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牧師の想い

牧師の想い - 201609のエントリ

「戻るべき座」(3)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/9/25 8:00
 † すべてに処する。
  心に常に止めるべき言葉として「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」2コリ6・3)から接続詞で繋がる10節までの内容である。3節にある「どんな人にも躓きをあたえないように」という心遣いが使徒パウロの生き様にある。入獄の中に、石打の中に、むち打たれる中に、暴動や労役の中に、徹夜や断食の中にも「自分を神のしもべとして推薦しているのです」8節)と、言っている。福音の恵みと力を生きる人の、筋を通した生き方に驚く。人々が躓かないようにし、自分が神のしもべであることを推薦する、ためだと語る。今の時代に必要なのは、真実な模範者である。キリストの愛を受け、この愛をつらぬいて生きる事で、神の生命の豊かさを見せられる人である。このような揺るぎない信仰の座に留まりたい。使徒パウロはいう「・・・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」ピリピ4・12)このことを私達にも共有できることを、次節で述べている「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と。ハレルヤ!

 † 祝福を与え続ける。
  自分を含めて感じることは「与えていない」ということである。一番、教えられてきたのに、一番出来ていないことは「祝福を与える」ことである。私の真の貧しさは、祝福しないことと正比例している。キリストにある恵と愛にあって、祝福を与える生き方に徹する座がある時には、溢れる祝福の中に歩んでいる。祝福のためには、祈りの時が必要となり、それが霊的祝福に繋がる。祝福を与える事が意識にもないときは、心的にも沈み、霊的にも精彩が無く、自己関心に捕らわれている。こんな状態だと、主の集いの中で、いかにもその時ばかりのパフォーマンスで、祝福の中にいるように振る舞うのだ。そんなことが当たり前となるならば、教会の集いは儀礼(宗教)と成り下がる。私達は、神の家族と隣人を祝福するために立ち上がろう。喜ばしく主の御名と御言葉をたたえよう。これを座とする時、主イエスはさらなる恵みと祝福を私達の上に増し加えて下さるのである。
 
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「戻るべき座」(2)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/9/18 8:00
 † 常にあるべき信仰の座。
  御言葉を預けられて、多くを語り伝えてきた者として、究極の自分の信仰の座はあるのか?と、思わされた。全てのクリスチャン誰もが、その通りだと留まるべき座とも言えるものだ。そんな時、スポルジョン「朝ごとに」の短いメッセージが目を開いてくれた。詩編112・7「その人は悪い知らせを恐れず・・・・」から語られていた。「クリスチャンよ。悪い知らせを恐れてはならない。もしあなたが悪い知らせに悩むとすれば、未信者よりも劣るからである。彼らは、あなたのように逃れることの出来る神を持たない。・・・・」未信者は、私のように、神が忠実である事を体験していない。私の心は既に天上に生き、地上のことに煩わされない者とされている。それなのに、神を知らない人と同じように、あわてふためくならば、未信者のように不平を漏らし、つぶやき、悪い手段に訴えて困難から逃れようとするに違いない。私の最善の道は「主への信頼と忍耐」に、しっかり立つ亊なのだ。そこにしか神の栄光は現れない。それが救われた者の座である。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」イザヤ30・15

