トップ  > 牧師の想い201610のエントリ

牧師の想い

牧師の想い - 201610のエントリ

「途上の坂道で」(1)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/10/30 9:00
 † 嫌気に襲われるとき。
  私の少年時代(中学生一年)従兄弟の父親が、奥深い山に椎茸栽培の事業をしていた。交通手段の無い時代で、4㎞を歩いてその山の麓(フモト)まで行き、そこから山道を登るのである。小遣いをくれるというので加わった訳である。山の現場では収穫された椎茸があり、それを背負って山を下るのである。肩にずっしりと重みが食い込み辛い下山であった。つくづく嫌気に襲われ、背負っている物を放り出したかった。こういった物理的な体験は、精神的な内面にも共通するものと思う。信仰の途上には平坦な道のみがあるわけでは無い。地上に生きる限り、耳にしていること、目で見ていることが形を変えて私達にも起こる。自分が苦手としている事に取り組むときも嫌気を生みだす。前向きになれず逃げ出したくなる。多くの要求に囲まれたり、めどのつかない仕事に囲まれたりして、過労に倒れ心を病むにいたる事もある。信仰とはそういう自分を客観視出来る事を必要とする。そして、逃げ出す術を心得たい。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」詩46・1)とにかく、肉体的にも精神的にも嫌気になってきたときは、そのまま主なる神の中に逃げ込めばよい。

 † 先が見えない。
  友達で消火器を販売する人が、営業地に一緒に行かないかと誘ってくれた。聞いたこともない所だったが車に同乗した。驚いたことは、どんどんと山間部に、そしてついには一台しか通れない林道の峠を超えてようやく目的地にたどり着いた。三時間ばかりの道のりだった。正直、どこに連れて行かれるのだろうと思った。先が見えないとはこの事である。友達も、こんな場所に来るのに寂しすぎるので、私を誘ったに違いないと思った。「途上」とは、先が見えない事でもある。例えば、私達の教会の未来はどうなるか?誰にもわからない。それは、広い大通りから小道に入り、さらに林道に入るかも知れない。しかし、行くべき道がある。途中であきらめず、坂道で投げ出さず進み続ければ、村に着き、町に通じ、都市に通じているのだ。大事なことは、今の目に映る現実に惑わされないことである。友達に感謝したことは、途上の道は険しく、私には付いて行くしか無かったが、走り続ければ到達すべき所に着くことを学ぶ機会になったことだ。行き先を知らされなくても、アブラハムは、神を信頼するなら出発できること、祝福されることを教えている。 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (670)

「戻るべき座」(7)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/10/23 8:00
 † 主イエスのために。
  世界で唯一の人に出会う,それが人生の伴侶となる人である。そうならない悲恋もあるけれど、夫婦となると言う事は互いが互いのために生きると言う事を表している。この伴侶のために生きるという道義が家庭を築き、社会の根幹を創るものである。そして、夫婦の関係と家族の関係を、ゆがみの無いレールの上に置いて安全に運んでくれるのが聖書である。どうしてそうなるのか、主イエスが夫婦のために、家族一人一人のために最大の祝福と恵みを与えておられるからである。クリスチャンなら、主イエス様が何を私に与えてくださったか知っている。まず、拭いきれない罪とその呪いから解放された。神の光りの中に入れて義の衣を着せてくださった。最大の希望である天国と永遠の命の中に入れてくださった。弱い者を巌の上に立たせてくださったのである。私達の安全は、この救い主イエスのために行う時、家族も、夫婦も、人間関係も経済も祝福されるのである。主イエスのために働くことが、神の栄光を現す仕事となるのである。あらゆることを、主イエスのためすることは、私達の永遠不変の「座」である。日々に更新して行こう。

 † 愛の初心に戻る。
  「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」黙示2・4)人間の世界は、善いことで始まるのだが、悪いことに向かって行く。コリントの教会は、まことにその良い例で、教会の形はしているが中身が世俗化してしまった。聖霊の賜物に満ちているにもかかわらずである。まさしく「愛がない」天の言葉であり、信仰であり、深遠な知識や黙示であり、大きな施しであったが、愛から遊離していた。教会という所では「愛」は形骸化され、愛から離れやすいことを物語っている。可児福音教会も例外では無い。しかし、主を畏れ従うところには「愛」は持続する。「キリストの信仰を信じる信仰」であるなら、あなたの信仰は主イエスの信仰(神の信仰を持つこと)である。この場合キリストと直接的な親密さが信仰となる。キリストの品性に結びつけられる信仰であるから、愛から離脱することは出来ないし、高慢になる事も出来ない。この信仰を可児福音教会の信徒に勧める。愛から外れることは無いはずだ。大切な真理の教えにとどまって「愛が溢れ笑いが絶えない」教会で有り続けて欲しいと思う。 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (619)

「戻るべき座」(6)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/10/16 8:00
 † 誇るべきもの無し。
  誇り高き人だ。と、人々に称賛される人。この場合,本人は全く謙遜で誇っていない場合がある。マラソン選手の有森さんはバルセロナ五輪で銀メダルを獲得、アトランタ五輪でも銅メダルを取られたとき「初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに話された。自分の事を誇りに思う、それが「初めて」だったのだ。お人柄に触れる思いがした。私達クリスチャンの誇りというものの基本について、聖書は次のように求めている「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」エレミヤ9・24)これを引用し「まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです」1コリ1・31)これは日頃の私達の座である。これを外れた生き方をすると人生の根底が崩れる。霊的な誇りがパリサイ人の心にあった「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」ルカ5・11-12)取税人は「自分の胸をたたいて」言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と、主の裁定は「義と認められたのはパリサイ人では在りません」である。私達の誇りが高慢と同義にならないよう努めて注意したい。

