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牧師の想い

牧師の想い - 201702のエントリ

「神への位置」(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/2/26 8:00
 † 初めが肝心ということ。
自分の事をたたき台にして、諸氏の判断や相違を感じてもらうことは無難な方法と思う。信仰に関して、即ち主なる神との関わりと言うことで、どんな関わり方を始めメニ持ったかが大きいと思っている。ある人はそう思わないかも知れない。私の今あることを思うと、初めが肝心であると思う。神を宇宙創造の神と教えられ(聞かされ)知った時、それは片隅の知識(事柄)では済まされないこととなった。私にとって聞かされることだけでは不十分であった。「そうらしい」では、とても満足出来なかった。自ら確認する事を求めて、自ら探究しなければならないと考えたのである。主なる神にたいして曖昧な態度と考えで受け入れることは「イワシの頭を」神と信じるのも同じだと思えたわけである。これが私の「神への位置」であり、神と関わるために立った場所である。神を知(識)る事、リンゴを食べて味を知るように神を識る事が、生きる最大の目標になったのだ。私は今でも、もっと神を識るために生きているが、人生とは神を識るために生きる事だと思う。「捜しなさい。そうすれば見つかります」マタイ7・7)それが最初から始まり聖霊に導かれて、驚くべき神を識る事になる。私の様な主なる神との取り組みは、あなたと同じだろうか?

 † 信仰の刷新(リニューアル)とは。
私達の考え(思考)が私を成り立たせている。だからあなたの、私の思考が最も重要である。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)と、言われるゆえんである。信仰はどんな思考を持っているかで現れる。隠れて故意に罪を犯す様な人でく、礼拝を重んじる人はまともなクリスチャンである。リニューアル(刷新)される信仰とは、聖霊の充足、神の愛の充足が、その人の思考を満たし神の平安に身を置くことである。別の表現もあるかと思うが、主なる神との濃密(親密)な関係に入ることである。「マリヤとマルタ」ルカ10・38-)の物語において、マルタの思考とマリヤの思考に大きな違いがあることに気がつく、マルタは自らを持って神の御子を喜ばせるために一心に働いている。このスタイルが「神に愛され、喜ばれる」という思考なのである。一方マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」39節)主の足下とは、触れ合うほどに近くということである。主イエスは、それを「どうしても必要な一つ」だと云われている。即ちあなたが、マルタのような思考を持っているなら「主の足下に座る」思考に変えることが信仰の刷新となり、そこにある聖霊と神の愛の中に入るということである。
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「神への位置」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/2/19 8:00
 † 居心地の良い場所。
私は常に居心地の良い場所を求めている。機嫌の悪い人のそばには出来るだけ居たくはないので逃げ出したい。本当はそばに居て上げるべきなのだろうが、それほどの聖人ではない事を現している。私達はいろいろな人に対して、それぞれ違った距離を保つ者である。自分に有益な者に対しては特別な近づき方をして距離を持とうとするが、不利益な者に対しては、何も関しないという距離を置くのである。私達はそういう位置取りをして生きている。もちろん、内向的な人、外交的な人でずいぶんと違うが、それぞれに居心地の良い場所がどこか知っている。家族間でも見られるように全員が居心地の良い関係と言う訳でもない。では、主なる神との居心地の良さはどれ程であろうか? どう言う位置関係にあるか? どう言う意味の距離をおいているのか? 要するに、主なる神との距離の置き方が位置を示し、その居心地の良さが、その人の霊的な内容を示しているのだと思う。聖書は「神に近づけ」ヤコブ4・8)と云うが、私達は往々にして距離(間)を置きたいと思っている。これでは「神はあなたがたに近付いて下さいます」ヤコブ4・8)とはならないのである。

