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牧師の想い

牧師の想い - 201612のエントリ

「神の出来事の中へ」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/12/25 8:50
 † クリスマス~生き方が変わる。
  私は自分が卑小な者であり、弱い人間である事を片時も忘れたことがない。なぜならば、それが本当だからである。世の中の標準では評価は低いことは言うまでもない。それは生まれ育ちから培われたものであり、私の気質や性格によるものである。また、それらを総合してもたらす劣等感も伴う。そういった私がキリストと出会って根本的に生き方が変わった。このことは、私にとってはオリンピックの金メダル、あるいはノーベル賞以上の重みのある値打ちなのだ。主なる神の憐れみによって、神の物語の中に引き入れ、生きる者にされた事の偉大さである。私は信じる。この生命のある限りどのように生きるかと云えば、まず人間の最大の叡智(エイチ)として真実に神を識ることである。次に神の真理に従って生きる事だ。職人であろうと、政治家であろうと、芸術家であろうと、差別はない、御心にかなう歩みが「神の栄光のために、平和のために」ルカ2・14)生きる事になる。またクリスマスは終末的な完全な平和の実現である。それは私達と共に永遠にあり続ける。

 † 人間中心ではない教会。
  教会の存在目的は限りなくある。その中心的な役割は「教会は人間中心」では無いと言うことだ。確かに主イエスは弱い人、社会からのけ者にされている人、病いや悪霊に憑かれている人々を顧みられた。すると、教会とはそういう人間の必要に終始するのかと云えば、そうではない。むしろそういう人々によって、神の権威(支配)と神の愛が主導する神の秩序が打ち立てられたのである。癒やされて、罪を赦されて、真の方向転換(悔い改め)が、教会を神中心(神の秩序)を権威としたのである。それを主導するのが牧師(リーダー)である。この年の終わりに、この重要性を確かにしておきたい。教会に異質な流れを生みだすものは、不十分な悔い改めしかない人間性からくるものと、自らの低い信仰や霊的なレベルからくるものがある。悔い改めず罪を隠している者が、恵みとか、聖霊の臨在とか言葉にしても、自分の行為を偽るような動機からである。「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」ルカ1・50)とあるように、私達が主なる神の聖い権威を教会の中心にして、憐れみ(神の出来事)が、起こされ続けることを信じるのである。
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「神の出来事の中へ」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/12/18 8:00
 † 成せば成る。
  『為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり』上杉鷹山(ヨウザン)の有名な家訓。財政破綻の米沢藩を「東洋のエデン」とまで言わせるまでに立て直した偉大な大名である。日本の基督信徒として第一人者の内村鑑三は、世界に向けて英文の「代表的日本人」とい本を(1908年)出版した。代表的日本人5人の中に、この上杉鷹山が取り上げられている。驚くべきことに、米国のジョン・F・ケネディ大統領が、当時の米国の財政立て直しに当たって、この鷹山から学んでいたのであった。キリスト者内村鑑三の世界に於ける影響は偉大というほかないが、かえって日本人が知らないでいる。冒頭の鷹山の言葉を可児福音教会の骨格にしたい。次のようになる「やればできる(可能性があります)やらなければできません(可能性ゼロです)「できない」というのは、やらないだけなのではないか。・・・・主なる神は、私達のために「無から有を呼び出される神」ロマ4・17口語)なのだから信仰を持って行わなければ、何も生みだしたり、造り出すこともないのだ。一丸となって成して行こう。

