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牧師の想い

牧師の想い - 201703のエントリ

主の霊によって(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/3/26 9:16
 † 新しい次元に。
  何をやってもさしたる変化がない。この感覚は「日本銀行」の事のみではない。霊界である教会においても通用する。毎週に新台入れ替えをして満客をもたらしている遊技場とはずいぶん異なる。神の言葉を握っている(握りしめている)クリスチャンとしてはずいぶん歯がゆい思いをしているのである。なぜ人々は最も大切なことに無関心なのか?日本においては、一バーセントも満たないクリスチャンで、仕方がないとあきらめるべきなのか?そういった世界にクリスチャンは生きているけれど、実は不足を感じないでいるのである。なぜならば、自分の事と家族や、身近なものが平穏であれば良い。それ以上を考える事は苦痛であり、不快である。このままで良とすれば何も問題はない。としているからである。これを続けて2030年には、現在の会員数の30%に縮小すると言われるのも仕方がない。神に目ざめる教会、神の霊に目ざめる教会になる事だ。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる」ゼカリヤ4・6)それは、新しいことが起こるために神が、自己顕現をされるという確かな約束なのである。

 † 神を見直すこと。
エゼキエル37章を開くと「枯渇の骨の谷」に立たせられる。死の勝利、絶望と人間的可能性がゼロの所に置かれることである。教えられることは「死んだ人を生かし得るか」という神の問いである。私達は言うに違いない「私は神様について聞かされ、神様を信じています。それで、私達人間には出来ません。」と、そして否定的に「神様には出来るでしょう」と言うのである。不可能の現実に打ちのめされた場合、私達は「神にも出来なかった」と思うのである。しかし信仰というものは違う。アブラハムについて「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」ロマ4・21-22)アブラハムは「約束」を、絶望と不可能の中で、疑わなかった。私達には、こう言われる「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか」ヤコブ4・5)神の霊は私達の中にただ住まうのでは無い。私の信仰宣言を待っておられる。神を見直すには、御霊(聖霊)様に働きを与える私達の信仰的命令が必要なのだ。即ち御霊の活動を信じて命じる信仰(預言)がいるのである。新次元の教会を建て上げる鍵になると確信している。
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「神への位置」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/3/19 8:00
 † たたで受けただで与える。
主イエスを見つめればわかることだが、死に至るまでの従順をされて得られた宝を、私達には「ただで与えて下さる」死にもの狂いで獲得した宝を私達は知りもしない人にあげるだろうか、しかも無償で。私には、そのような奇特(キトク)さはない。「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」マタイ13・8)この聖句には主なる神から頂いた賜物について宣べている。さらに言えることは主イエスの福音を指している。キリストの復活と十字架と共に、死人を生き返らせる等の神のわざを、ただで与える。何事もただで与えられたものは、ただで与える事を求められている。神の器と言われるような人が、しばしば陥る罠は「ただで」受けた事を忘れ、特別な自分を演出することである。自らの固有の賜物とするところから徐々に破綻が始まるのである。徹頭徹尾心すべきことは、どのようなしるしも不思議も、ただで受けたものであり、ただで与える。これが神への位置である。

