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牧師の想い

牧師の想い - 201611のエントリ

「途上の坂道で」(5)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/11/27 8:00
 † 下る坂道。
  坂には、上り坂だけではない。下り坂があり、もう一つ「まさか」があると言われる。私は下り坂のほうが難儀であると思っている。ジョギングしていても、下り坂の方が筋肉の張りを覚える。霊的、精神的な領域では、下にくだることは「砕かれる・へりくだる・無に帰する」という内容を受け入れることである。聖書の中心的なメッセージは「下にくだる」事とされている。主イエスは、神であられたが、神と等しくある事を固守すべき事とは思わず「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ピリ2・8口語訳)この事が自己の信仰の姿として見られない信仰は、木はあっても根がないも同然となる。間もなくアドベントを迎えるが、キリストをあがめる者でありたいならば、魂を砕かれて、へりくだる下り坂に向かうべきである。現代の信仰は神のもの、上からのものを求めるが、それを受けるには「根」が大事である。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩51・17)上からものはそこに留まる。

 † 途上で見えないこと。
ルカ24章には、二人の弟子が、エルサレムからエマオに下る途上の物語がある。興味深いのは、神の出来事(十字架と復活)が、今の今、実現したのに「話し合っていた」 のである。明らかに信じる事が出来ず、戯言では?と思っている。でなければ、エルサレムを離れることはない。さて、私達はイエスに出会って「救いを得た」そして歩んでいるが、多くの不確信のままではないか?教会で礼拝を受けるが、帰る途上では神の現実が自分の現実ではないかのように自問している。その姿がエマオの途上を歩く弟子に似ている。二人の弟子には復活の主が途中から伴い、二人の弟子に聖書の真理と復活の確信を与えられた。聖書はメッセージとして語られる神の言葉である。そして聖霊が働き聞く者に確信を与えて、その人に神の現実を持たせる。しかし、多くの人の「目はさえぎられていて、イエス[復活の主]だとはわからなかった」ルカ24・16)ように、いくら聞いてもわからない現実がある。自分の知性でわかろうとするからである。「聖霊様が、私に悟りを与えわからせてくださるように」と祈ることが、私達の必須の事柄である事を覚えたい。
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「途上の坂道で」(4)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/11/20 8:00
 † レーダーから消えた。
  私の牧師としての年輪は最初の3年目で区切りがあった。この遣わされた教会では、この間に多くの若者が集い若やいだ教会になった。献身者も起こり現在も4人が現役として教会に仕えている。しかし、このような陽の当たる環境から一転して、ゼロからの独立自給の開拓伝道に赴いたのである。2才と6ヶ月の二人の子供を抱えて、家計のため週日重労働(建築作業員)として働き、日曜日は礼拝を守り、午後は日曜学校を開いた。これが数年続くことになる。その頃、「細江達はレーダーから消えた」と、噂に上っていたそうである。要するにキリスト教界から消えたということである。思えば最初の牧会3年間は、今から考えても奇跡的な神の恵みであっし、それなりの評価がされていたわけである。評価の途上から、突如として、無からの独立開拓伝道という険しい坂道に直面したのだ。毎日の労働は危険を伴い、命を失っても当然という7メートル下に落ちる事故にもあったが、奇跡的に骨一本も折れなかった。坂道の途上では「無い無い尽くし」が長々と続く、しかし、主を見上げて歩み続けるなら「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―万軍の主の御告げ。―」ハガイ2・9)その栄光の現実を今、見させてもらっていることを感謝する。