 † 神の出来事と私達。
  神の働かれる世界(統治゠神の国)が、地上に実現したことを云う。主イエス・キリストの受肉(クリスマス)は「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」ガラテヤ4・4)のである。世界が暗闇で混沌とした時代、いつの世もそうなのだが、神は人手に依らず、暗闇に天からの光を現し「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである」ルカ2・11)と、全人類に告げられたのである。このように、二つの出来事が平行している。一つは、人間の出来事である。もう一つは「神の出来事」である。 地上の出来事は移り変わり、はかなく死に絶えるものである。しかし、神の出来事は私達に及ぶとき「・・・・たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリ4・16)とされ、永遠の輝きに結びつけられる。このような私達が、人間の出来事の中で、最も影響力を持つ働きが出来るのである。即ち「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」 ヤコブ5・20)と、あるとおりである。
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「途上の坂道で」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/12/11 8:00
 † 途上で立ち止まる。
  ドナルド・キーンさんは、日本と日本文学を世界に紹介された功労者であり、日本を愛して日本国籍を収得された方である。ことの始まりは、ハワイ・オアフ島にある日本兵捕虜収容所で、日本語の通訳仕官として、日本軍の書類などを読み解き、機密を探り当てる任務に当たっていた時である。キーンさんは敵国日本と日本人捕虜に何の関心もなかった。ある時、キーンさんの心を捕らえたのは、日本兵が残した日記だった。「戦地で迎えた正月を13粒の豆を7人で分け、ささやかに祝う」そんな日本兵が、憎い敵の姿ではなく戦争で、死の極限に追い詰められた状況にある人間の姿だった。この事がなければキーンさんは日本への関心を持たれる事はなかったのだ。私達は「見ること、聞くこと、読むこと」よって、気付くこと、悟ること、挑戦することに招かれているのである。その時には、しっかりと立ち止まる必要がある。そして、改めて見渡すのだ。そういう人を、主なる神は待ち望んでおられるのではないかと思う。

 † 最後まで登り切る。
  意味のないことに生涯を傾ける人はいないはずである。しかし、意味を見いだせない場合には、長生きしても人生は無意味になる。そういう意味でも、神に選ばれ、神の国の働きに召されたクリスチャンは幸いである。この地上で大きな事業や、大きな働きの役割を持たなくても、クリスチャンの役割は光りのように重要で、塩のようになくてはならないものである。「私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」2コリ4・6)私達しか持ち得ない「栄光を知る知識」を輝かせることを最後まで持ち続ける事、これが「登り切る」ことである。山岳スキーヤーの三浦雄一郎さんは80才で三度目のエベレスト登頂を成し遂げられた。これを成功させるためには、求められる全ての準備を怠ることなく鍛錬された。人間の限界に挑戦される姿には、私達と同じ「ひたむきに前のものに向かって・・・・ 目標目ざして一心に走っているのです」ピリ3・13-14)がある。学ぶ努力や鍛錬を続ける進行形の信仰が、最後まで登り切る力となる。
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「途上の坂道で」(6)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/12/4 8:00
 † 途上の出来事。
  有名な「良きサマリヤ人」ルカ10章)は、途上の物語である。これによって試されない人は一人もいない。二つの選択肢しかないからである。今日でいうクリスチャンである祭司と、レビ人が登場する。この二人は自分の行く道の途上で、強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、殴られ半殺しにされている旅人を見たのである。どうしたか?高名な祭司もレビ人も、その旅人を見ると、その脇を通らないように反対側を「通り過ぎていった」のであった。まさしく、主イエスは、立派だと思って生きている人種を、かくの如く試される。私達の途上も同じ事なのだ。難しいこと、煩わしいこと、金がかかること、自ら犠牲になることを避けて、その反対の行動、反対側の道を選びたいのだ。面の皮が厚いとか、知らぬ振りをするとかして、私は私を守りたい(自己保全する)のである。ここでは坂道のことは出てこないが、反対側を通ることを通して、主なる神の御性質と真実と愛の反対側の「険しい坂道」を選んでしまうことになる。サマリヤ人は主イエスの真理の道を歩む人を現し、主の臨在が伴う人であることをあらわす。

 † 心の坂道を取り除く。
  聖書はあらゆる面で、示唆に富んでいる。先日、モーセのことに触れながら「モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた」出2・21)という御言葉が取り上げられた。・・・・ある事態に対して尋常では成し得ない様なこと、即ち、あまりにも自分には、険しい坂道である。と言う事である。言うなれば「私は決して登れません」という急斜面を、精神化した言葉なのだ。モーセは生活様式も文化も極度に違う、ミデアンのエテロの許で暮らすには「思い切って」心の抵抗を振り切ったのである。このように、私達には取り除けなければならない、こだわり、哲学がある。「私の辞書には書いてない」と言って頑固を貫く人もいる。しかし、主なる神に対しては「思い切って」従わなければならず、その時が必ず来る。なぜか?クリスチャンを標榜するならば、私は主人公ではないからだ。啓示の神の御業と御言葉(契約)にのみ救いがあり、私達は生かされる。生かされるとは、信じて従う、客体(二人称)であるからだ。畏れる神(主体)の求めに、無理だと思う心の坂道を「思い切って」昇りきるものとなろう。そして前進するなら祝福と栄光がある。
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