 † いずこにありても天国。
インマヌエル(神我らと共にいます)と言うことが、救われた者の結果である。主は遠くにはおられない。私と共におられる。聖歌467番に「いづこありても御国の心地す」と言う歌詞がある。まさに救いの喜びというものは、いずくにありても御国(天国)なのである。多くの人が生き生きと信仰生活をしていたのに、年を経るに従って教会の奉仕から退き喜びのない顔つきになり、生気を失って行くのである。これは奉仕や働きを信仰と見なして居るからであろうか?では、信仰のまことの喜びとは何であろうか?信仰の原点を尋ねるならばインマヌエルに帰ってくると思う。私達の教会ソングには「何をしてもしなくても私達は一つ」と賛美する。奉仕をしょうとしまいとに関わらず「いずくにありても御国の心地す」と言うのが、この世に生きる聖徒の、あるべき信仰の位置である。聖歌467番2節には「かなたの御国は御顔の微笑み 拝する心の中にも建てらる ハレルヤ!罪とが消されし我が身はいずくにありても御国の心地す」日々の礼拝に御顔の輝きがある。ハレルヤ! 
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「神への位置」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/3/12 8:00
 † 愛を喜び生きる。
 私達が救われた最終の目的は何か? 明確に答えられることはなかなか難しい。このため、そのため、あのためといろいろでてくるだろう。目標は様々あっても良いが、目的にはいくつかの目的はない。そう、一つとしたら何か? 多くの学びをし、多くの本を読み、多くのセミナーと、多くの説教や講義を聴いた。みな正解であり間違いなどなかった。これは、要するに主なる神は全てを必要としておられることを意味している。しかし、主は言われた「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10・42)に関連して、それは主イエスとの親密さを言っている。親密さと愛においては「雅歌」がその内容を示している「IHOP(インターナショナル・ハウス・オブ・プレイヤー)」創設者マイク・ビックル師はビンヤードの牧師であった。彼は英語で出ている全ての雅歌の註解書を学び「キリストの花嫁(私)を恋い慕われる神の愛」こそ自分の位置であるとした。「神のお気に入りの恋人(私)」が救われた目的である。これが全世界に広がっているムーブメント「主の御顔を慕い求める祈り」の根幹である。私達は真理に向い一つの目的とは?と、自ら求め動き出す時が来ている。

 † 順境と逆境の時。
   「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7・14) 日本国民は敗戦直後、何もない逆境にあえぎ苦しんだ。現在はどうか、なんでも豊富にある順境にある。これは物質的面から見ればの話である。しかし、人間は精神であり、霊的な存在である。苦痛に感じ、悩みに感じることは物質のみによるのではない。聖書は明快に「順境の日には喜び」とせよ。と言っている。折角の平安、祝福に顔を曇らせている時ではない。感謝し神を誉めたたえる時である。「逆境の日には反省せよ」と言っている。もしかしたら順境に浮き足立ち、神に依り頼む事をしなかった事を反省することかも知れない。「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩30・5) 私達は順境も逆境も知り尽くしたダビデに聞くのである。「私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない」詩30・6) ここでダビデは順境の時にも逆境の時にも「私は決して揺るがされない」という主なる神への依存を明確にし、順境と逆境の時の「位置」にしているのである。
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「神への位置」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/3/5 8:00
 † 信徒総会の位置。
総会とは創意と総意が伴うものである。もう一つ揺るぎなくあるものは教会が培ってきた現実の姿である。その姿が宣教的な理想を保っているならば総会に色濃く反映される。しかし、宣教色が淡く現状維持色が濃い場合は未信者を意識した伝道の内容は蔭を沈める。日本の教会の霊的現状は教会に集う信徒の平安と祝福に多くが向けられていると思う。確かに教会に集うものに平安と祝福は望ましいことは言うまでもない。しかし、それは教会が内向きに作用していることを現している。可児福音教会も霊的な視点を教会内活動に重きを置き、それだけを一杯にすると、後に大きな付けを支払はなければならない事になる。要するに地域への具体的な伝道が全く出来ない(思いつかない)ようになってしまうのである。現に多くの教会が教会の外に向かっては、手足がないかのごとく術を失っている。信徒総会は教会の現状を現すものであり、現状を理解し何を目ざすべきかを信徒総意で心を一つにすべき時と場所だと思う。

 † 霊的健康の維持。
「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12)今健康であると言うことは倒れる可能性がある。と言う事である。肉体的に通用し、霊的信仰的にも通用するのである。肉体的な健康に関しては日本の全メディアを通して、執拗に訴えかけているので情報に欠けることはない。それぞれが自分の健康状態や体調に応じて病に倒れないように身体を鍛えたい。霊的な健康とはキリストの身体にある肢体(兄弟姉妹)との交わりの健康である。神を信じている者は、誰もキリストに躓いたり、問題だとは言わない。大方は「教会に・○○さんに問題がある」と言うことだ。信仰があると自認する人に必要な事は「忍耐と寛容」である。もし、赦せない思いが留まると「霊的健康」は崩れる。失望し怒りに支配されると倒れる寸前である。愛せない、赦せない、祈れない時は危険信号である。倒れないために、牧師の導きを受け、リーダーのアドバイスを求めよ。あなたが倒れる前に、霊的な健康の位置を認識して行動すべきなのである。
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