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牧師の想い

牧師の想い - 201701のエントリ

「神の出来事の中へ」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/1/29 8:00
 † 神の言葉に生成する。
   私達ビンヤード教会は聖霊によって生みだされた教会である。20世紀初頭の「ペンテコステ運動」1960年代からの「カリスマ運動」の展開、次に「聖霊の第三の波」が起こり私達ビンヤードの群れは、その源流に位置する。その特徴は「しるしと不思議の伝道(パワーエバンジェリズム)」であるが、「信仰の刷新運動(リニューアル運動)とされる。信仰と教会の刷新運動で福音派に浸透し、ペンテコステ派、カリスマ派の教会を大きく変化させた。私はその流れをつぶさに見てきた者である。日本での「聖霊の第三の波」にあるファースト・ビンヤード「可児福音教会」は独自の視点を持ち、未来に立って行く教会になり得ると信じている。ただ、後続のリーダーの知性と学ぶ力によって大局的な見方と、現実的な方策が与えられる。さて、ありのままとは「何もしない」「何もしなくて良い」と言う意味ではない。信仰を与えられた者は、誠実に真摯に主イエスを呼び求めて生きる事は前提である。それが「信仰のありのまま」なのである。聖霊なる神は、そういった神に餓え渇く、ありのままの人に圧倒的に臨まれ、満たされる事を肝(キモ)に命じ忘れない事だ。

 † 神の言葉に生成する。
   世に多くの大学があるが、もともと大学設立の目的は「神学」と「医学」と「法学」のためであった。第一位に置かれたのが神学で、人々に神の言葉を正しく伝え、救いを与えるためである。現代でも総合大学と呼ばれるには神学部が必ずある事と定められている。日本ではずいぶん変形した形になっているが忘れ去られている訳ではない。私達クリスチャンは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」1ペテ2・2)即ち、御言葉を慕い求めなければ命を失う者なのである。これが聖書の解釈(神学)にも適用される。アカデミック(学究的、学問的のみで、実際的に欠ける) ものではなく、御言葉の研究、解釈に生成(実存)することが求められる。御言葉に自分が生きて(生成して)いない者が、人に教えようとしたり、御言葉を語ろうとすることは、聖霊を侮る事で、赦されない罪(マルコ3・29)にも繋がる。「神の出来事の中へ」という重要性は、実は初歩にして、最終の目的を持っていると思うのである。
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「神の出来事の中へ」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/1/22 8:00
 † 生きる事を一元化する。
  私には、どのように生きるかについてはいろいろな選択肢がある。これを多元的な道があると言い直すことが出来る。それが整理されて二つの道にまとめられたとする。ずいぶんと集約された訳である。しかし、一元化されたとは言えない。新島襄のように創世記の初めの言葉「元始(ハジメニ)に神天地を創造(ツクリ)給えり」を読んで、神を信じ生きることを決められた人は稀(マレ)である。多くの信徒は、自分と自分の未来を神に委ねるために、恐れおののきつつヤコブのように(創世記32・24)神と格闘し、遂に時いたって一元的信仰に達するのである。一元的に神を信じ、生きると云うことは、全人格的な戦いを通して得るものと私は思っている。社会性もない時の「信じる信仰」と、生き方において一元的に神を信じる五十代の「信じる信仰」とは、意味内容は異なる。自分と人生を賭(カ)けてキリストを信じる事が真のキリスト信仰なのだから、教会はこの信仰を「格」とし、教会の「目」として見つづければ、信仰の命を失うことがなく、神の出来事の中に留まり続けられるだろう。

 † 神が脇役に回られる。
  聖書の真理の面白さは、私達と密接に関係づけられていることだ。主イエスのなさりたいことは、私達を前に立たせ主役にしたいと願っておられる事である。もちろん私達は質的に罪人であり、神と等しくあるはずがないし、神を差し置いて前に出れるような者でもない。しかし、主は喜んで私達を前に引き出そうとされる。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」ヨハネ14・12)主なる神は、御子をも惜しまれないほどに私達を愛しておられるからである。(ロマ8・32)そのため、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」ヨハネ15・14)となるのである。神の出来事の中で驚くべきことは、単なる友とされるのではないと言うこと、主イエスの業を行わせていただけるということである。そして、さらに大きな業を行うのだ、と云われていることだ。真摯に主の御心を受け取り、十字架に死んで生きるなら、誰でも主によって主役に立てられるのである。
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「神の出来事の中へ」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/1/15 8:00
 † 私という大事さを捧げる。
  アメリカに新しい第45代大統領が誕生する。その名はドナルド・トランプ氏だ。アメリカ国民は「自分を」トランプ氏の手腕に捧げたのである。それほど異色の大統領なのだ。こういった賭けにも似た選択というものは、ある意味で一時的で、4年後には大統領の実績が評価され、吉だったのか、凶だったのか明らかになるからである。このように地上の出来事は様々な人物の登場によって翻弄される。今日の世界の不安と緊張はそれを物語っている。さて、神の物語とは、天から直線的に下ってきた真理の現実の物語である。主イエスに出会った者は、信じて救われる。信じる(信頼する・委ねる)事は、主イエスに自らを捧げる事に通じる。信じると言うけれど「自らを捧げる」という、真(マコト)を抜き去って罪から、死から救われるとしている。自分を捧げず(取って置いて)信仰生活を送ろうとすると、たちまち自己矛盾に遭遇し、二兎を追う精神状態になってしまう。要するに煮え切らない人生になってしまうのだ。主イエスを救い主と信じて選択したならば、主イエスに自らを捧げる(委ねる)ことを至上の事として祈り、前に向かって進むことは、至極当然のことだと決意したい。

