理解が広まったことがある。考えてもわかることだが、神の賜物は全て異言を語る人々の所有物ではない。全てクリスチャンは、神の中に、御霊の中に浸されていることを聖書は明言している。この事実を喜び感謝する信仰に、霊的賜物が伴って来るのである。

† 主の霊の導き。
 牧師のみならず、全ての信徒に共通することは「主の導き」があると言う事である。これは「聖霊の導き」でもある。主イエスは「聖霊に導かれて荒野に昇られた」マタイ4・1)ことに、私達には「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)「・・・・御霊に導かれて進もう」ガラテヤ5・25)と、語られている。要するに、導かれるためには「主に委ねる」ことである。決定を下すのは私なのだが、主なる神を優先順位に置くことである。教会というものは私達のものではなく、主なる神のものである。という事を強く教えられる「聖霊の導き」を体験した。一つは、新会堂を建てるに及んで許可を得ていた用地が急に駄目になった。しかし、不可能とあきらめていた隣地が与えられ、旧館と接続して新会堂が出来た事。もう一つは、話が進んでいた300坪の田んぼの持ち主が、突然手のひら返すように話しが変わった。主の計画がある。これには悪いことではない。と、公言した。実に、その年の12月、クリスマス献金を初めて届けるため、地域の会長を尋ねた。すると、この方は牧師の家のとなりの田んぼの持ち主で、田を売りに出すと話されたのである。このタイミングは聖霊の導きである。430坪の土地に大きなミッションセンターと駐車場が現在工事を進めている。ハレルヤ!
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「主の霊に依って」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/4/9 9:03
 † 御霊の人と思うなら。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」ガラテヤ6・1)この文章には「御霊の人」であって欲しいという願いが込められている。前節5・24-25「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」と、懇願しているからである。主の霊に生かされいる実際性は「・・・・キリストの律法を全うしなさい」ガラ6・2)ということである。霊という言葉は「幽霊」のように見えない故に「霊・御霊」を語るだけでは危険極まりないものである。必ず前掲のように「御霊・霊=御言葉の業」が一対で、語られるのである。「自分は霊的である」と思うなら、何を持って証明できるか?本日の御言葉の中には「柔和な心・・・・」「誘惑に負けない」「互いの重荷を負い合う」ことで、キリストの心(律法)を全うすることになある。その前に十字架に死んでいる私がある事だ。御霊の人(霊の人)とは、そういう人だと聖書は教えている。

 † 神の霊は見分ける霊。
   「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい」 1ヨハネ4・2)キリストの受難とは、私達人間の罪を贖うため、人となられた救い主が、肉体を打たれ痛みと苦しみの極限に追いやられ、罪人として極刑に処せられる一連である。この有様を「大往生」を書いた永六輔は「お釈迦様は安らかに大往生デスよね。・・あんな死に方いいなあーておもいます。較べちゃーいけませんけど,キリストの死に方は痛そうですね」と語ったことを思い出す。日本人好みか、どうかなどは問題外で大切なのは「天地創造の神の霊」によるのか?違うのか?の問題である。日本の精神史や文学で、亀井勝一郎を知らぬ人はいないと思う。私は、彼の聖書の講解にいたく感動した事があった。しかし、彼曰く、私は仏教徒である。と、聖書に精通しながら「人となって来たイエス・キリストを告白」出来ないのである。学者や知識人に、この類(タグ)いが多い。だからこそ、人の霊が「神からの霊」かどうか真贋を問わなければならないのである。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です」1ヨハネ4・3)この峻厳さを私達は持っている。
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「主の霊によって」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/4/2 10:07
 † 痛みと苦悩の霊。
私達の信仰がいかに形骸化しやすく、無感覚で、無感動になりやすいか、恥じ入るばかりである。二週間後にはイースターを迎えるが、主イエスの受難の奥深い意味があって復活が一対として光り輝くのである。使徒パウロが言うように「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」1コリ1・18)十字架の言葉とは「キリストの受難」ではあるが、神が人間となられる驚くべき受肉の秘儀があった。神の義が一点の曇りもないように、主なる神はご自身の独り子イエスを、人間の罪のいけにえとされたのである。これによって悪魔も、死も、罪も、神の義に完全に打ち砕かれたのである。私達は、主イエスの受けられた十字架の苦しみとその言葉に、深く思いをよせ祈りの時を持つ者でありたい。神の霊は創造の初めから神の聖歴史を通して、今の私達に触れられている。主の受難を特におぼえ、主なる神に敬意と畏れを持って思いを馳せる者には、神の霊(主イエスの霊)を悟り、感じられるようになるのである。

 † 霊的な間口。
一番大きな間口(マグチ)とはどのようなものだろう? 私の思い当たる最大の間口は、神が開かれた「天の窓」である。それは霊的な最大の大きさを意味していると思うからである。それは天上のものが地上と繋がる事であり厳かな事柄である。「・・・・彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」創28・12)そのようにして、主がヤコブの傍らに立たれた。13)天の開かれていることは、大きな祝福を意味しているのである。エソウの追跡で恐怖のまっただ中にいたヤコブに、天の祝福が約束されていることを確信させたのである。ここで私達に第一に求められることは「上を見る」事、主イエスにより天は開かれているからだ「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」エペソ1・3)これは、「主の霊によって」成された。だから、そのように信じる人に「天は開かれる」天にある全ての祝福で祝福される。
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