 † 一直線である。
  最も幸いな人は、与えられた道を一直線に走り抜ける人である。近頃ではクリスチャンになる最も多い年齢が14才以下とも聞く。確かに私が19才で救いを受けたが、もっと早く聖書を知り、主イエスに出会えたら良かったと思った。例えば、10才で救いに預かり、それから一直線に信仰の大路を歩み、祝福された人生を生きる。この様な次世代を生みだすのが、私達の教会のビジョンである。私は、キリスト教的な文化も背景もない異邦人としてまことの信仰に至るには苦労し、長い戦いを強いられた。次世代の信仰の歩みは直線的で素直で大胆さが伴う信仰内容となる。そのためには世の中をより良く理解し、キリスト信仰を知的に言い表せる強靱な鎧をまとい、堂々と、わたりあえる信仰が必要になってくる。世の中には名だたる論者が居るが、キリスト教界からもそういった人が現れている。さらなるためには、まず教会の牧師やリーダーが知的にも強くなること。世の中にたいして証詞が成り立っているクリスチャンであること。そのようにして教会は直線的な力を次世代に与えて「世界中を騒がす」使徒17・6)若者を生みだして行くのてある。
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「神への位置」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/2/12 8:00
 † 福音中心である。
   福音という事を「神学」的という意味で難しく考える必要はない。福音は聖書に最もわかりやすく書かれている。とりわけ、主イエスの言葉と行動が福音の全てを語っている。日曜学校で単純明快に告げられる内容が福音である。福音は教え以上に実際であるので信仰がないと難しくなる。信仰がないと主イエスと同じように愛せず、理解できず、行動できないからだ。信仰とは「神への位置」そのものであるが、信仰は理論となり、教条となり、口先の教えとなり、歪みやすい。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」1ヨハネ3・13)行いと真実をもって、と言うことは「キリストと同じく」と言う意味であり、キリストに生成(実存)していることである。キリスト信仰には、本来、主なる神と私の間にすき間がない。自動車の加速器(ギアー)と同じく連結している。今、生きておられる神と、今生きる私が、神の恵みと真実の中を生きることなのである。信仰とは今の世に在って神とのリアルな共存なのである。

 † 福音中心の教会。
先日の教職者セミナーは、日本の教会にとってタイムリーであった。その最大となる意味として「福音中心」と言うことは、国や民族、その歴史に関係なく福音は一人の救いのためにあるからである。福音中心とは「・・・・だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」マタ13・12)福音とは、救われた99人、990万人を残してでも失われている一人のために惜しまない労苦をするのが福音なのだ。教会はそうする「一人の救いのためになんでもする」それが福音中心の教会である。私達可児福音教会は、そのようにして進んできて今日があるのである。それと違った考えを持つなら福音中心とは何かを吟味する必要がある。私達の活動目的は、何をするにも何を建てるにしても、福音中心である事だ。なぜなら、福音中心であるなら、主なる神はあらゆる健全さを用意して、導いて下さるからである。
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「神への位置」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/2/5 8:00
 † 何を認め信じるか。
   8000の日本の教会の信徒は30万人と言われる。その一方で「ものみの塔」の信徒は唯一日本ではクリスチャンを上回るそうだ。こういった現実を踏まえつつ、教会において何が大切となるか問いたい。それは教会における役職であろうか?ミニストリーを持つ事であろうか?教会での奉仕か?地域での果敢な伝道であるか?ほかにも、もっと尋ねる事が出来る。そこで、一番大切なことは「神に対する」私の位置、即ち神をどのように(誰だと)信じているか、と言う事である。私達は教えられたところの「建前」では神の事を最大限に言う事が出来る。しかし「本音」でも、同じく信じているのだろうか?「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう」ヘブル6・2) 主イエスは現代にあっても王であり、勝利者である。私達はキリストをあらゆる勝利者として適応しているだろうか?それが私達の信仰よる神への立ち位置となっているだろうか?

 † 救われた場所。
場所のイメージは、「その時の精神的状況・社会的に置かれた環境・心理的な感覚」そういった意味を持つ。ヨセフがパロの前に立ち夢の解き明かしをするまでの長いストリーも、様々な「霊的場所」を通っている。私達は「何から、どこから」救われたかによって、信仰の内容が、その人の生き方が決まってくる。ヨブのように誰にも理解されない深い苦しみの場所にあったが、神の顕現によって解き放たれると、その信仰は完全に完成された。「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」ルカ7・47)私達は救いの深さ、大きさを、どうしたら持てるかと云えば、運命や宿命によって味わう人間の罪(原罪)の忌まわしさに 置かれている苦しみを嘆き。生きる途上での犯した罪を自戒の思いで悩む。そんな場所でキリストに出会い福音を聞く時、私達はサマリヤの女のように町中にキリストを言い広める程の解放の喜びを持つ。深く重い多くの罪が赦された「場所」を持つからである。その結果、主イエスを切実に愛する事が出来、人生には「愛の位置」が根ずくのである。
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