 † 真理に照らされて成長する。
  幼子を見ているとよく分かることがある。例えば、たいへん危険な道具(するどいナイフ)を振りかざしながら遊んでいる。まさにハラハラもので、取り上げようとすればするほど嫌がり、もっと危険なナイフを振り回して動き回るのである。どうするか?その子供には、もっと興味深いおもちゃを持ってきて見せるのである。すると、その子はナイフを離して、面白いおもちゃを手にするのである。幼子らしい愚かさに見えるが、私達クリスチャンの成長と、よく似ていると言えるのである。成長とは、何かが出来るようになること、聖書を学んで覚え、教えることが出来る事を含むが、大切なのは、聖書の真理の壮大さに目が開かれ、新しい感動に覆われること。神を知れば知るほど神を畏れ、それが生命となり喜びとなり感謝となる生活がまことの成長である。子供が次々とおもちゃを変えて成長するように、クリスチャンは聖書の真理に照らされて、次々と新しくされ、キリストの身丈にまで成長して行くことが目標とされるべきである。
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「神の出来事の中へ」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/1/8 8:00
 † 私は主に生きる。
  昔の聖徒は「私と私の家とは、主に仕える」ヨシュア24・15)と、会衆に叫んだ。私一人ならまだしも、多くの息子夫婦やその子供達を「主に仕える」ものとして決定して語ったことになる。もし、こんな風に宣言できる一族、家族があるなら幸いである。神の力ある物語が家族の中心に生命として働くので出来る事なのだ。使徒パウロは「生きる事はキリスト」ピリ1・21)と明確に宣べているように、神に召されるならば、誰でも信仰の高嶺である「生きる事はキリスト」となれる。御言葉と聖霊のお働きはそのためにあるからである。使徒パウロを始め、名だたる聖徒達は神のロボットとなったのではない。真の自由を与えられ個人としての権利を持って、生きる事をキリストにしたのである。主キリストは「私に従ってきなさい」と言われるが、嫌がる者や、恐れる者を無理やり従わせようとはされない。人間である事を真に悟り、信仰を悟るのでなければ、真の自由は生まれない。従って、神の現実(物語)の中に生きる権利も喜びとしてわからないのである。今年こそ人生の高嶺を求めようではないか。聖霊なる神に導いて下さいと祈ろうではないか。

 † 一人でも立つ。
  教会の幸いは、多くの同信の兄姉によって支えられることである。大規模な教会になれば学校を併設したり、高齢者施設を設けたり、人々のニーズに答えようとあらゆる専門的な働きをする事が出来るのである。聖書が言うように「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」マタイ13・12)この日本においては教会が小規模なので、本当の意味で人々の必要に答えられていないのである。しかし、教会の成長が、より多くの人々の必要を満たす働きを実現できるのである。この小規模の教会が成長するには、個々の一人一人の信仰の成長にあるのである。冒頭に書いたように、多くの人々に支えられて信仰が保たれる所から、真の独り立ちをすることにある。即ち、誰も真実に神を愛さず、誰も潔さを求めない信仰生活をしていても、一人主と共に立つ人になる事である。聖書が云う「選び別たれた」人になれるのである。名実共に神の人となれるのである。そのように、今あるこの時以外に飛躍するチャンスはない。孤立することではなく、真の単独者として神の前に立つ亊であり、いま求められるリーダーの姿なのである。






 
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「神の出来事の中へ」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2017/1/1 8:00
 † 新年は信念である。
   New Year (新年)世界共通の一月一日であるが、ユダヤ暦では2つの正月があった。初めは収穫を終わったチスリの月(七月)太陽暦の9-10月に新年祭があった。バビロニア捕囚期にはバビロニア暦に移し新年祭を春のニサンの月(太陽暦2-3月)にも行った。そして次第にイスラエルの最も重要な大贖罪日が、秋の正月10日に守られる事になった。(レビ25・9)新年祭には契約の箱を先頭に行進行列が行われ、来る一年を主なる神がイスラエルを統治されることを現す、儀式が行われた。日本人も正月を重んじて神社仏閣に詣でるのも同じような意味を持っている。しかし、私達は聖書の生きた物語の中を生きる「選ばれた人種」となっので、特別な信念を持って2027年を生きる者である。イスラエルが「大贖罪日」を重んじると同じように、正月の元旦を、主イエスの十字架と復活を崇める「大贖罪日」とすべきである。神の御業(神の物語)が2017年にも限りなく私達と共にあるために、身を引き締めて、主なる神に聞き従う決意を信仰とし、一年を貫く信念とすることだ。

 † 原動力を失わない教会。
  エンジンのない車はあり得ないが、エンジンを失う教会はあり得る。伝道・宣教の失われた教会は、グライダーのように次第に終息して行く。年間に13バーセントの新しい人々(受洗者・求道者)が無い教会も、いくら居心地が良い交わりがあっても下降を辿って行くことになる。教会は少数派と言われ、それで良いんだと安易に受け入れたら危険きわまりない。その教会は、現状を打開して行く手だても考えない様になってしまう。私達は根本的に「自分が良ければ」それ以上を望まない(労苦や犠牲を払わない)自己本位の動物なのだ。神の働き(神の物語)は教会にとって明白である。1)福音を宣べ伝える事。2)信じた者に洗礼を授け弟子とする事。3)全世界に出て行って福音を伝える事。このロータリーエンジンを持つのが教会である。宣教に始まり宣教に繋がる循環を繰り返すエンジンを持つのが教会である。そのようなエンジンを動かすエネルギーは何か、もちろん神の信仰を持つ事である。その信仰は、祈りを必要とする「天に御心がなる様に地にも成させたまえ(主の祈り)」という神との格闘を伴う祈りである。
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