 † 奪い取る座がある。
  気力が萎えることは年齢と共に起こることと考えられる。生理的には、その通りだと思う。しかしながら、主なる神はそのようには見ておられないと思える。ヨシュアに対して言われた。ヨシュア13・1「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」そして、広大な取るべき地を示し「あなたはその地をイスラエルに分け与えて、嗣業とさせなければならない」13・6)と言われた。人間側の理由が問題にされていないのだ。確かにイスラエルを導くモーセは:120才になっていても、若者同然であった。モーセは、なお前進したかったが、主なる神がモーセを止められたのである。ヨシュアには、もっと、あまたの敵から座を奪え、それをイスラエルにわけて与えよ。と、叱咤(シッタ)しておられるわけである。考えてみれば、霊的な意欲や気力は若者や壮年の必然か、と言えばそうとは言えない。どれ程に優秀な賜物を与えられていても、神を畏れ従うより、自らを第一にする者は、神の仰せに従えない。問題は常に主なる神と御言葉を畏れる霊(心)があれば、奪い取る力が伴うのだ。第一に自らを神に捧げるなら、霊的なすべてが噛み合って、主なる神と共に働き、多くの座と宝を奪い取れるのは当然である。
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「戻るべき座」(1)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/9/11 8:00
 † 自然の姿として。
  引き延ばされたゴムは元に戻ろうとする。ごく当たり前の現象である。ふと「元に帰る」とも考えてみた。ゴムは元に帰ろうとする、とは言わないのではないか。戻るという意味合いの方が物理的のように感じる。私達は人として直線的に前に向かって生きている。これは間違いのないことである。その事は「新しい座」を獲得し、さらに上の新しい座を目指して行くことである。自己記録を塗り替えて行くような、評価の向上である。誰もがそういった世界の中にいることを感じているのである。そのために様々なスキル(訓練によって技量を得る)をこなしているのである。それが世の中に生きる当然の姿なのだ。要するにゴムはどんどんと引き伸ばす事が出来る能力を持っているのである。しかし本来のゴムは「元の自然に戻ろう」するのである。偉大な教父、オウガスチヌスが人間の本質を言い表した「神は私をご自身のために造りたもうた。故に私達の心はあなたの懐(ふところ)に憩う(いこう)までは平安を得ない」ここに「戻る」事。全ての人が、この平安を得ること。これが本来の人間の、戻るべき自然の姿なのである。

 † 最も安全な座とは。
  聖書には多くの「王」の名が出てくる、ダビデ王やソロモン王、それに異国の多くの王である。思うに王には「王座」が必ず有り、それは最高の権威と権力の象徴であった。特に聖書においては、主なる神によって王座に就く者が認められた。悪王であっても悔い改めるならば、その王座に祝福があった。王座とは霊的には「憩う所」でもある「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」イザヤ11・10)ダビデ王の「憩う所」は王座であり、エルサレムでもあった。全体から見れば、すべて主なる神の計画と御心によるものである。さて、私達には王座は与えられていないと考えがちである。しかし、主なる神は同じ御心によって「最大の憩いの場所(座)」を、与えておられるのである。復活の主が弟子達に現れた時の最初の言葉は「平安があるようにであった。この平安(エイレーネ)は「欠けのない完全さ」を意味する。今、私達には復活のキリストが、憩う所であり、キリストの愛の中に座する特権を与えられているのである。それで主イエスは言われる「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28)主の優しい御手の中に全身を沈めて憩う事が出来る特権である。
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「負い目と人生」(7)

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牧師の想い
執筆 : 
細江 和弥 2016/9/4 8:00
 † 人間であるが故に。
  人間であると言うことは最高の存在ということである。だからこそ人間である事に問題を感じる。聖書が口を酸っぱくして勧告している「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」エペソ4・24)前節を辿って行くと「ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならば・・・・人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」21-22)が書かれている。救われたけれど、ありのままで生きるならば「古い人」である。しかし「本当にキリストに聞き、キリストに教えられて(生きるならば)新しい人なのだ。何を意味するかは明白である。私達の信仰には目標があるからだ。パウロは言う「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」信徒の共通の負い目とは、今を、パウロのように生きて「新しい人」であり続けること。前に向かう事だ。

 † 信仰にのみ安住する。
  「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」詩27・10)共同訳では「・・・・主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」と訳されている。このような感覚的な御言葉は、主を真に愛して信頼する者にしか言い得ない。私達が「救われた」という過去の出来事に安住してしまい「現在の今」をキリストに依り頼んでいない(実存せず)生きていることは聖書の信仰ではない。長い信仰生活、悪戦苦闘した長い宣教生活の足跡は、確かに主なる神の恵みと憐れみの現実でもあるが、過去の事柄である。私達は今までの自分ではなく、これからの自分を意識して歩み続けることである。唯、ひたすらに「主に取り上げられる」事のみを求める勇敢な信仰の人になる事だ。そのために「父、母から見捨てられ」ても、それほどに真理は偉大で、主イエスの恵みと父なる神の力は現実である。そういった「信仰の人」が少なくなっている。主キリストにありながら「井の中の蛙大海を知らず」では情けない。霊的な大海とは、神を神として信じて歩むことである。そうすれば神ご自身があなたの大海となられ、真理の大海を行き巡らせて下さるのである。私達全員がこのように生きる負い目を持っている。
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