 † 人生(業績-手の業)。
  ある方が「俺の人生は鉄砲虫と同じや」と自嘲気味に、よく言われた。鉄砲虫の存在は知っていた。薪割りをすると大きな幼虫がおり、こんがり焼くと滋養豊富な食材となる。カミキリ虫の幼虫で、鉄砲虫の由来は、強烈なあごによって真っ直ぐにトンネルのように食い切って進むからだ。人生が平凡で変哲(ヘンテツ)も無いことを称して「鉄砲虫の人生」と感じて言われたのである。仕事に於ける役職とか、社会貢献とか、人間としてやり手であるとか、そうでないとか、人脈があるとか無いとか、儲けたとか損したとか、運が良いとか運が無いとか、人生を鑑みる時の仕分けとなるが、たいした意味は無い。如何に置かれた人生に誠実に向き合って生きたかが一番大切なことである。上掲の「誇り」に関係するが、自分という限られた容量で、誠実に相応に生きるなら、神の評価(報い)を受けられる。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」1コリ10・12)私達は主なる神によって、それぞれの人生に立っている。自分の了見(考えをめぐらすこと)で倒れないようにする事だ。神の報いを頂くには、自らの手の業を人に知らせるのでは無く、主イエスに預ける事だ「・・・・右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6・3)
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (595)

「戻るべき座」(5)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/10/9 8:00
 † 福音を伝える座。
  教会は何のために存在するか? 人々の幸いのためとか、罪からの救い、永遠の生命のため、神のため、という事が浮かび上がるだろう。それぞれにインパクトはあるけれど、現代人はそれほどギョッとする事もない。さらに、地獄に行かないため、神の刑罰(審き)を受けないため、という事も現代人の感覚ではネガティブで、まともに聞きたくもない事柄となる。私の中で、教会は何のために在るのか?に対して「人間は必ず死ななければならないからだ」と答えたい。人間が死ぬことがなければ教会は本質的には要らない。人間は死ぬから福音(十字架と復活)が必要である。それが私の伝道(宣教)の第一義である。これは現代人に身近で、有効なインパクトがあると確信している。しかし、そのために自分自身が「そのように生きている(実存している)事が重要である。語る事だけの「死」教えるだけの「死」では、その重みがない。説教のための説教や、教えるための教えでは、力あるものとはならない。信じた通りの生き様を「私の福音」として語り、伝えられるべきである。

 † 生と死のための座。
  先日、私達の教会にとってもかけがえのない年若い宣教師であり、牧師が天に召された。今日の午後のテレビでは、追突された車に乗っていた中学生二人が亡くなった。旧約聖書のヨブ記を読むと、7人の息子と3人の娘が一瞬のうちに命を奪われる記事が出てくる。人生は不平等では無いか、と言う思いに駆られる。シリヤでは内戦のために、30万人もの生命(人生)が亡くなっている。死が若くして訪れたり、人生の途上に思わぬ形で死が訪れると、すぐに私達は不幸という言葉に結ばれる。聖書には「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」エペソ6・3)と、長生きが幸せと重ねて約束されているからだ。それでも、地上では多くの不慮の死が絶えることは無い。結論を急ぐならば、生きたいと思うのに死に飲まれた人々は不幸のままなのか。と言う事である。人間の次元は、地上の生命だけでは無い。霊の次元では、時間の長短も無い。老若の差も無い。即ち、地上で若くして「死」を向かえても、神の次元では「彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、・・・・」ルカ20・36)と、いう存在である。私達の神には、生と死による幸せの不公平は無いのである。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (469)

「戻るべき座」(4)

カテゴリ : 
牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/10/2 8:00
 † 地域の座。
  三度目の沖縄となった今回だが、改めて教会の多さに気がついた。尖塔に立つ十字架がいろいろな町に必ずあった。これが本土となると全く教会の存在に気がつかないのは、教会が少ないからである。沖縄は米軍の支配下に置かれた歴史もあり、福音が沖縄に浸透した事も考えられるが、教会の宣教の賜物である。この度も沖縄の永井牧師ご家族のおもてなしを受け、豊かなお交わりを頂いた。大きなビジョンと果敢なお働きに感動した。私達も地域に根ざした教会として、さらなるインパクトを持つ教会になるべきである。地域に揺るぎない存在観を持つ教会となる事は望ましい。今日までの私達は、その事にある意味で成功を収めてきている。私達の教会にしか出来ないことを地域に明らかにしてきた事が「座」それである。人々のニーズに関心を持つ事は、地域のニーズにも答えている事にもなる。もちろん、それは、教会のニーズを満たし成長に繋がっていくのだ。

 † 成長のため戻る所。
  日本では、大教会という現実には、なじみがないのが、私達の環境である。1千人教会があれば大教会である。海外では、万人に達する教会が、いくらでもある。目も眩むようで想像も出来ない規模と活動である。しかしながら、揺るぎない原則があるだ。それは「小さいことにして行く事が、大きくすることになる」と言うことだ。大教会の行う事は、20~30人の小規模教会の、行き届いた人間関係に回帰して、万人を細分化する事なのである。その「座」を創ること事によって、大教会はさらに成長出来るのである。してみると、ビジョンやリーダーシップは、あるべき当然ではあるけれど、それだけでは大教会を維持できず、衰退もあり得るのである。しかし、信仰と教会の原点は、小グルーブに於ける福音の分かち合いと、人間関係の緊密さに置かれているのである。小グループの重要性は、それを導くリーダーの資質が問われる。それは、祈りに祈りて、それは身につく。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (561)
牧師の想いカレンダー
« « 2016 10月 » »
25 26 27 28 29 30 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 1 2 3 4 5
Login

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失 |


top