 † 神の土俵の中に上る。
  信仰に二種類あるとすれば、次のように言いたい。「自分の土俵の中に神を招く」か「神の土俵の中に上る」かの二つである。私の信仰の葛藤は19才から始まった。入信して真剣に、清い者(潔い者)である事が、罪との関連において求められていると直感したのである。御言葉にあるように「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」マタイ5・8)それを可能にするは「真理の御霊」である。「・・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」ヨハネ14・17)このように御言葉を宣言して良いのである。しかし長年気がつかないで葛藤を感じていたことは、自分の中に神(真理の御霊)を感じたい、招き入れたいと必死で求め続けたことである。これこそが「自分の中(土俵)に神を招く」事であった。自分を土俵とすると、第一関心すべてが私なのである。「我思う故に我有り」私があって神があると言う世界である。しかし、今は「神の土俵に上る(私)」に変わった。神があり私がある。神ご自身の中(土俵)に上るのである。さて、あなたは信仰が逆転される途上に立っているだろうか? 
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「途上の坂道で」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/11/13 8:00
 † 抵抗を恐れずに。
  現在の小学生には決して赦される事ではないが、大変危険なことをしていた。小学校5年生頃の事だが、田舎には田舎の男の仁義があって、その挑戦に答えられない者は、意気地無しで男じゃーないと言われていた。今日のJR高山線焼石駅の岐阜方面最初の高さ10メートル、距離およそ30メートルの鉄橋を渡る事。もう一つは、続くトンルを通り抜けること。それをやり遂げると恐怖を克服した男という称号を与えられるのである。もちろん簡単なことではなく、子供心には大きな抵抗を感じながら前に向かっていったのである。こういう冒険的な遊びを通して学んでいったことが多くある。大雨で川が赤く濁り激流に変身する。あえて激しい流れに身を任せて百メートル位を流されるのだ。今では危険きわまりないけれど、生命の危険を回避するノウハウを身につけていたのである。川の激しい流れの中に立つと、激流の抵抗が襲ってくる。身をそらしたら流されてしまう。精神的、霊的な抵抗にも逃げないで、前を向く姿勢と心構えをすること。うしろを振り返ると流されやすくなる。身心を前に向ければ抵抗の中を通り抜けられる。

 † 真価を試されている。
  聖書が「まことに神の言葉」であるが故に、この日本におけるキリスト教会は、真価を問われていると思う。40年も前に日本の宗教界で最も関心を持たれているのは、キリスト教である。と、宗教学者達の言葉を聞いていた。「あれから40年」と、年は経たけれども、日本全体のキリスト教会は伸展する事はなかった。個々の、ある教会は教会を増殖したり、果敢な宣教で実を結びながら前進しているが、その比率は非常に少ない。私は、常に「途上である」ことを公言している。「これからです」可児福音教会もこれからである。常に坂道である。なぜならば地域宣教は進んではいないし、教会の霊的成長も不透明感が強いからだ。坂道に絶えうる霊的なエンジン(力)を生みださねばならない。聖書は明言している「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」マタイ18・19)何よりも、教会とは一人一人の信仰の真価が問われる。キリストの基準に適うようさらに精進してゆこう。  
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「途上の坂道で」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/11/6 8:00
 † 希望以上に信念を。
  ス-・チ-さんで親しまれる、アウンサンスーチーさんは、長い困難な道のりを克服して、ミャンマーの民主化運動を進め、現在は国家顧問となり大統領に政治上の「助言」を与える立場となり、事実上の大統領と見なされている。日本に来日され京都大学から名誉博士号を授与された。学生との対談の中で「民主主義であるためにはいつも努力をしていないと凋落する」ことを語られ。「戦い抜くためには希望が必要です。しかしそれ以上に信念が大切です」と、学生に答えておられた。まさにスーチーさんの人生の生き様から生まれた言葉だと実感できた。信念とは、信じている事が生き様となり実存となっていることである。私達の信仰も信念に通じるものであるが、信仰が、キリストの信仰と同じになるなら神の信仰に実存した揺るぎない「信念」になる。そのため坂道であっても、あえぎつつもしっかりと歩める。しかし、自分の都合によって信じる内容を選んでいるような信仰は、信念とは呼べない。自分に坂道だと感じたり、苦痛だと思うと、正道からそれて脇道に逃れようとするからだ。自分の信念は、主イエスに従う事だと公言しょう。

 † 楽が待ち構える。
  朝のスロージョギングは三年目を過ぎようとしている。毎日やっているわけではないが、一週間に10㎞は走るという目標である。そのお陰でこの一年も健康を守られ、数値はいずれも正常である。体内年齢は我が家の秤では15才も若いと表示されるが、これを鵜呑みにしている訳ではない。さて、ジョギングだが最初に迎角25~30度の坂道になっていて、距離は200㍍位だと思う。一気に心拍数が上がるように感じるが、登り切ると気持ちの良い軽やかさになる。坂に向かって走り出すと身体は苦しみを訴えてくるが、歩きに変えることはない、もうすぐ平坦になる、それまでだと言い聞かせるのだ。何事もこのようではないかとも思う。何事かを始める時、新しい生活、新しい環境、社会人生活の始まり、教会の開拓、新しい交わりの初まりなど、初めは坂道である。付加を感じながらもゆっくりと登り続け、平坦の馳場まで到達しなければならない。「楽」と言うことは怠けられると言う意味ではない。身体が温まり、走りを早めることも、全力で走ることも出来るという事である。霊的・精神的領域では自由が生まれることを意味している。  
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